(377)違憲審査法廷創設(最終回)沈みゆく日本の危機をチャンスに変えるために・人間メルケル(最終回)地球を救う母への意欲

沈みゆく日本の危機をチャンスに変えるために

 

前回述べたように気候変動は現在の切実な問題であり、私の住むところでは地震や洪水はないところであるが、山麓なこともあって風が強く、最大風速60メートルを越える巨大台風の到来が益々頻繁になって行けば、何れ直撃は免れず、ガラスや瓦が飛ばされ、本体の家も危ないと私自身も切実に感じている。
また最近ニュースなどで病院での身体拘束が、やもえない措置として行われている事実に驚くとともに、人間の尊厳侵害さえ止むを得ないとする社会に恐怖を感じ得ない。
例えば9月11日にクローズアップ現代+で放映された『身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”』では、高齢者の認知症入院は益々増え続けており、その半数近くが身体拘束される現実が描かれていた。
後日放映された『徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”』では、40人ほどの患者を2人の看護師と1人の介護士でケアする現場から、人員が手薄から治療や安全のため、やむを得ず拘束を選ぶ声が聞こえていた。
何故なら万一事故があれば、現場担当者の責任は免れないからである。
しかも看護師のアンケート調査では、「仕事がきつい」、「賃金が安い」、「夜勤がつらい」等の理由から、「いつも職を辞めたいと思う」、もしくは時々辞めたい看護士が75%を超えていた。
このような現状からはいくら理想論をかざしても、益々日本が老人大国に傾斜するなかでは、いずれ患者の身体拘束も当たり前となる現実が見えて来る。
しかし事故の可能性があるという理由での身体拘束は、だれもが人間の尊厳を侵すものであると認める行為であり、ホロコーストを体験した戦後の国連憲章では最優先の基本原理として掲げており、日本の憲法でも第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。」、24条2項に「・・・、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定し、国民主権、平和主義ととも日本の民主憲法の3大原理と言われて来た。
そのよう人間の尊厳を侵すことが、人手不足などの経済的理由から責任回避のため容認されて行けば、いずれ社会にとってお荷物な人たちはホロコーストへの道も開かれ兼ねない。
とはいえ現場に真摯に向き合えば向き合う程、容認せざろう得ない現実があり、どのように身体拘束を減らすことに努力しても無理である。
それは、認知症などの高齢者を施設や病院で看護するシステム自体に問題がある。
私自身母の介護で困り、技術を学ぶために町が主催する2週間ほどの3級介護ヘルパー育成講座を受けたことがあるが、施設の実地研修ではマニュアルが分刻みに画一的に決められており、それに従うことのできない人たち(男ばかりであったが)は放置され、デイサービス施設に連れて来られること自体が認知症などの原因となっているように思ったからである。
確かに現在の日本社会では、認知症や病気で伏せる高齢者の看護や介護を家庭でみることは困難になりつつある。
しかし私の小さい頃は家庭で看取ることは当り前のことで、私の祖母も立てなくなるまで癌を抱えてキリスト教会設立に奉仕し、床に伏してから1年近く父母が看護して、家で看取った。
祖母は父母に敬われており、私も毎日枕もとで祖母のしてくれる物語を、死の意味すらわからず興味深く聞いたことを思い出す。
それから60年以上も年月が過ぎており、日本の成長過程では病院での看取りに変わざろう得ず、一度変わったシステムは戻すことは難しい。
しかし現在のシステムが将来的に困難であることも見えてきており、例えば今世界が注目する16歳の気候変動の活動家グレタ・トゥンベリさんは、「今のシステムで解決できないならシステムを変えるべきだ」と世界に訴え、世界の多くの若者が共感し行動し始めている。
ここで訴えられているのは、絶えず成長が不可欠な資本主義システムであり、全ての人が平等に幸せになれる持続可能な脱成長のシステムに他ならない。
確かに60年前のモノのない時代に比べ、現在はモノに溢れていると言っても過言ではない。
それは生産力が機械やコンピューターの導入で数百倍にも上がったからであるが、人々の暮らしはミハエル・エンデが描いたように時間泥棒に奪われており、ゆとりが感じられない。
それはモノを作ることから人が追い出され、あり余るモノを売るために、あるいはお金を益々増やすために人々が駆り立てられ、敷かれたシステムに沿って、競い合っているからである。
そのようなシステムはグローバリズムに起因しており、古くは富への欲望がコロンブスやマゼランをしてコロニアリズムを開始した時から始まっている。
