(393)“救済なき世界”をそれでも生きる(15)コロナ危機到来の日本を考える(2)『ベニスに死す』の壊れゆくものを見つめて

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哲学者プレヒトと社会学者レクビッツの対談『コロナは私たちの社会を変えるか?3-2』では、ブレヒトはコロナ危機を人々が共同体や社会の幸せのために個人の自己啓発を取り戻す可能性に言及し、その上に新しい社会が創られなくてはならないと考えている。
これに対してレクビッツは、現在の後期現代社会では集団化から個人化に向かっており、今回のコロナ危機での人々の集団行動は個人のリスク計算浸透によるもので、コロナ以降まったく新しい社会が創られることに意義を唱えている。
そして現在の新自由主義規制緩和で失われた国家機能を、国家規制を強力に取り戻すことで再生強化される社会を説いている。
しかもそのような社会は、計画的に創り出さなければならないと述べている。
それは私からすれば、格差と貧困の解消を最優先して掲げる欧州社会民主主義の再生であり、失われた様々な公共分野から生活必需品に至るまで国家規制強化で、途半ばの社会民主主義の格差と貧困のない社会を目指す社会学者の声に聞こえる。
確かに社会民主主義グローバル化によるボトム競争の下降スパイラルで踏みにじまれてしまったが、コロナ危機でグローバル化が機能するなかで再生復活の可能性は高いだけでなく、包括的に考えれば必然的に行き着く途であり、コロナ以降の辿り得る新しい社会という見方もできよう。
そのような視点で見れば、二人の考えるコロナ以降の社会は一見大きく異なっているように見えるが、ブレヒトの“共同体や社会の幸せ”には格差と貧困の解消が含まれていることから考えれば、二人の考えるコロナ以降の社会は違いはないないように見えるが、さらに議論はどのように展開するか興味深い。

 

コロナ危機到来の日本を考える(2)『ベニスに死す』の壊れゆくものを見つめて

 

あれ程自粛要請がメディアを通して毎日のように厳しく要請されていた社会が、5月25日の緊急事態解除宣言以来一変している。
それは解除後1か月を経て、新たな感染者が再び増加に転じ、東京では24日から50人を超え連日増え続け、全国でも100人を超えパンデミックが再発しているにもかかわらず、記録が載せられるだけで、政府も都政も記者会見の要請すらない。
単にコロナ感染を乗り越えるための「新しい日常」というロードマップが示されただけで、政府も都政も最早お手上げで、国民の命を守ることが国民一人一人の個人責任に委ねられたと言っても過言ではない。
それは、国民が信頼する情報の拠り所としていた専門家会議が6月24日に突然廃止されたことからも明らかだろう。
その理由は表向きにには明らかにされないが、グローバル化による輸出産業がコロナの世界蔓延で殆ど停止するなかで、何時までも緊急事態宣言で内需産業まで停止していては、この国の屋台骨が持たないからであり、国民の命より経済が優先されたとも言えよう。
恐らくメディアに対しても、国民に動揺を与えないという名目で、これまでのようにコロナパンデミックをセンセーショナルに伝えないよう、一定の規制が為されているように思う。
事実公共放送NHKのコロナニュース報道だけでなく、朝日、毎日、東京新聞など日頃政府批判を繰り返すメディアさえ、報道がこれまでと一変しているように思われる。
NHKはコロナ情報をデータ文字報道でこれまで同様に載せているが、敢えて現在の厳しい状況に言及することを控えている。
そうした流れに異議を唱えるかのように、論座では倉持麟太郎の“新型コロナ危機と底が抜けた「無法国家」ニッポンの病理”を載せていたが、それは最早あらゆるところで法さえ機能せず、瓦解し始めた国家への怒りの裏返しであるように思えた。
また東洋経済のネット記事「専門家会議「廃止」に日本政府への心配が募る訳」では、廃止の舞台裏を明かし、6月26日の新たな感染者が全国で再び100人を超えたことに対し、「これまでの“最悪の新型コロナ対応”が、今後はもっと悲惨なことになるのは間違いなさそうだ」と騙取部の考えを明らかにしていた。
しかし記者クラブで報道支配されていると言われる日本の大手メディアは、突然の専門家会議廃止だけでなく、経済優先に方針転換した政府や都政への追究が殆どない。
このような状況は、若い頃見たヴィスコンティ映画『ベニスに死す』を思い出す。
主人公の初老音楽家は静養のためベニスを訪れるが、男が倒れるのを見ても、街の道路で至る所で消毒がなされていても、ホテルや街の人々は誰も「たいしたことではない」と答えてくれない。
それでも両替の際主人公が、善良そうな銀行行員に必死に尋ねると、その行員は別室で秘密裏に事実を打ち明けてくれた。
それは、既にベニスが病院ベットの空きがないほどコレラ感染者で溢れ、無防備状態に陥っているというものであり、ベニスの住民は観光で生活が成り立っていることから口を閉じずにはいられないというものであった。
もっともこの映画のテーマは壊れゆくものの美であり、すなわち主人公が芸術さへ商業主義に移行していくなかで、信念を貫いて自らの壊れゆくさまの美である。
それは主人公が、ストーカー紛いに命さえ捧げて、美少年を追い求めて行くことに表現されていたように思う。
しかし今日本で壊れようとしているものは、『ベニスに死す』が表現するものとは真逆であり、経済優先の商業主義が作り出してきた全てであり、そこには美の欠片さえない。
具体的には戦後絶えず成長を追求し、肥大し続け身動きさえままならない全てである。
それは工業製品輸出の他国経済進出のため、地域の農林業という生業さえ奪い、水俣公害から福島原発事故に見るようにあらゆるものを犠牲にし、将来世代に巨額な負債を負わせ、コロナ危機で機能不全を露にしている国の形である、
何故なら戦後の日本は明治の富国強兵、殖産興業を目的とした国益最優先の官僚支配構造がドイツのように国民最優先の真逆に刷新されなかったことから、戦前と同様に産業発展が70年代末にクライマックスを越えて肥大すると、肥大を維持するため形振り構わずあらゆるものを犠牲にして、グローバル化の波にのる海外への経済進出で生き延びて来たからである。
しかしそれも、米中貿易戦争や気候変動が高まり行き詰まる矢先、コロナ危機で止めを刺されたと言えよう。
何故ならコロナ危機が世界の感染者1000万人を超えて益々拡がるなかでは、グローバルな輸出に頼る経済は機能せず、再び緊急事態宣言して内需産業を規制して行けば、最早国が壊れるしかないからである。
しかしだから言って経済優先で規制しなければ、瞬く間にコロナパンデミックが息を吹き返し、手の打ちようがないまでに壊れて行くのも必至であろう。
どちらにしても壊れていくことを免れないとすれば、国民の命を優先すべきである。
それを可能にするのは国民の声の高まりで、それは平常時には不可能であってもコロナ危機ゆえに可能である。
それが出来るなら、この国が、そして世界がコロナ危機、気候変動の未来を乗り越える道が自ずと見えて来よう。