(441)民主主義は世界を救えるか(民主主義の機能不全克服への道)(1)富の追求が絶対的な善と過信された時代

 

ウクライナ戦争があらわにする二つの世界の渇望 

 

 ロシアのウクライナへ侵攻する前、ドイツ外相ベアボックとプーチンとの和平交渉が暗礁に乗り上げるなかで、世界戦争の始まりを感じた。何故なら、富を追求する市場経済の西側と東側の激突が避けられない状況に達していると感じたからである。確かに現在は東側と言ってもロシア一国であるが、ロシアのウクライナ戦争でのジェノサイド国連決議では50カ国以上が棄権しており、この戦争の終結が難しく、長期化するなかで自ずとロシア支援が明らかになってくるだろう。

 そしてこの戦争では、前線でどれだけロシアが撃退されても世界最大の核保有国ロシアの敗北はなく、窮地に陥れば陥るほど局地核攻撃、さらには核戦争が始まる可能性も指摘されている。

それにもかかわらず西側はこの戦争で勝たなくては民主主義の未来はないかのように、益々武器支援をエスカレートしている。

 そうしたなかで4月30日のZDFフロンターレは、ガスパイプライン開発を通しての独露関係をあからさまにしていた。

最初はガス油田開発及びガスパイプライ開発の技術が欲しいロシアと安い天然ガスが欲しいドイツはウィンウィンの関係であっても、富の追求がされればされるほど富への渇望が強まり、究極的に資源国ロシアと欧米技術先進国の衝突は必然だったとも言えよう。

 すなわちロシアは天然ガスを得ることで再び産業が発展し、東側の発展した新興国を含め、さらなる帝国主義的発展を求め、西側も安価な天然ガス利用でグローバルな東方拡大を求めることから、自ずと衝突は避けられない。

 しかし現代は自らも滅ぼす核の扉を開いたことから、そのような衝突は終わりなき戦争を通して核戦争へと導き、人類を滅ぼしかねない岐路あると言っても過言でない。

 そのような難しい岐路を克服できるのは、ドイツが実践してきた「絶えず進化する民主主義」だと確信するが、現在の世界の民主主義が機能不全に陥っていることも確かである。

その原因は経済が民主化されていないからであるが、最近のドイツには憲法裁判所の気候正義判決や金融量的金融緩和異議判決で見るように、人々に奉仕する本来の経済へ変えようとする意思も感じられるようになって来ている。

事実ベアボック外相やハーベック産業相は、ドイツは如何なる犠牲を払っても天然ガスのロシア依存を断つ決意を表明し、国民の多くが困難は避けられないとしても、ウクライナへの連帯の表明として支持している。

 このような気候正義、金融正義、経済正義こそは、民主主義の機能不全克服への道であり、戦争のない世界、格差の小さな誰も見捨てない自由な希望ある世界を創り出す原動力だと確信する。

 

 富の追求が絶対的な善と過信された時代

 

 1990年の「ベルリンの壁崩壊」は民主主義の勝利の時であり、世界の民主主義を信奉する市民が喜びと希望に胸を膨らます時であった。しかしそれは「塞翁が馬」で見るように、禍へ転じる時でもあった。

すなわちドイツ統一によって、東ドイツの莫大な富を求めて新自由主義の荒波が押し寄せ、富を根こそぎに奪うだけでなく、戦後ドイツが絶えず民主主義を進化させ築き上げてきた市民の権利を奪い、民主主義の自由と平等を2008年まで大きく退歩させた。

 具体的には多くの弁護士を抱えた専門企業(例えば法律事務所ホワイト・アンド・ケース、コンサルタント企業マッキンゼイ、経営診断企業プリンスウォーター・ハウス・クーパー)が雪崩込み、信託公社の役人や関与する政治家を巧妙に買収し、旧東ドイツのあらゆる資産をタダ同然で強奪して行ったのであった(注1)。

たとえば、当時旧東ドイツには4万ほどの企業があり、従業員を解雇しない空約束で、タダで獲得しただけでなく、2560憶マルクの助成金付きで強奪して行ったのである。

 そのような新自由主義のやり方を学んだドイツ産業は、政治献金とロビー活動の活発化で政治家を支配し、大半の政治汚職を合法化する法律へと改正させ、ドイツのガラス張りに開かれ、昼食接待さえ厳禁する民主主義を骨抜きにしたのであった(具体的には、1994年の刑法108e条改正の連邦議会決議)。

