(162)ハネケ映画を通して現代を考える(10)隠された記憶 中編・・・ハネケが希求する脱植民地政策

アールターグドイツ10・ドイツが創る未来への希望1・・自らを封印したメルケルの戦略

ハネケはドイツ市民の日刊紙として定評のある「タッツ」のインタビューで(注1)、「個人的罪について、『隠された記憶』では具体的罪、アルジェリア戦争の無関心が問題となっていますね」という質問に対して、
「この映画の第一のテーマはアルジェリアではありませんが、集団の罪で個人的な罪を黙殺することに胸が痛みました。そのような黒い汚点は何処の国でもあり、オーストリアやドイツも同じです。『隠された記憶』を制作する前パリで開かれたある会合で、映画が世界に知られていないアルジェリア国民の苦しみを表現すべきだと述べる、アルジェリア問題の専門家がいました。私は映画の台本を書く際そのことを全く忘れていましたが、テレビの記録映画を観た後マジェットの物語にたどり着きました。その記録映画では1961年パリでのアルジェリア戦争蜂起が映され、200人のデモ隊が警察によって撲殺され、死体がセーヌ川に投げ入れていました。フランスはリベラルな新聞を持っているにもかかわらず、誰もそのことについて書かず、私には今日まで理解できません」と述べている。
実際フランス人にとってアルジェリア戦争は、たとえ心の奥底に疚しさがあったとしても恥じるべきものではなく、前のフランス大統領サルコジは「フランスは歴史を恥じる必要はありません。フランスは民族大虐殺を行ったことは一度もありません」と胸を張って演説し、さらにフランスの植民地政策は教育、医療、インフラの恩恵を与えただけでなく、人権を生み出したと述べ、現代の植民地政策である新自由主義の新重商主義推進を訴えている。
しかしベトナムアルジェリアなどの植民地で行った搾取と支配のための民族大逆殺は生の映像を見るとき否定できない事実であり(注2)、現在も本質的に解決されていないだけではなく、新重商主義と名前を変えて継続されている。

そうしたことを踏まえてインタビューアは、「あなたの映画は絶えず暴力機構をテーマとしており、それがメディア批判と結びついています。『隠された記憶』はそれに対してむしろ社会的緊張を描いていますね。秋に起きたパリ郊外の騒乱(2005年10月27日の移民地区暴動から非常事態宣言に拡大)を通して映画は全体的に時局性を勝ち得ましたね」と質問している。
ハネケは、「私にとってそれは実際新しいことではありません。社会的騒乱での同じような写真や新聞騒ぎは既に数年前にもあり、これからもしばしばあるでしょう。何故なら彼方此方で煮立つ全く未解決な問題だからです。政治家は解決する方法を知らないことを押し潰しています。私はそのような問題が生じるとき、いつも唖然とします。私は、9.11後世界が異なってしまったと皆が言った時唖然としました。しかしそのように見えるのは非常にナイーブな人たちだからでしょう。私にとって世界はその前と全く同じで、騒乱でも同じです。問題なのはフランスを悩ませる植民地政策が古い遺産であるにもかかわらず、そのための解決策が全くないことです」と返答している。
さらに「人間の精神状態と国家の安全性措置が変化していますね」の質問に対して、
「そうですね、しかも当然のことながら間違った方向に向かっています。問題に立ち向かう代わりに、人はそれと立ち向かわないように問題を出来うる限り避ける方法を求めています。それは再び全体主義国家の試みへ益々導くものです」と述べている。
そして『隠された記憶』で扱われたテーマへの具体的な解決法として、個人や集団(国)が犯した罪を自由に曝け出して語ることから始めなくてはならないと述べているが、現実的な難しさについても自らを曝け出して次のように述べている。
「移民法(移民を厳しく制限する法律)がつくられないことに賛成ですが、誰かが私のところにきて、私が移民の家族の身元を引き受けるどうか尋ねても、本質的には引き受けられません。背に腹は代えられず、私も大抵の人たちのように非常に小心で怠惰です」
しかしラストの息子ピエロの共犯からは、そうしたハネケの小心で怠惰を卑下するにもかかわらず、未来への解決として脱植民地政策の希求が見えてくる。