それは植民地支配を受けた人々にとっては、豊かな自給自足の暮らしが奪われるだけでなく、長年培われた伝統や文化が壊され、貧困、そして不幸へと強いられることであった。
それは70年代ヘレナホッジが世界一幸せな地域と称賛した“ラダック”が、現在のコロニアリズムともいうべきグローバリズムによって、伝統と文化が壊され、貧困と暴力が連鎖する不幸な地へと変わって行ったことを見れば推察できるだろう(上の動画参照・注1)。
それゆえ90年代からグローバリズムに対抗するローカリズムが世界で叫ばれて来たが、世界のグローバリズムはそのような叫びさえ呑み込み、益々強化され世界の隅々まで拡がっている。
しかしそのような拡がりが地球温暖化の深刻化を招き、16歳のグレタさんの地球危機の訴えが世界に大きく反響している。
それは世界で生きるすべての人が、巨大台風、洪水、干ばつ、キクイムシ繁殖による森林枯死、伝染病の増大など深刻な被害を受けるようになって来たからである。
そして気候変動会議の合意として、現在のように二酸化炭素排出を増やして行けば(実際2018年の排出量は前年の1.7%増で、増大記録を更新続けている・注2参照)、これまで2100年に到来すると言われて来た危機が、10年後に来ると警鐘しているのである。
そのような警鐘は世界の気候変動を現場で研究する人たち合意によるものであり、毎年毎年洪水や台風が激化していることからも、最早これまでのようにグローバル化を推し進めることはできない筈である。
グローバル化を抑制することは、絶えず成長により富を追及する人たちにとっては問題であるとしても、時間泥棒によって本来の喜びを奪われている人たちにとっては福音にもなり得る。
しかも現在警鐘されている10年後の危機も、地域自立のローカリズムを取り戻す機会の再来と考えるなら、災い転じて福となる。
それを決めるのは今を生きる人々であるが、置かれている状況が十分把握できれば、極論的に99%の世界の人々は、気候変動の原因である化石燃料グローバリズムより、自然エネルギーローカリズムを選ぶ筈である。
私自身も、都会の便利でモノが容易に手に入り、絶えずお金を求める暮らしを40歳頃まで続けて来たが、その後選んだ地域でのお金に縛られない農的暮らしは比べられない程幸せだと思っている。
それゆえに既にブログで書いたように、若い頃のバングラディシュでのボランティア体験が蘇り、お金の基準ではもっとも貧しいバングラ第二の都市チッタゴン丘陵地帯での、豊かな暮らしが思い出される。
そこでは電気がないだけでなく、ないない尽くしの自給生活であったが、自給ゆえに村の助け合いも慣習化され、伝統や文化だけでなく年寄りが生き字引として尊重されていた。
特に訪れた家では、既に長く寝たきりになったお婆さんが手厚く世話され、最初にその寝床に案内され、違和感なしに挨拶したことが蘇って来る。
そしてその村を去る時は、何かを施したわけでもないのに、少年たちが「ビタイ、ビタイ」と言って姿が見えなくなるまで数十分も見送ってくれ、その少年たちの純真さゆえに、今もその光景が私の脳裏に焼き付いている。
もっともそのような人間本来の心の豊かな暮らしは、半世紀前のバングラデシュの都会ダッカチッタゴンでは既に奪われており、政治的そして経済的に分断され、天と地ほどの違いを感じたものであった。
今思えばそのように地へと突き落としたのは、お金への欲望であり、グローバリゼーションである。
それはラダックの過去と現在を映像で見る時、グローバル化で驚くほど安い価格で食料が入ってくることで地域の生業が崩れ、若者の都会への出稼ぎで法外なお金が得られることで、長老に頼る村の慣習が激変するだけでなく、年寄りが軽蔑され、生きがいさえ奪われて行く様が理解できるだろう(生きがいが奪われる時、認知症が激増することも確かである)。
都会で成功した若者も、そこはかつての連帯による心豊かな暮らしではなく、暴力と汚染に塗れたお金に縛られる競争社会であり、時間泥棒に本来の喜びを奪われた心貧しい暮らしと言っても過言ではない。
今私たちが直面している危機は、中長期的には免れないものとしても、グローバリゼーションからローカリゼーションへとパラダイム転換すれば、気候変動を緩和できるだけでなく、心豊かな暮らしを手にすることも可能である。
しかし現在のように資本主義が飽くなき成長ができなくなるなかで、それを最優先してきた日本では、国民全体の利益より絶えず国益が優先され、京都議定書決議後本気で地球温暖化に取組まず、現在も目先の国益だけを考え、世界の流れに逆行して先送りしている。
それは国を挙げて掲げる海外売込みの二大柱が、未だに途上国への石炭火力と、最早先進国では放棄された原発建設であることからも明らかである。
しかも10年後の気候さえ危ういにもかかわらず、二酸化炭素排出の自動車関税引下げを優先させ、輸入農産物や食品の関税引下げで、ウイン、ウインと喜んでいる。