 事実コール政権では、国益追求の名目で大企業の300人にも上る経営代表者たちが政府相談役として連邦議会に出入りし、さらに3000人とも言われる企業ロビイストたちもフリーパスで連邦議会に入れるようになり、80年代終わりまでに築かれた理想的民主主義が蝕まれて行った。

 このような民主主義を退歩させた新自由主義に反対して先頭に立って戦ったのが社会民主党SPDであり、競争優先の規制なき新自由主義経済社会に対して、80年末までの連帯優先の福祉と環境優先の規制ある社会的市場経済への回帰を打ちだして98年の連邦選挙では勝利した。

それ故すぐさま公約に従って、コール政権で企業が実質的に必要なときに自由に解雇出来るようにした「解雇制限法の緩和」を撤廃し、労働者の権利を守った。また公約通り「原発撤退」を世界に宣言し、エコロジー税制改革を導入し、ガソリンや電気などのエネルギー課税で再生可能エネルギーへの転換を促進すると同時に、国民の年金や社会保障費を環境に負荷を与えるものへのエコロジー課税で将来的に補おうとした。

 しかしそのような理想への回帰は、国家利益、産業利益を求めるロビー活動によって懐柔され、シュレーダー政権誕生の一年後には180度転換を余儀なくされた。

そして2000年初頭からの「アジェンダ2010」の福祉と労働市場改革は、福祉と労働賃金削減によって国際競争力強化で強国ドイツの復活であった。

それはまさに、戦後の基本法で固く誓われた「国家のためではなく、国民のためのドイツ」を反転させるものであった。

 具体的には2003年に「解雇制限法の緩和」を復活させ、さらに2005年にはハルツ第4法成立で労働法改革が完成し、これまで築き上げられてきた労働者の権利が根こそぎ奪われて行った。

 すなわちそれまで32ヶ月の失業保険期間(12ヶ月へと短縮)を過ぎても専門職が見付からない場合、無制限に前の職場での総収入の57パーセント(保険期間中は子供世帯で67パーセント)が失業扶助されていたが、そのような手厚い扶助がなくなり、「失業扶助」と生活保護にあたる「社会扶助」が「失業給付2」として一本化された。

しかも「失業給付2」は資産査定によって預金などが当局によって自由に調べられるようになった上に、申請者は屈辱感に耐えなければならず、資産が見つかれば受け取れない生活保護者に転落した。それゆえ支払われる場合も給付額が激減した(住宅手当などを除き、旧西ドイツ州では月345ユーロ、旧東ドイツでは月331ユーロ)。

 このような恐怖のハルツ第4法によって、ドイツの市民の暮らしは一気に質が低下しただけでなく、ドイツ市民の8人に1人を相対貧困者に没落させたのであった(逆に一握りの人たちは恐るべき富を手に入れている)。

こうした豊かであったドイツ社会の激変は、シュレーダー政権のシュレダー演説の政権誕生時からの激変を見れば明らかである。

 

1999年以降のシュレダーの政府演説では、徐々に新自由主義の教義や常套文句が巧妙に羅列されて行き、2005年3月17日のシュレーダーの政府宣言(Die Bundesregierung BULLTIN NR.22-1-10)の巧妙な発言は、それを明確に検証している(注2)。

 

「弱者対して強者、病人に対して健常者、そして」老人に対して若者が責任を持つといった社会んの連帯は、美徳であると同時に重要である。しかしそれを実現するには、経済的成功が前提条件である」(実際は強者の富のしずくはなく、強者の富は弱者から奪われている)

 

「健康保険改革、年金保険改革、そして労働市場改革の法案成立はあくまでも改革過程の必要条件であり、始まりにすぎない」(福祉と労働コストの絶えざる削減)

 

労働市場について話すものは、ドイツの教育について語らなければならない。我々は度々議会においてそれについて議論し、論争してきた。とりわけ我々自身の後継者の面倒をみるのは、経済の責任である」(国益に奉仕する新自由主義教育)

 

「はっきり言えば、職業教育を受けないものは、経済的に自らの乗っかっている枝を鋸で切るようなものだ」(自己責任)

 

 このようにシュレダーが明言する時代は、富の追求が絶対的な善とされ、ドイツの民主主義が懐柔された時代であり、独露のウインウインの関係が築かれた時代であった。

 しかしそのウインウインの関係こそが、嘗てのソ連官僚支配体勢をよみがえらせ、ロシアを帝国主義的にウクライナへ侵攻させているとも言えるだろう。

 

