(298)世界の官僚奉仕を求めて第8回官僚奉仕の切札は太陽(3)悪の凡庸から善の凡庸へ(映画『日独裁判官物語』が投げかけるもの)

既に述べたようにドイツの革命的民主主義は、フランス革命ロシア革命のように短期に起きたものではなく、十数年に渡って熟成され(ナチズムを生み出した反省から誕生した基本法で司法を行政から完全に独立させ、弱者を支援する社会的市場経済を実施しましたが、日本と同様に高度成長が戦前の格差社会を徐々に復活するなかで日本とは逆に徹底した民主主義が求められ)、60年代初めから教育などで民主化が活発化して行き、行政から完全に独立した司法が機能することで官僚奉仕を実現したと言えるでしょう。
すなわち60年に始まる司法改革の行政裁判法(1960年1月21日発行)では(注1)、行政当局の全ての記録書類の提出を義務付け官僚一人一人の裁量権行使の責任を問うことで官僚を市民の奉仕者へと変え、さらに60年代後半における高座の裁判官を傍聴人と同等の席の高さまで引きずり下ろし、傍聴人と隔てる柵が取り払うことで、上のフィルムで語られているように裁判所さえも市民のサービス機関に変えて行きました。
まさにそれは裁判官も一般市民としてみており、「裁判所は市民のサービス機関でなくてはならない」の実践であり、官僚奉仕が徹底される社会ゆえに実現できることです。
ファーストシーンの最高裁判所建物の比較では、日本の最高裁判所はまるで太陽に翳されることを避けるかのように殿堂の石づくり構造で神格化が求められていると言えるでしょう。
これに対してドイツの最高裁判所(連邦憲法裁判所)は、最大限太陽を翳すことを目標とするかのようにガラス張りの軽量鉄筋構造で、市民のための市民の裁判所を象徴しています。
しかもドイツの最高裁判所判事は日本のように血税の黒塗りの車で送迎されるのではなく、このフィルムのように自らオートバイなどで通勤することが当たり前です。
もちろん裁判所の撮影もドイツでは当事者(原告と被告)の許可さえあれば、裁判自体さえ自由であり、裁判所の撮影は透明性と市民サービス機関であることを啓発するために推奨されています。
それが出来るのは、戦前のドイツの官僚支配が戦後完全に官僚奉仕へ転換されたからに他なりません。
これに対して日本の裁判所は撮影は許可なくして問答無用に全面禁止されており、最高裁に協力しない裁判官は、すなわち官僚支配の司法に従わないものは、冒頭から登場する元裁判官の梶田英雄弁護士が述べるように、任地、給料、最高裁から家裁裁判長の配属で、明らかに人事的不利益を被ることになります。
それは、戦後市民から民主的と称される判決を下した裁判官が受けた不利益な人事を見れば明らかです。
すなわちごく最近では、福島原発事故を真摯に受け止めて、大飯原発、高浜原発地裁で、「しかるに新規制基準に適合しても、原発の安全性は確保されていない」と再稼動を認めない判決を下した樋口英明裁判官が、国民の6割以上が再稼動に反対し樋口判決を評価しているにも関わらず、定年3年前に名古屋家裁に見せしめを誇示するかのように左遷移動させられたことからも明白です。
このフィルムでも映画終了後にそれを訴えており、日本の司法がドイツに比べて、余りにも行政に依存し、閉鎖的であることから、法曹関係者6000人が日本の民主的司法改革を求めて、一人1万円を寄付して制作されたことを記しています。
また今年2016年3月この映画がネットで無料で公開された背景には、日本の司法の見せしめ強化だけではなく、立憲主義を無視して平和憲法を葬ろうとする官僚支配への危機感が感じられます。
そのような視点でこの映画を見れば、ドイツは戦後基本法で定められた自由と公正、そして人間の尊厳が尊重され、国民の基本的人権が厳守される社会実現に努めてきたにも関わらず、それに違反する行政への500回以上もの違憲判決が何を意味するのか理解できるでしょう。
しかもドイツの連邦憲法裁判所の女史長官は、そのことを誇りにして話されています。
日本の最高裁では殆ど違憲判決がないだけでなく、根幹に関わる問題に対しては絶えず政治の問題だとして判決を拒否して来ました。
また日本の裁判官は見せしに脅かされているだけでなく、絶えず移動させられ、月80時間を超える激務をこなさなくてはならず、ドイツの裁判官の市民的自由などまったく問題外です(ドイツに比べて裁判官の数が10分の1ほどと余りにも少ないからです。但しドイツの裁判官のように共稼必要としないほど市民とはかけ離れた待遇を与えています)。