アールターグドイツ10・ドイツが創る未来への希望1・・自らを封印したメルケルの戦略

ドイツ連邦選挙ではキリスト教民主同盟が、2009年の大勝利を大きく上回り7,7パーセント投票率を伸ばし41、5パーセントの高い支持率で政権を維持した。
しかし昨年の今頃は、誰もが社会民主党緑の党の赤と緑の連立政権を予測していた。
何故なら2009年の大勝利後黒と黄色の連立政権は、新自由主義推進と企業要請で原発運転期間28年延長を求めたことから激しい反発受け、2012年5月までの10ほどの州選挙で全敗していたからである(ザランド州は黒と緑の連立で辛うじて政権維持)。
特に2012年5月のノルトライン・ヴェストファレン州選挙では大幅に支持率を落とし26,3パーセントの支持しか得られず(前回選挙の8、3パーセント減)、赤と緑の連立を許している。
このようなキリスト教民主同盟の危機を救ったのは、メルケル人気に他ならない。
それは党の圧倒的多数の議員が原発運転期間延長を求めるなかで単独で脱原発を実現し、2012年12月の党大会では「万人の幸せ」を掲げたアデナウアーの原点に返り、国民への奉仕を最優先する「万人へのチャンス」を掲げたメルケルに、信頼と同時に未来を期待したからである。
もっともそのようなメルケル人気は初めからあったものではなく、脱原発宣言でのメルケルの戦略が明らかになるにつれて膨らんで行ったものである。
それまでは私自身も、ZDFフィルムなどでメルケルが議会で「原発運転期間延長は必要だ」と明言していたことから、メルケル批判者が呼ぶようにカメレオンもどきと思っていた。
しかしそれを変えたのは2011年5月30日の脱原発宣言であった。
メルケル福島原発事故後にすぐさま倫理委員会を招集し、この倫理委員会の報告書「ドイツのエネルギー転換―未来への共同事業」の5月28日提出で、電光石火のごとくなされたものであった。
倫理委員会のメンバーは、委員の一人でもあり私自身もベルリン自由大学で講義を受けたミランダ・A・シュラーズによれば、既に倫理委員会招集時に脱原発の結論が方向付けられおり、25名委員の要の10名の委員はメルケル自らが選び、残りの15名の議員は彼女の信頼するクラウス・テプファー(メルケル環境大臣の前任)が選び、最初から脱原発を実現するメンバーが選ばれていた。
しかもその議論過程を長時間に渡ってドイツ全土にテレビ公開し、議論が終わる際にはキリスト教民主同盟の支持者さえ圧倒的多数が脱原発に傾いていた。
そうしたなかでは、4大電力企業と太いパイプを持つ多数の議員も反発できなかったというのが実情である。
このような電光石火の実現は、メルケルに以前から脱原発の意思なくしては不可能であり、メルケルが1994年に原発に全責任を持つ環境大臣を歴任し、東ドイツ科学アカデミーの物理学者の経歴から原発の危険性を感じていたからであろう。
それはメルケルが首相就任後、強く脱原発を力説するオラーフ・フォマイヤー教授を首相直属の政治顧問にしていることからも明らかである。
すなわち議会では原発運転期間延長が党の決定であることから、必要性を明言していたが、本心は脱原発のチャンスを求めていたと言えよう。
そのように自らの本心を封印して政治を実践する背景には、東ドイツの少女時代の体験がある。
彼女の父ホルストハンブルクプロテスタントの牧師をしていたが、1957年に東ドイツブランデンブルグ州の都市テンプリン(Templin)に移住した。
ウィキペディアの記述ではDDRに信任された会派に属し、西側に旅行できる特権が与えられていたとなっているが、実際は厳しく監視されていたことも事実である。
それはZDFの先月8月13日に放映した『政権党首メルケル』を観れば明らかであり、彼女の父ホルストは教会とDDRの平和的共存を主張したことから組織批判者として扱われ、家族も厳しく監視されていたことが証言などで描かれていた(次回字幕付動画掲載予定)。
そうした厳しい環境で育ったことから、フィルムのシュピーゲル編集者も「自分の本心を言うことは危険であることを身をもって学んだ」と明言している。
そうしたメルケルの選挙での公約は必見すべきだろう。

大勝利したメルケル政権は自由民主党FDP が議席を失ったことから、社会民主党との大連立協議を開始している(大連立が決裂すれば、可能性は低いが緑の党との連立もあり得る)。
最大の問題点は、メルケルキリスト教民主同盟は支持者に裕福層が多いことから、現行の最大税率42パーセント(5万3000ユーロ以上の年収者)維持を公約してきたが、社会民主党は高額所得者に対して最高税率49パーセント(10万ユーロ以上の年収者)の増税を掲げており妥協は容易ではない。
メルケルは「万人のチャンス」を掲げ、強者が弱者を助けるドイツを希求していることから、本心は裕福者への増税は願ったり叶ったりであり、興味津々である。



(注1)http://www.taz.de/1/archiv/archiv/?dig=2006/01/26/a0226

(注2)フランスが犯したアルジェリア人無差別大虐殺
http://www.youtube.com/watch?v=V1Iby6VIlIo
戦争の世紀の終わりに
http://www.youtube.com/watch?v=7szAnv6bcVc