それは私から見れば、最早農村では農業に未来はないとして、生業として継ごうとする若者が殆どいないなかで、農業を滅ぼすとどめである。
事実私の住む集落でも、私より一回り年上のこれまで半世紀以上3町歩ほど米作りをしてきた農業者がやめることで、営農継続が大問題となっている 。
それを見れば、いずれ日本はコメ輸入国となり、日本の農業や酪農が規模や条件の違いから壊滅することを、誰もが予感しよう。
実際工業国日本の国益のために農業壊滅も止もう得ないという道を選択していることは事実であり、そこではグローバル化で世界の最も安い産地から農産物や畜産物を買えばよいという声が聞こえてくるが、10年後の気候変動危機は世界中に洪水や干ばつを蔓延させることから、食糧危機の深刻化は避けられない。
そのようになれば農産物や食料品は高騰し、現在の何処かの国のようにマーケットに食品が陳列できない事態さえ想定される。
その時再び農業復興を目指しても、一旦荒れた農地は茅や葛が蔓延り手遅れである。
そのような悪夢の将来を招かないためにも、今こそ日本の将来的進路をグローバリゼーションで国外に向けて行くことから、ローカリゼーションで国内に向けるパラダイムシフトへ徐々に転換させて行かなくてはならない。
その第一歩はドイツのように脱原発宣言であり、化石燃料エネルギーから自然エネルギーへのエネルギー転換であり、それは地域でのエネルギー生産が圧倒的に有利であることから、政府が大企業支援さえ止めれれば、必然的に地域のエネルギー自立は達成されよう。
地域自立が達成されれば、自ずと農産物の地産地消だけでなく、地域だけでお金が回る地域中心の分散型技術の社会が創られ筈である。
そのような地域は現在過疎化したところに無数に点在しており、たとえ世界がこの100年で海岸付近の海抜数十メートルの地を失っても、今から備えて行けば、人間本来の豊かな暮らしを全うでき、人類の理想を実現することも可能である。
しかし明治より国益最優先の官僚支配の政府をそのままにしては、それを実現することはできない。
何故ならそれを目標として政権が変わっても、利権構造が網の目にように張り巡らされているなかでは官僚支配のシステム自体が、一旦実施された政令を堅固に守っているからである。
それは、民主党政権の国と地方合わせて50兆円を費やすコンクリート土建国家の柱ともいうダム建設中止宣言で、それを象徴する八つ場ダム建設中止が有識者会議の検証を経て、ダム開発再建宣言に180度転換されていくことからも明らかである。
それは、正攻法で17回の有識者会議を重ね、議事録も公開し、一都五県の知事の再建要望、網の目のように拡がる利権者の再建要望高まるなかでの常套手段の行政手法であり、民主党政権の場当たり的手法では全く歯が立たないことを明らかにした。
しかし一見歯が立たない正攻法にも大きな弱点があり、有識者委員の選択は官僚に任されており、議事録も記録映像のように事実を包み隠さず公にするものではなく、要点を都合いいように官僚が列挙しているのである。
これでは最初から結論は見えており、只辻褄を合わし責任を回避しているだけで、戦後の国民主権を掲げた国民発議の審議会から現在に至る無数の審議会や専門委員会は、全てそのように官僚支配されて来た。
ドイツはそのような官僚支配の行政手法を、委員の選考を官僚支配から奪い、連邦委員であれば連邦選挙、州であれば州選挙、自治体であれば自治体選挙の各党の得票数で、各党の推薦する専門家委員を選出し、議事録で公開するだけでなく、委員会をガラス張りに市民に公開することで、戦う民主主義と言われるまでに公正な民意が反映される社会を築いてきた。
何故なら各党推薦の専門家委員たちは市民理解を絶えず求めており、異なる意見も議論を重ねるうちに多数の世論調査機関が民意を形成し、大抵の場合多数決を取らなくても少数意見さえ尊重できる合意が得られている。
そのような審議会や委員会での専門委員たちは、各党の掲げる綱領に従い市民を倫理的に啓蒙し合っていると言っても過言ではなく、間接的に国民一人一人が参加する政治であっても、決してポピュリズムに陥ることはない。
そうしたドイツに学ぶことは、審議会、有識者会議にしろ専門委員の選考は官僚抜きの国民支持率による各党推薦の専門委員とし、国民の関与するどのような会議も例外なくガラス張りで公開することであり、それができれば日本も変わることができ、将来の希望なきカタストロフも希望に輝く創造へと転換することも可能である。
それを実現するのは平和憲法改正に反対する野党が、憲法を守り正すために結集し、既に第一回で述べたように、戦後司法の独立を誓い、違憲審査を主要な使命とする最高裁判所の目標を復権させるために、違憲審査法定を設けること、そして現在の危機を克服できる公正でガラス張りに公開する仕組への変更を公約に掲げることである。
それは本質的に国民のためであり、必ず理解が得られる筈だ。