私のようにゴルフ場開発反対運動に関与した「関川公金不正支出」の行政訴訟に参加し、(裁判官の激務から月に1度か2ヶ月に一度しか開かれないことから)地裁の判決さえ6年間も要し、高裁への上告も殆ど検討されることなく棄却されることを経験した者には、如何に日本の司法が政府行政を守るためにあり、市民の訴えを合法的に退ける役割を果たしているかを思い知らされました。
既に述べたように、ドイツでは行政記録が手紙から面会詳細に至るまで残すことが義務付けられ、行政訴訟の際行政が全て提出を求められることから、行政訴訟では弁護士の必要さえなく、遅くとも数ヵ月で判決されるのが常識であり、書類作成という手間もなく口答でも受付可能なことから、現在でも市民の行政訴訟は毎年数十万件にも上り、勝訴率も10%を超えています。
それに対して日本では2000件足らずで、多大な労力と費用をようするにもかかわらず殆ど勝てないのが実情です。
そうした中で裁判官の市民的自由など日本では問題外で、考えられないことです。
ドイツでもナチス政権化では同じであり、裁判官は中立性と神格化が求められ、(官僚支配丸なげの)ナチス政府への全面的追従が強制されていました。
すなわちドイツでは中立性が権力に服従させる手段となった苦い経験から、行政に精通している裁判官、さらには全ての公務員(官僚も含めて)の職務を離れた際の政治活動などの市民的自由を自由を認め、休暇申請で連邦議員や州議員立候補を保証し、夕方もしくは休日に開かれる市町村議会の議員では公務員職と兼任することを認めるだけでなく、積極的に奨励されていると言えます。
市町村議会の議員報酬は殆ど日当程度ですが、地域の暮らしを良くしたいというボランティア精神が溢れ、半数近くが裁判官、教師、市町村職員であることから、日本のように利権との関与も聞かれず、公正で市民利益を求める政治の原動力と言えるでしょう。

それに対して日本は、ドイツで革命的民主主義が開花する1960年頃には、高度成長を足がかりに戦前の官僚支配が復活して行き、民主主義の柱とも言うべき教育基本法が実質的には形骸化され、無借金の健全財政から国債発行の借金財政へと再び利権を肥大させ、本質的な民主主義が失われてて行きます。
そこではハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で指摘したように、「官僚制とは法支配を無視する政令による支配」であり、戦後の「核持ち込みの密約(鳩山政権で検証報告公表)や「70年のドイツに共同核保有を求めた極秘教義(NHKスペシャル『核を求めた日本』検証)」、さらには水俣病処理やエイズ被害者発生の原因である非加熱血液製剤警告の無視から、福島原発事故後の反省なき再稼動や沖縄民意無視の辺野古基地建設に至るまで、責任の所在が問われない匿名の政令によって遂行されています。

そのような官僚支配は国だけでなく東京都でも既に青島知事の臨海開発でも横行し(注2)、今回の築地からの豊州移転でも法による支配が全く無視され、責任が問われない匿名の政令で遂行されたと思われます(東京だけでなく全ての都道府県の行政で政令が支配しています)。
それは既に指摘しているように、関与者全てがウインウインの利益が得られるからです。
損をするのは血税を支払い、健康が脅かされる都民、そして将来世代に他なりません。
それを打ち破る鍵はこの映画が訴える司法の独立であり、行政訴訟がドイツのようになれば、「悪の凡庸」の官僚支配から「善の凡庸」の官僚奉仕へと自ずと変化します。

(注1)ドイツ行政裁判法(1960年発行)のドイツ語PDF
http://www.gesetze-im-internet.de/bundesrecht/vwgo/gesamt.pdf
§ 99   (1) Behörden sind zur Vorlage von Urkunden oder Akten, zur Übermittlung elektronischer Dokumente und zu Auskünften verpflichtet. 第99条(1)行政当局は記録文章や書類、電子化した記録、情報の提出義務がある。

(注2)「臨海副都心開発−なぜ開発は継続したのか」日本学術振興会 砂原庸介(PDF)
http://www.geocities.jp/yosuke_sunahara/research/2006tosei.pdf
結論として一旦動き出した臨海副都心開発計画は、「過去の(自らの)決定に拘束されないアクターが存在しない限り実質的な見直しが行われる可能性が非常に低くなることが示唆される」と控えめに書かれていますが、現在の官僚支配の下では動き出した政令八ッ場ダム中止宣言に見られるように止めることが不可能と言えるでしょう。