(注1)出典など詳しくは自著『ドイツから学ぶ希望ある未来』参照(57頁から60頁)。

 

(注2)シュレダーの発言を翻訳したものであるが、ドイツ語原文など詳しくは自著『ドイツから学ぶ希望ある未来』参照(54頁から57頁)。

 

 

 『2044年大転換』出版のお知らせ

 

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 尚今回から、退歩も踏まえて、絶えず進化してきたドイツの民主主義を理解してもらうため、『2044年大転換・ドイツの絶えず進化する民主主義に学ぶ文明救済論』から抜き出して、少しづつ載せていきます。

 

世界最上と自負するドイツ基本法(123頁から127頁)

 

 ドイツ第二公共放送ZDFが二〇〇九年に制作放映した『最上の憲法、六〇周年基本法(In bester Verfassung - 60 Jahre Grundgesetz)』では(1)、ヘレンキムゼーでの憲法草案の第一条で「国家は国民(人間)のためにあるのであって、国民は国家のためにあるのではない(Der Staat ist um des Menschen willen da, nicht der Mensch um des Staates willen.)」の明言から始まっている。

 それゆえ発効されたドイツ憲法基本法は、「国家は国民のためにある」を柱として、第一条「人間の尊厳は不可侵である」から始まり、第二条「人格と人身の自由」、第三条「法の前での全ての人の平等」、第四条「信仰、良心、告白の自由」、第五条「表現の自由」、第六条「婚姻、家族、非嫡子の国の保護義務」、第七条「学校制度」、第八条「集会の自由」、第九条「結社の自由」、第一〇条「通信の秘密」、第一一条「移動の自由」、……第一六条「迫害されている者の庇護権」、……第二〇条「抵抗権」に至る二〇条の基本原則を不可侵としている。すなわちこれらの基本原則で「国家は国民のためにある」を実現し、これらの基本原則は民主主義の議会でさえも、多数決で改正できない。

 しかも第一九条四項では、「何人も、公権力によってその権利を侵害されたときは、出訴することができる」とし、違憲訴訟や行政訴訟を容易なものとすることで、従来の官僚支配を官僚奉仕へと導こうとしている。

 また基本法の基本原則を不可侵としたのは、ナチズムが民主主義の多数決に基づいて議会と法を支配し、合法的に独裁政権を誕生させ、官僚支配によって六〇〇万人ものユダヤ人を抹殺したからである。

 そのような恐るべき罪を犯した戦後ドイツは、憲法創設が西側占領国の指令によって着手され、一九四八年六月ロンドン会議で二度と強国ドイツを許さない「連邦制の統治構造」にすることが決議された。これに対して東側占領国ソ連及び東側八か国外相会議はロンドン決議に反対し、東西対立を鮮明にした。そのような(トル)差し迫る状況であったことから、西側占領国から早急の憲法制定が求められ、九月一日からボンで憲法会議を開催することが強いられたと、フイルムは語っている。

 そのような要請に対しドイツの政治家たちは、州の連合といった形態でドイツの憲法が一方的に制定されることを拒み、ドイツ人自らの手で憲法草案を作成することを決意した。その結果、各州議会からの専門家がバイエルン州ヘレンキムゼー島に集まり、自らの憲法草案作成に取り組んだ。

 そこには、西側占領国が求める他力本願の民主憲法ではなく、二度と過ちを許さず、国家が国民のために仕える最上の憲法を作ろうとする思いが、草案作成に参加した最後の生き証人学者ヴァルター・ホルツァペルの回想を通して語られている。

 作成されたヘレンキムゼー草案の中心論述は、「国家は国民のためにあるべきで、国民は国家のためにあるべきではない」であり、それはナチズムの反省から全ての参加者が一致するものだった。

「二度とドイツは独裁者横暴と迫害を許してはならない」、「二度と人々を恐怖政治に晒してはならない」、「二度とドイツは隣人を脅かしてはならない」、「二度と侵略戦争を導いたり、準備を許したりしてはならない」、「二度と戦争と戦争破壊は、飢えと不安で子供たちの子供時代を奪ってはならない」、「二度と家族は互いに引き裂かれるべきでなく、子供に高貴な生き方を与えなくてはならない」。フイルムで叫ばれるこれらの明確な要請を、草案は九月に始まったボンでの憲法作成の議会に盛り込むことを求めた。

