(187)地域分散型自給社会が創る理想世界への道4・・ドイツがエネルギー転換と平和へ突き進む理由(何故日本は再び戦争に向かうのか)


今問われる「なぜ日本は戦争に向かったのか」

ドイツのベクトルはエネルギー転換、そして限りなく平和に向けられており、2050年に向けて突き進んでいる。
もっとも、ドイツの国民が日本の国民と異なっているわけではない。
実際ドイツでは何処へ行っても、ネオナチのような極右のグループを見かけ、私自身も「日本へ帰れ」と言われたこともある。
一般のドイツ国民も何か事があれば、大きく右に振れる。
例えば2012年ギリシャ金融危機の際EUの債務で苦しむ国々からユーロ共同債を求めらると、大衆誌“ヴェルト”は「ホロコーストを償うためユーロ共同債で支払うのか」という見出しで取り上げ(2012年5月22日)、ドイツ連銀理事ザラツィンの著書『欧州はユーロを必要しない』の主張、「すべてのドイツのお金を欧州に渡した時始めてホロコーストと大戦の贖罪が終わる」というドイツ的条件反射批判を載せていた。
この際一部の人たちを除き、ドイツ国民の大部分がユーロ共同債に反対するだけでなく、ドイツ的条件反射批判に賛同して大きく右に振れていた。
それにもかかわらず、ドイツは右でもなく左でもなく、何故絶えず理想に向けて突き進むのだろうか。
その理由を一言で言えば、戦後のナチズムの反省が言葉だけでなく、二度と繰り返さない仕組に刻印されたからだ。
第一に、時流に左右され易い国民感情を考慮して、ドイツ基本法第一条「人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束」及び第二十条「国家秩序の基礎、抵抗権」の条項は、たとえ連邦議会及び連邦参議院で3分2以上の議員賛成があったとしても、改正が一切認められていない。
すなわちドイツ基本法には、ナチズムの独裁社会や秘密警察シュータージの監視する全体主義社会を未来永劫招かない仕組みが組み込まれている。
そこでは、「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という戦う民主主義が求められており、1994年から「ホロコースト否定」は刑法で明確に禁じられ、違反者は民衆扇動罪で処罰されている。
第二に、ハイパーインフレなどでナチズムを生み出した無謬神話に基く、国民の幸せより富国強兵と殖産興業を優先する官僚制度が問われ、権限の委譲で現場の官僚一人一人に決裁権が与えられたからだ。
それは、従来の稟議制を廃止し、官僚一人一人に決裁権を与える事で、厳しく責任を問う革命的な制度刷新であった。
したがって行政訴訟では、住民の殴り書き程度の簡素な請求で審査がなされ、行政側に全ての書類を行政裁判所に提出することが義務付けられている。
もちろん行政側には、行政記録だけでなく陳情者や業者訪問に至るまで厳格に記録を残すことが求められている。
そのような官僚制度の革命的刷新では、最早官僚は自らの組織利益や産業利益のために国民を支配するものではなく、国民に奉仕する文字通りのパブリックサーバントと言っても過言ではない。

