(320)時代の終わりに・危機と希望(4)・沖縄からの叫びと希望(4)

危機と希望(4)ファイクが拡散する本質的原因

今回の円卓討論ではヨーロッパの入国制限の自己正当化から始まり、イスラムテロのフェイク(もう一つ別な事実)ニュースが拡散し、民主主義そして政治が大衆迎合的に進んでいることを、「ビルド」編集局長のユリアン・フェルトから指摘されます。
またトランプとプーチンの協働が議論されますが、イラン問題、シリア問題、そしてポーランドルーマニアなどのロケット防御システムが断念できない理由から、二人が望むとしても協働する可能性が殆どないことが指摘されます。
そうした展開なかで私の心を捉えたのは、「ビルド」編集局長の「民主主義では、事実であるものに対して合意を与えるべきであり、そうすれば事実に基づいて意見を言うことができます」という主張でした。
実際既に世界ではフェイクニュースがグローバルに拡散し、もう一つ別の事実フェイクが市民権さえ持ち始めようとしています。
すなわちフェイクニュースを弁護する側からすれば、“もう一つ別な事実”は真実と異なるものであってもかまわず、大衆の要望を代弁し満たすなら、容認されるべきであり、その自由を奪うことこそ問題であると主張し、それが現在では市民権さえ得ようとしています。
これに対してフランスのジャーナリストたちはクロスチェク(30を超える報道企業が参加する団体)を立ち上げ、その日のフェイクニュースと疑われるニュースを取り上げ、検証を始めています。
何故ならそれを放置すれば、「ビルド」編集局長が言うように、社会が大衆迎合的に壊されて行くからに他なりません。
またドイツでは、今年始めフェイクニュースを法律で厳しく取り締まることを決め、報道された4月5日の閣議決定では、SNS(ソシアルネットワーキング)運営会社がフェイクニュースなどに悪用された場合24時間以内の削除が求められ、最大5000万ユーロの罰金が科せられるとしています。
そのような厳しい措置に、新自由主義の世界からは言論弾圧という声が聞かれます。
しかしドイツのように「ホロコーストはなかった」と言うだけで犯罪となる「戦う民主主義」が行渡っている国では、SNS運営会社の責任が問われることは当然と言えるでしょう。
すなわちドイツでは戦後ナチズムの反省から二度と独裁政治を復活させないため、司法を政府から完全に独立させ違憲審査権を与え、裁判所は市民のサービス機関であることが求められ、裁判官も核反対運動などに市民参加するほど民主主義が開かれてています。
それは既に私のブログで述べたように、市民が安易に毎年数十万件の行政訴訟を起こすことで官僚を市民奉仕に導き、あらゆる審議会の委員が国民の選挙投票割合で決められるほど開かれているからです。
それゆえ間違った事実の表現の自由は、国民の自由を侵害するものとして厳しく取締まることができ、独裁政権誕生を許さない「戦う民主主義」が機能していると言えるでしょう。
しかし討論でも指摘されているように、一昨年100万人を超えるシリアからの避難民を受入れたドイツは内政危機を招き、事実上の制限によって昨年の避難民を激減させています。
すなわちトルコとの協定でトルコ国境に避難民宿泊施設を設けることで、討論では「避難民を力尽きさせている」と指摘されています。
そのような問題は、ドイツだけの「戦う民主主義」では限界があるのも事実であり、本質的な問題が解消されて行かなくてはなりません。
それはフェイクニュースの世界に拡散する原因が、人々の不満の溢れている現実にあるからです。
具体的には世界の99%が益々貧困へと没落して行く現実です。
すなわち有限な化石燃料を基盤とする産業社会では、それに反して無制限に富の獲得競争が求められ、益々ひと握りの人たちに集中する弱肉強食の生き難い世界になっていくからです。
まさにそれが日本では戦前の軍国主義を美化する政権を誕生させ、アメリカでは利益第一主義を掲げて世界戦争も厭わないトランプ政権を誕生させたと言えるでしょう。
同時にそれは、化石燃料産業社会という時代の終わりを示唆しています。

沖縄からの叫びと希望(4)映画『標的の村』に見る日本の未来(絶望から湧き上がる希望)

この映画が(臨場感を再現した劇場版は91分)訴えるのは、県民の反対意思を無視したオスプレイ基地建設に、地元住民が生存権を奪うものとして道路に座込んで反対を表明するだけで、道路交通違反で逮捕される事実である。
それは、戦争に反対するだけで逮捕される強権国家の未来でもある。

しかも監督の三上智恵さんは琉球朝日放送のアナウンサーでもあり、民主主義国家日本の恐るべき事実が全国の報道では殆ど黙殺される事実に言及し、動画「黙殺された抵抗」で自ら制作した気持ちを吐露している。
三上さんは、(国家が露骨なSLPP裁判で非暴力の抵抗もなぎ倒していくなかでは)その抵抗を歴史に留めて置くだけで、抵抗に前向きな気持ちはないと、絶望的に自らの思いを述べられている。
しかしそうした一筋の希望さえ見えない絶望を感じている人が、この映画を制作したことに希望を感じないではいられない。