(394)“救済なき世界”をそれでも生きる(16)コロナ危機到来の日本を考える(3)未熟なリスク社会?

 

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 最終回の対話では、レクビッツの数々の著作で主張してきた“組み込まれた自由主義”について、プレヒトが聞くところから始まる。「組み込まれた自由主義とは、後期現代の過去数十年に経験した経済、文化、技術のダイナミックであり、実際にそれに一定の規制システムを組み込んだ自由主義です」とレクビッツは答え、一定の規制システムとは、医療、住居、交通、教育などの公共財に対しては市場や個人に委ねられない構造を国家が確立することだと補足している。

またプレヒトは、「将来の社会に持っているもう一つの期待は、あなたの視点から推進化される個人主義が、言わば集団的アイデンティティと呼ばれるものとバランスをとらなければならないことにあります」と、集団的アイデンティティを問いただしている。

それは後にわかることであるが、プレヒト自身がコロナ以降の社会では集団的アイデンティティが必要不可欠と考えているからである。

それ故コロナ以降の社会に集団的アイデンティティを形成するため、「兵役義務は今ドイツでは停止していますが、廃止ではなく一時停止ですが、私たちは全てに兵役義務に替わる素晴らしい社会奉仕義務を導入できるでしょう。(私は)2年間の社会奉仕義務の提唱すらしたいと思います」と述べているのである。

そこには、プレヒトがコロナ以降の社会をどのように新たに創り出していこうと考えているか、手がかりが感じられた。

またレクビッツは政治的な社会学者らしく、「この危機から学んだことを(リスク政策)、第二の危機に移行することであり、それは地球温暖化の危機であり、私たちをより長くかかずらわせます」と提言で結んでいた。

尚この番組の解説では、今回の対談を読み解く鍵としてウルリッヒ・ベックの『リスク社会』(注1)が挙げられており、世界で高く評価されている社会学者の本は、チェルノブイリ原発事故を背景に1986年に書かれているが、コロナ危機の予兆のようにも見えると指摘し、人類の危険(リスク社会)は現代社会では戦争や自然災害よって生じることが益々少なくなっており、むしろ産業社会自体から生じていると述べている。

実際この本の冒頭でベックは、「貧困は排除することが可能であるが、原子力の危険は排除するわけにはいかない。排除しえないという事態の中に、原子力時代の危険が文化や政治に対して持つ新しい形態の影響力がある。この危険の有する影響は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう。」と、現代の産業社会が生み出したリスク社会をセンセーショナルに訴えている。

こうしたリスク社会は、産業社会のより豊かな社会を造り出そうとする営み自体が負の側面を生み出し(再帰性)、具体的な負の側面(近代性の自己加害)には、チェルノブイリ原発事故の前には薬害や公害などがあり、その後には福島原発事故を経て現在のコロナ危機や気候変動激化と益々現実化している。

このようなリスク社会は、産業社会を支えてきた科学技術、政治、官僚制では限界があることを分析している。

そして人間を区別なくリスクにさらすリスク社会の処方箋として、結論的に言えば、産業社会が生み出す負の側面(近代の自己加害)を公に晒し、リスクを回避できる社会を創り出すために、“不安の連帯”と“サブ政治”を提示し(注2)、道半ばの民主主義を徹底して行かなければならないと論じている。

 

(注1)Beck, Ulrich(東廉/伊藤美登里訳)『危険社会』法政大学出版局

 

(注2)“不安の連帯”とは従来の貧困からの解放としての連帯ではなく、危機の不安がつくりだす連帯であり、現在のように個人化が益々進む産業社会では危機の終息後は消え去るように思われるが、ベックは危機での個人化と集団化の矛盾した状況が概観され、その矛盾が認識されることで新しい文化的共同性を生み出し、政治を動かす市民運動や社会運動などの“サブ政治”が活発化して行くことで、危機を回避する社会が創り出せるとしている(尚今回のブレヒトの主張には、ベックの「リスク社会」の影響が全面で感じられる)。

 

 コロナ危機到来の日本を考える(3)未熟なリスク社会?

 

前回述べたように現在の日本の状況はまさに壊れゆくさまであり、コロナ危機対処にしても、豪雨災害対処にしても殆どお手上げであると言っても過言でない。

現在の豪雨災害は昨年の台風19号の後ブログ(376)大洪水で学ばなくてはならないことで書いたように、現在の気候変動で海面からの大量の水蒸気による豪雨襲来は年々激化することは明らかであり、最早防波堤、堤防、ダムと言ったコンクリート構造物での克服は不可能であり、ドイツのような治水対策として自然にまかせる河川復元による対処が喫緊の課題である。

応急的には宅地開発で直線化した川の水位を下げるため、可能なあらゆる手立てを講じるべきであるが、全く出来ておらず、今回も想定外を連発している。

このような日本社会はリスク社会が未熟と言うより、日本の政治にリスク社会を受け入れようとする意志が全くないからである。

それはベックの「リスク社会」が述べるように、産業社会からリスク社会への変化は紆余曲折の容易なものではなく、産業社会がリスクの責任追及体制自体全支配することで、責任を逃れ、保身を図るからである。

すなわち日本の場合官僚支配が、公害や薬害から福島原発事故、そして現在のコロナ危機において、リスク社会に対処するのではなく、逆に生じた危機を免罪符に利用して、絶えず近代性の自己加害を肥大させて来たと言えよう。

しかしそのような官僚支配も福島原発事故以降は、誰の目にも明らかなように自壊し始め、現在のコロナ危機や河川氾濫の気候変動危機では最早手立てがないほど自壊を深めているように、私には思える。

そして自壊の果てには、ベックの「リスク社会」が示唆するように、市民個人が官僚に代わって自律的に政治的判断や行動を起こすドイツのようなリスク社会が見えて来ている。

もちろんドイツにおいても、チェルノブイリ原発事故以降直線的にリスク社会が到来したわけではなく、ドイツ統一ではアメリカからの新自由主義の波が激しく浸食し、長らく逆行した時期があったことも事実である。

しかし戦後責任なき官僚支配から責任ある官僚奉仕に真逆に転じたドイツでは、審議会やあらゆる委員会が市民にガラス張り開かれ、最終的に市民が政治を動かす仕組みが確立されていることから、2008年の金融危機以降はリスク社会への道を加速し、2011年福島原発事故直後に脱原発宣言を出し、2019年初めには脱石炭宣言を出し、今回のコロナ危機でも周到な準備で隣国感染者受け入れに見るように、リスク社会が築かれている。