 具体的草案の作成者は、議会評議会の女性議員四名を含めたキリスト教民主同盟社会民主党自由民主党共産党からなる六五人の議員であり、第一条の「人間の尊厳は不可侵である」は委員の全員一致で決議されたが、そのような一致は寧ろ例外であり、屡々議論は激しく対立したと語られる。

 しかしそのような対立する激しい論議こそ、「民主主義の授業だった」とも語られている。特に激しく対立したのは、第三条の男女平等の権利であり、女性議員からは、「戦争中男性は働く場所があてがわれていたが、女性は瓦礫の山に立つしかありませんでした」と当時の無念な思いが語られ、「どうしてそのように男女の値踏みがされていたか、今日モラル的要請があります」と、四人女性議員は党派を超え結束し、男女平等の権利獲得を求めた。しかし男女平等の権利は長く放置され、一九五七年に連邦議会で男女平等法案が可決されても、納得のいくものではなかったとナレーションは語っている。

 また議会評議会を率いた議長のキリスト教民主同盟コンラッド・アデナウアーと社会民主党カルロ・シュミットは絶えず衝突したが、議長アデナウアーは司会者のように雰囲気を創り出し、委員長シュミットは妥協決着で一つに結束させたと、議会歴史家フェルド・カムプは二人の基本法への貢献を称賛している。

 このようにして、現在において世界最高と評価される基本法は一九四九年五月二三日に公布された。しかし歴史的瞬間は決して期待を喚起するものではなく、新聞や国民の反応は冷めていた。

 国民はソ連占領下の東側も含めたドイツ全体の基本法を望み、西側だけの基本法を暫定的なものと見なしていた。しかし国民のその望みも、東側が一九四九年一〇月ドイツ国民議会においてドイツ民主主義共和国憲法を決議することで、あえなく断たれた。

 しかも西ドイツの人々は、戦争の傷跡から社会が正常に戻ることを優先させ、社会を根底から問い直す大きな政治を望まなかったと語っている。

 そしてここからフィルムは、基本法を六〇年間に渡って守り育んできたカールスルーエの連邦憲法裁判所に視点を移している。

 ここでの赤い職服の裁判官たちが長年新しい法律が基本法に違反していないか検証し、政治に制約を与え、市民を国家の恣意から守って来たと、具体的な重要判決を挙げて語っている。

 

戦い育む憲法裁判官たち(128頁から138頁)

 

 連邦憲法裁判所は二つの法廷があり、各々八人の裁判官から構成され、基本法が誕生して間もなく、裁判官たちはこれまで人を寄せ付かなかったドアを開き、見えるようにしたと語られる。(連邦憲法裁判所の一六名の裁判官は連邦議会連邦参議院で、選挙での政党投票率で各党推薦の各々八名の裁判官を選出している)

 現職の連邦憲法裁判所長官ハンス・ユルゲ・パピア(Hans Jürgen Papier)は、協議室では意見の一致が見られないことに対し、「議論する裁判官の気質は、ある者は激し、ある者は冷静であり、活発な議論で争われることが想像できるでしょう」と語り、寧ろ意見の一致が見られないことが、民主主義を学ぶことであったと語っている。

 そしてカールスルーエ憲法裁判所は、凡そ年間六〇〇〇件もの抗告を引き受けていると語られる。(注 そのような数の抗告を二法廷で引き受けることは不可能であることから、抗告事例は裁判官の選ぶ法律専門調査官が調べて処理し、重要なものだけを裁判官が協議する)。

 これまでの連邦憲法裁判所の大きな抗争として、一九五六年の共産党KPD抗争があり、憲法裁判所は共産党に対して基本法を敵視すものとして禁止した(2)。

 この件の原告は連邦政府で、ドイツ共産党東ドイツ発案の『全独抵抗』を採択し、革命的な暴力闘争を通じて『アデナウアー政権』の打倒を求めているというのが、主な提訴理由であった。これに対して共産党の抗弁は、「自由な民主的諸原則と矛盾する政府活動に抗して、反対して闘争しているに過ぎない。反政府党であるというだけでドイツ共産党違憲提訴することは、提訴権の乱用である」と反論した。

 しかし連邦裁判所は、「基本法二一条二項からして提訴件の乱用ではないとし、共産党アジテーションプロパガンダ、声明、パンフレット、党機関紙は明らかに連邦共和国憲法制度に敵対している」として、共産党の禁止を判決した。そして判決文では、「自由の敵には無制限の自由を認めない」と明言している(3)。

