(378) “救済なき世界”をそれでも生きる(1)

今年2019年最後のブログは、「“救済なき世界”をそれでも生きる」というタイトルがごく自然に浮かんできた。
“救済なき世界を生きる”という思いは、既に薄々自らの心に形作られたものであるが、これまで救済なき世界を認めず、絶えず風車に突進するかのようにブログで世界の救済を求めて来た。
“救済なき世界”とは、人類を地球温暖化危機から救うことを誓った1990年のリオ宣言にもかかわらず、それ以降二酸化炭素排出量を絶えず激増させてきた世界であり、パリ協定の2050年ゼロ宣言にもかかわらず90年比で60%を超えて現在も益々増やし続けている、どうにも止まらない世界である。
それは『ショック・ドクトリン』のナオミ・クラインが指摘するように、カタストロフを最大の利益チャンスとして絶えず成長を追求してきた資本主義であり、驚くべきことに世界の銀行は2015年パリ協定以後に化石燃料に1.9兆ドル(200兆円を超える)投資している。
そうした事実を実証するかのように、マドリードで開かれていた具体的パリ協定行動計画を決めるCOP25は、13日の最終日後も2日間も夜通し延長継続されたにもかかわらず、核心部分が先送りされた。
しかも日本は救済なき世界のなかでも群を抜き、日本への非難は今回のマドリードCOP25でも、𠮟責を求める化石賞を2回言い渡されるほど激しい。
何故なら日本は途上国や新興国への産業進出の柱に、石炭火力と原発維持を掲げ、イノベーションの開発による脱炭素社会を胸を張って主張しているからである。
石炭火力の二酸化炭素地下貯蔵技術は、日本では前向きに聞こえても、既に欧州では先送り手段と見なされ、ドイツではドイツ経済研究所が何年も前に、実現されない技術であり、たとえ実現されても再生エネルギーに比べて問題にならないほど高コストになることを公表している技術でもある。
しかもそれが、世界の市民に知れ渡っているから、世界の救済を求める市民には顰蹙を買うのである。
また原発でも、日本では二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギーと呼ぶことがまだ許されているが、ウラン採掘、輸送、濃縮で大量の化石燃料を燃やさなければならず、10万年も人体に害のある放射線を出す大量の廃棄物を貯め続けることから、最早クリーンエネルギーと呼ぶこと自体が許されないからである。
しかも日本は世界を震撼させたメルトダウンを起こした国であり、大気や海洋に大量の放射能を放出し、現在さえ解決できていないにもかかわらず、原発維持と原発建設輸出を掲げのは、恐ろしく顰蹙を買って当然なのである。
そうした顰蹙のなかで自由と公正をモットーとする日本の報道機関さえ、そのような日本の姿勢に追従し、COP25での世界の救済を求める市民の願いにもかかわらず、失敗が明らかになるまで傍観していたと言っても過言ではない。
もっともそれは、日本の報道機関の記者たちが怠慢であったわけではなく、新自由主義に呑み込まれ、報道機関自体が競争原理に晒されるなかで、産業支配は当然の成り行きで、暗黙の規制強化を意味するものである。
そうしたなかで一際光ったのは、16歳の少女グレタ・トゥンベリのCOP25での11日スピーチであった。
日本では現在まで政治家と大企業CEOの責任を問う一部の映像しか出回っていないが、世界の多くの民主主義を求める報道機関はスピーチ後直ちに全映像を流し、彼女の「世界を救う」メッセージを届けようとしていた。
彼女の政治家や大企業CEOに対し、「本当に危険なのは、政治家やCEOが行動を起こっているように見せかけ、実際には巧妙な見積と創造的なPR以外はほとんど何もしないことです」と鋭く責任を問い、現代の世界の的を射貫いていた。
そしてこのような人たちに信頼して任せても無駄であり、いま世界の市民が奮い立って世界のリーダたちに圧力をかけることでしか、世界は変わらないと訴えていた。
それはまさに、彼女のなかにも“救済なき世界”という悲壮感が感じられ、「それでも世界の圧倒的多数の人たちが奮い立つことを信じ、“救済される世界”に向けて歩むしかないでしょう」という思いが伝わってきた。
そのような彼女の思いは、私自身も共有するものであり、“救済なき世界”をそれでも生きることである。
それゆえに些細ではあるが、彼女の世界に向けたメッセージに字幕を付け、彼女の必死の思いを伝えることであり、今年最後のブログに載せることにした。
まさにそれが、“救済なき世界を”それでも生きることでもある。
次いでと言ってはいけないが、同じ11日に開催された欧州委員会で、医師であり2013年から2019年7月まで国防大臣としてメルケルを支えてきたウルズラ・フォン・デァ・ライエン委員長が、2050年までに二酸化炭素排出量ゼロを具体的に実現する「欧州グリンデール」気候計画を提出した。
これもまさに時を得たものであり、「“救済なき世界”をそれでも生きる」という思いに重なり、同時に載せることにした。
何故ならリオの世界市民の願いを具体的行動計画したのが京都議定書であり、それを遵守実現できたのはドイツを筆頭に殆ど欧州加盟国に限られており、今回もどのように困難であるとしても、市民への約束を遵守してくれると思うからである。
もっともそれが成功しても、2009年にABC放送が世界の50人にも上る専門家を登場させて警鐘した『地球2100年』で見るように、最早地球温暖化の最悪のシナリオは避けれず、海岸近くに築かれているすべての大都市は洪水と海面上昇で崩壊し、その後の伝染病蔓延であらゆる国が電信や放送に至るまで国家機能を失い、山岳地に避難した人たちも予想できない困難が待ち受け、自給自足で必死に生き延びようとする時代の到来は避けられないだろう。
それでもドイツのような国が化石燃料エネルギーから太陽や風などの自然エネルギーにエネルギー転換し、現在のグローバルな大量生産の集中型産業文明をローカルな必要需要生産の分散型産業へ変えていく挑戦は決して無駄ではない。
それは、後に戻れない限界点を超え全ての氷河が融解し、現在では想像できない恐ろしい時代の到来が明白であっても、苦難を乗り越えて前へ歩む人たちの道標となり、そのような歩みを続ける限り、数百年もすれば地球温暖化は解消され、人類の理想としてきた文明到来を約束するものである。
しかしそのような歩みさえ失えば、人類は滅亡するしかないだろう。
現在のあまねく悲観的社会にあって、そのような歩みを続けることは欠かせない。
それゆえに私自身も「“救済なき世界”をそれでも生きる」と胸を張り、官僚奉仕のガラス張りに開かれた民主主義社会を求めて、新しい年2020年を迎えたい。