(326)時代の終わりに(10) 直近のドイツニュースに見る予兆(2・トルコ独裁に見る共謀罪)・沖縄からの叫びと希望(10・代弁する劉暁波の願い)

直近のドイツニュースに見る予兆(2・トルコ独裁に見る共謀罪

ドイツ子供ニュース(ZDF logo!)が、7月10日から7月24日までの僅か2週間で4回も、「トルコ独裁」ニュースを取り上げていることは注目すべきことである。
もちろん注目すべき出来事が生じたからであり、トルコでは昨年7月15日の軍のクーデター未遂後、それを利用してエルドアン大統領が権力を強化し、政府に異を唱える教師、裁判官、ジャーナリストの職を剥奪しただけでなく、政府を批判する人たちをテロリスト容疑で逮捕し、投獄するという独裁が急速に進行している。
それは、この6月に十分な審議なしに数の力で採決された「共謀罪」法が、戦前のように治安維持法として利用され得る恐ろしさをまざまざと見せつけるものである。
ドイツ子供ニュースが必死に子供や若者に訴えるのは、二度とナチズムのような独裁国家を起こしてはならないという責務からであり、ドイツ周辺の国々だけでなく、アメリカにさえトランプに見るように独裁国家への気運が高まっているからでもある。
それ故7月20日に放映された「ポーランド独裁の司法支配」でも、司法支配によって独裁への道が昨年から急速に進行していることを訴えている。
もっともドイツにおいても、グローバルな経済支配が進行するなかで、完全な報道の自由があるわけではない。
天安門事件民主化運動の指導者として世界に轟かし、2008年12月に出した「〇八憲章」で共産党一党独裁体制の廃止など民主化を訴えて拘束されていたノーベル平和賞受賞者劉暁波が7月13日に死去したが、ドイツの子供ニュースでは取り上げなかった。
13日の一般向けのZDF今日のニュースでは、下に載せたようにノーベル平和賞受賞者劉暁波の死去を報道しているが、日本の公共放送NHKの報道と比較しても見劣りするものであった。
私がベルリンで暮らしていた2008年頃、公共放送ZDFの中国批判は激しく、当時起きたチベット騒乱に人権侵害として連日のように報道し、1951年の中国のラサ占拠の映像を通して中国の侵略を問うまでに、ゲレヒティヒカイト(公正)を求めるものであった(2007年にダライ・ラマと公式会見したメルケルは、その後彼を信奉すると伝えられ、逸速く北京オリンピックボイコット宣言を出すほどエスカレートしていた)。
しかし中国からのZDF及びドイツ政府への抗議も激化し、さらには中国への輸出で莫大な利益を得ている自動車産業の圧力もあり、中国に対してドイツ政府が「対立よりも対話」政策を採らざるを得なかったように、ドイツの報道機関も自制に追い込まれて行った。
「戦う民主主義」を掲げるドイツの報道機関にもそのような事情があり、日本でポーランドやトルコの独裁が殆ど報道されないのも、それなりに事情があることは確かである。
しかしそのような事情が、報道自由による公正さの追求を制限し、世界を独裁へと導いていることも確かである。
もっともドイツでは、報道の自由を自制に追い込む経済圧力に対して、ドイツの最も誇りにする自動車産業の5大巨大企業、メルセデス・ベンツフォルクスワーゲン、ポルシェ、アウディー、BMWカルテル不正(7月25日)、ジーゼル排気ガス不正(7月28日)を子供ニュースでも最初に掲げて、公正を訴えており(次回転載)、たとえ自制機能を余儀なくされているとしても、ドイツ報道には「戦う民主主義」が感じられる。



沖縄からの叫びと希望(10・代弁する劉暁波の願い)

上の動画に聞く劉暁波の願いは、沖縄の叫びと願いを代弁している。
最後の言葉を書き出せば、
「・・・、私は望んでいる。私の国が表現の自由のある場所となり、ひとりひとり国民の発言が等しく扱われることを。そして、異なる価値観、思想、信仰、そして、政治的な考え方が共存できるようになることを。 私は望んでいる。多数意見と少数意見がともに等しく扱われることを。とりわけ、権力者と違う考え方であっても、十分に尊重され、守られることを。私は望んでいる。この国で、あらゆる政治的な意見が公に語られ、国民が選択できるようになることを。すべての国民が全く恐れることなく、みずからの意見を表明することを。そして、当局側と異なる意見だったとしても、政治的迫害を受けないことを。私は望んでいる。私が、中国で、文章を理由に、刑務所に入る最後の被害者となることを。そして、今後、言論を理由に罪とされる人がいなくなることを。表現の自由は、人権の基礎であり、人間性の根源であり、真理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することである。 憲法に与えらえれている言論の自由という権利を行使し、1人の中国国民として社会の責任をまっとうするにあたり、私のいっさいの行為は罪にあたらない。たとえこのために非難されようともうらみはない」
まさに劉暁波の願いは、沖縄の民意を尊重する沖縄県民の願いでもある。
沖縄県民にとって、日本の民主主義は上辺だけで独裁に近いものである。
ポーランド独裁の司法支配」に見るように、日本の民主主義はヨーロッパの基準から見れば独裁に近いことは明白である。
何故なら最高裁判所の裁判官は政府によって決められ、裁判官自体も法務省に人事権を通して管理されているなかでは、民主主義の根幹である司法の独立など全くないと言えるからだ。
それでも、繰り返し国と法廷で争うことには意義がある。
名護市辺野古の新基地建設を巡って沖縄県が、岩礁破砕許可の期限が切れたにもかかわらず、政府が新たな許可を得ることなく工事を進めていく暴挙に対する戦いは、五度目の県と国との法廷での異常な戦いであり、その過程で民意を尊重しない政府の独裁を世界に訴えていくことは、劉暁波の戦いでもある。