 そしてフィルムは、この判決が戦後史の最も影響を与える判決であり、連邦共和国は堅固な民主主義であるという警告のサインであったと語っている。

 また一九七五年の妊娠中絶に対する判決(2)も、激しい論争を巻き起こしたと語っている。これは一九七四年社会民主党SPDと自由民主党FDPの連立政権が、女性が健康や社会的問題を訴えた場合妊娠一二週間以内なら期限付きで妊娠中絶を認める法を成立させたことに対し、五つのキリスト教民主同盟政権の州政府が提訴したものであった。

 連邦憲法裁判所の判決は、基本法第一条一項「人間の尊厳は不可侵である」、及び第二条二項「誰もが生命と身体の完全性を持つ権利を有する」を理由に、子宮の生命の保護は、妊娠の全期間にわたって妊婦の自己決定の権利よりも優先されるとして違憲判決を出し、妊娠中絶はドイツ統一後の一九九二年まで待たねばならなかったと語っている。

 さらに大きく争われた憲法裁判に、一九八五年のブロックドルフ原発反対運動をめぐっての画期的な判決がある(2)。

 政府は原発推進が国策であるなかで、原発反対運動が大規模化し、一部が暴力を振るったとしてデモや野外での集会を規制、もしくは禁止した。これに対して原発反対運動主催者側は、この政府措置を違憲として提訴した。

 憲法裁判所の判決は、集会やデモの自由は基本法第八条一項「すべてのドイツ人は、届け出または許可なしに、平穏かつ武器を持たないで集会する権利を有する」の理由から、基本的に「届け出や許可なしに」できるとし、政府措置を違憲と判断した。

 判決文では一部に暴動が予想される場合もデモ参加者の集会の自由は守られなくてはならないとし、禁止はデモ全体が危険なコースを採る場合においてのみ可能で、その場合も当局は平和的デモ参加者が基本的権利を行使できるようあらゆる手段を尽くさなくてはならないとしている。さらに平和的デモ参加者の集会は、「世論形成に関与する目的 」であるとしている。

 またフィルムでは、二〇〇六年のカールスルーエの裁判官たちは、前年に決議された航空安全法(Luftsicherheitsgesetz)に基づく、テロ容疑旅客機の砲撃を可能にする法案に違憲判決(2)を下したと語っている。

 ここでの連邦憲法裁判所は、旅客機の乗客の命を国家のために犠牲を強いるものであり、人間の価値を否認するものであり、基本法第一条の人間の尊厳を侵害することから違憲と判決している。

 このようにして連邦憲法裁判所は、政治を正して基本法を守ってきたことを強調している。しかもその基本法は国民が追読みできるよう、街中に表示されており、国民の代表は基本法を決して視野から失うことはないだろうと強調している。

 しかしそのような努力にもかかわらず、二〇〇九年五月における現在のドイツでは、全土で二五〇万人以上の子供たちや若者が貧困基準以下で暮らしているとフィルムは述べ、「政治はこの課題に降伏するのか?」と問い正している。

 この現実の重い課題に対して、現職の連邦憲法裁判所裁判官のクリスティネ・ホフマン・デンハルト(Christine Hohmann Dennhardt )は、「私は基本法の子供の権利保護を支持します。何故なら、子供たちは将来の基本法の担い手であり、両親の保護、社会の保護、国の保護を必要だと見るからです」と、政治に貧困から子供を守ることを要請している。

(日本では裁判官のこのような公での意見表明は、裁判官の中立義務を欠くとしてあり得ないことであるが、ドイツでは後述するように裁判官がデモに参加して意思表明することも、基本法に沿うものであるなら中立義務より優先されている)。

 さらに浮上して来ている問題が、アフガニスタンにおけるドイツの国連軍参加であり、ドイツ兵戦死者の増加で問題視されていることを取り上げている。

 基本法作成時点では、議会評議会は「戦争準備は基本法で禁じられ、それ故戦争と称されるものは、処罰されなくてはならない」と決議し、再軍備を禁じた。しかしそれにもかかわらず、ドイツは再び戦争に関与しており、政治家は危機の克服のため、戦闘防止のためと称することを好むと、フイルムは問い正している。

 戦闘に対して現職の連邦憲法裁判所長官ハンス・ユルゲ・パピアは、「戦闘は防衛に対してだけであり、防衛以外では基本法に沿うとはっきりする場合のみ動員が許される」と明言し、アフガンでの戦闘を批判している。