例えばドイツの脱原発では、最終的決断をしたのはメルケル首相であったが、その下地を築いたのは原発に関与する各部門の官僚たちに他ならない。
具体的には連邦環境省(BMU)の部局である放射線防護局(BfS)は、1980年より16の原発周辺地域5キロメートル以内で疫学調査を開始し、2007年12月に2003年までの調査結果で、5歳以下の子供の白血病や癌にかかる確率が原発のない地域の子供に較べて、小児癌で約60パーセント、白血病で約100パーセント高いことを報道している(BfS:Pressmitteilungen:12.2007)。
このような疫学調査の開始や結果の報道は、たとえ時の政権が原発推進であっても、住民の疫学調査請求を無視したり、結果の報道を公表しなければ、将来行政訴訟で責任が問われるからとも言えよう。
2010年メルケル政権が巨大電力企業の圧力で原発運転期間を28年間延長し、原発推進へ舵を切ろうとした際、その過ちを強く指摘したのも各部門の責任のある官僚たちであった。
すなわち2010年7月に放映された公共放送ZDFフィルム「大いなるこけおどし・・・原発政策の間違い」では、責任を担う官僚たちが積極的に出演し、原発運転期間延長の政策が間違った政策であることを強く指摘している。
(ヴォルフガング・レネベルク、2009年まで連邦原子炉安全局局長)
私は安全性の理由から、古い原発を設定された期間以上運転することは、無責任だと思っている。何故なら、ドイツの全ての原発は今日申請許可が得られるものではないからだ。
(ボルフラム・ケーニヒ、放射線防護局局長)
ゴアレーベンのような一つだけの最終処分場カードを切ると、実質的には10年から15年の長いプロセスの終わりに、すなわち原子力の計画確定作業の終わりに、安全性の裏づけが得られないということが明らかになれば対処できない。私たちは、政治が選んだやり方を理解できない。
(ヨアヒム・ヴィランド、法務局憲法裁判官)
脱原発合意が解約されるなら、すなわち飛行機墜落を防御できない古い原発の操業許可が延長されるなら、国家は市民を守る防御義務に違反する。
(オラーフ ホォフマイヤー、環境事務局メルケル首相政府顧問)
脱原発からの下車は、明らかに巨大電力企業に長期に渡って好意を約束したものである。それは内容的に全く馬鹿げており、エネルギー政策的に全く間違った決定である。
私たちは脱原発を、さらに徹底して実現していかなければならない。原発の長期運転は必然的により高い収益をもたらす。しかし必然的に安い電力料金にはならない。もし私たちが底なしに向かう原発の運転期間を延長するというシグナルを与えるなら、それは同時に再生エネルギー源の基盤による持続的な電力供給を本質的に望まないというシグナルを与えることである。その限りでは、このシグナルは全く致命的である。

このようにドイツでは、国民に責任を持つ官僚たちが国民への責任を果たし、絶えず理想に向けて舵を取っている。
これに対して日本は戦後も明治以来の無謬神話に基ずく責任の所在のない官僚制度を継続させ、議会に左右されない官僚支配で再び興隆させ、今再び過去の過ちを繰り返そうとしている。
日本の議会政治が官僚に丸投げであることは、脱官僚支配を掲げた鳩山政権で開示された1960年の「核の持ち込み」の密約や1970年の「核保有を求めた西ドイツとの極秘協議」からも明らかである。
すなわち時の政権首相はこれらの事実を知らされていたにも関わらず、容認せざろう得ない背景には、日本の議会政治は形式に過ぎず、政権の政治すべてが官僚に丸投げされていたからに他ならない。
それは日本の戦前からのハンセン病隔離隔離政策が、戦後当時の厚生省医務局長東龍太郎によって特効薬プロミンによる完治で廃止を求められたにも関わらず、無謬神話を継続するために戦後50年以上続けられてきたことからも明かである。
またエイズでの非加熱製剤容認の恐るべき犯罪は、サリドマイド薬害、スモン薬害、クロロキン薬害など国の責任を問わない制度の必然的結果でもあり、そこでは官僚一個人の良心など全く歯が立たない。
そして今、福島原発事故で原子炉3基の炉心溶融という大惨事に関わらず、責任の所在のない日本の官僚支配は原発ルネッサンス推進だけでなく、ベクトルを限りなく再び戦争に向けて走り始めている。(注1動画)。

都知事選挙が持つ意味
現在それを変える一つのチャンスが、猪瀬知事の辞職で訪れている。
今回の選挙では脱原発が争点になりつつあり、それを望む勢力を土壇場で結集できれば、ドイツのように日本のベクトルをエネルギー転換、そして限りなく平和に向けていくことも可能である。
何故ならアベノミクスというプチ経済バブルも終焉を迎えつつあり、国民の多くは脱原発、平和を希求しており、勢力の結集ができれば、ドイツのような道も開かれるからだ。


(注1)NHKスペシャル「日本はなぜ戦争に向かったのか」を観れば、それが理解できよう。
第2回 巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム http://www.at-douga.com/?p=8714
第3回“熱狂”はこうしてつくられた
戦中編 http://v.youku.com/v_show/id_XMjk1NjQ0MzYw.html