(注1)YouTubeに公開されている動画に日本語字幕を付けたもの。ラダックの現在と素晴らしい過去が理解できよう。
またヘレナホッジのグローバリゼーションを解決する『幸せの経済学(短縮版)』も公開されていたので、日本語字幕を付けておいたので、是非見て欲しい。
https://www.youtube.com/watch?v=qXusJgHWaB0
https://www.youtube.com/watch?v=qXusJgHWaB0
(注2)グローバルエネルギー消費と二酸化炭素排出統計レポート
https://www.iea.org/geco/
2012年の京都議定書破綻を受けて、世界の現実は2016年より再び二酸化炭素排出量が際立って増加に転じていることを示している。

 

www.youtube.com

  人間メルケル6-6(最終回)混迷する世界危機の救世主たらんとするのか?

メルケルの早急な公正な社会実現への強い思いは、脱原発宣言だけでなくシリア避難民の受入れでは、「救いの手を差し伸べないなら、私の祖国でない」とドイツ国民を諭し、地球温暖化でもいち早く脱石炭火力を要請し、ドイツ社会さえ困惑するほど突出している。
そうしたなかで、少なくとも2010年まで保守一辺倒であったキリスト教民主同盟CDUが、メルケル首相に徐々に距離を置きだしたのは当然の帰結である。
しかしドイツがシュレーダー政権の競争原理最優先、産業利益最優先の新自由主義にのめり込んでいくなかで、それを“万民の幸せ”という国民利益最優先に戻し、公正な社会実現に大きく舵を取ったのは、まさしくメルケルである。
特に鮮やかだったのは2011年の脱原発宣言であり、CDUの過半数議員が原発継続を支持するなかで、多くの原発関与企業の委員も含む倫理委員会を立ち上げ、会議の全てを公共放送で放映してガラス張りに開き、どの世論調査ドイツ国民が圧倒的に脱原発を望むという状況を作り出し、誰もが公に反対することなく脱原発を実現したことである。
しかしそうした鮮やかなメルケルの手法も、突出しているゆえにCDU内では限界があり、メルケルの後継者カレンバウアーに右派の保守政治家たちとの抗争のなかで党首を委ね、新しい道を自ら築いてもらいたいというメルケルの思いが理解できるだろう。
最後にフィルムはメルケルの時代評価を求め、政党関与者からは辛口の批評がなされたが、時代を代表する2人のジャーナリストは、「彼女は重厚な木材箪笥家具のように、国際政治の中で生き続け、その毅然さは非常に素晴らしものです」、「なんと素晴らしく平穏だったと、人々は数年のうちに言うようになるでしょう」と、メルケルの時代と国を越えた偉大さを称賛で締めくくっている。
そのようなメルケルゆえに、前回紹介したハーバード大学での講演の終りに、首相職終了後の生き方にも言及し、「唯一明らかなのは、何か別のもので、新しい生き方である  Nur eines ist klar: Es wird wieder etwas anderes und Neues sein.」と述べたことには、危機に混迷する世界の救世主たらんとする決意が感じられた。
それはドイツの脱原発を導いたように鮮やかなものであり、国連を通して化石燃料のグローバリゼーションから自然エネルギーローカリゼーションへの転換で、気候変動の解消と同時に世界平和を、そして世界のすべての人に幸せもたらすものと信じたい。

尚、しばらくブログ更新を休みます。