 ドイツが再び戦争に関与するようになった経緯は、一九五〇年代東欧の共産化が脅威となり、ドイツも自ら東ドイツから防衛することを求めたからである。また周辺国家が、ドイツの国家主権を回復する条件として、欧州軍としての再軍備を求めたからである。

 そうしたなかで一九五四年基本法が改正され(第四次改正)、防衛のための再軍備合憲を明確化した(4)。もっとも戦前の軍事国家へ戻らないため、防衛のためとは言え、ドイツ単独の軍事行動には歯止めがかけられ、集団相互安全の行動を明言し、一九五四年一〇月軍備の上限、ABC兵器(A核・B細菌・C化学)を所有しないことを誓約することで、北大西洋条約機構NATОに加盟した。

 また一九五七年連邦軍が創設された際は、「軍隊の民主化、軍隊の国民管理」が目標に掲げられ、職業軍人による暴走を起こさないため、制服を着た市民の徴兵制が実施されて行った。しかしながら基本法では、兵役拒否の権利が保証されており、後に良心的兵役拒否の権利が一九八三年に基本法に新たな法律として明記された。

 しかし世界情勢の変化でNATО及び国連軍としての参加要請が増大し、フィルムで見るように一九九二年のユーゴスラビア市民戦争では、ドイツ連邦軍の偵察飛行が憲法裁判所で問われた。それに対するカールスルーエの一九九四年判決(2)は、紛争地域での戦闘能力動員は政府の自由裁量とするのではなく、基本法の趣旨に沿った連邦議会決議を必要とすることを言渡し、一定のブレーキをかけた。

 この一九九四年カールスルーエ判決を、パピア長官も「当時のいわゆる拡大決定のなかで、非常に重要な決定であった」と賛美している。しかし動員に歯止めをかけたやり方は長く続かず、国際政治は地域紛争を多国籍軍で解決することを求め、ドイツは関与を容認しているとフィルムは語り、暗に再考を求めている。

 さらにフィルムで取り上げられたもう一つの大きな問題は、監視カメラやパソコン、携帯などでのプライベートな住居空間への侵入である。

 基本法一三条一項では「住居は不可侵である Die Wohnung ist unverletzlich.」とし、二項以降で捜査ができる場合を限定した。しかし組織的犯罪や国際テロの増加、とりわけ二〇〇一年九月一一日のニューヨークテロ攻撃で、警察の情報収集活動が強化されていき、基本法を実質的に変化させた。

 それゆえ二〇〇四年始めカールスルーエの連邦裁判所は、九年前にコール政権で出された大盗聴法(電話だけではなく、夫婦の営みまで一切合切の盗聴)に違憲判決を出した(2)。その際司法に関与する法務大臣経験者や連邦裁判所裁判官たちは原告側に立って、基本法の「住居は不可侵である」を守ったと語っている。

 前の法務大臣ザビーネ・シュレンベルグ

(Sabine Leutheusser-Schnarrenberger 一九九二年から一九九六年、及び二〇〇九年から二〇一三年連邦法務大臣自由民主党FDP)は、「大盗聴法の違反採決は大きな成果であり、素晴らしい打開判決に満足しています」と絶賛して述べている。

 また現職連邦憲法裁判所裁判官クリスティーネ・ホーマン・デンハート( Christine Hohmann-Dennhardt 一九九六年から二〇一一年まで連邦憲法裁判官社会民主党SPD)は、「プライベート生活で中心領域の絶対的保護があるとするなら、住居への侵入はできない筈です。住居は、私たちの今日の時代において人間であれる場所であり、いわばプライベートを残している最後の砦です。私はこのプライベート空間が、基本法に従い必須の絶対的保護空間だと思います」と明言している。

 しかしそのような大盗聴法の違憲判決にもかかわらず、政府は二〇〇八年G8などでのデモ過激化を理由に、市民のプライベートへの侵入を可能とし、個人データを押さえ、安全法案での抗争を拡大し、電話やコンピュータ監視を強化した。

 これに対して、司法関係者も党派を越えて戦い、シュレンベルグ法務大臣は、貯蔵データ蓄積に反対して自ら連邦憲法裁判所の提訴人になったと述べている。またデンハート連邦憲法裁判官は、国家の責任は市民の安全性を保証することであるが、この履行限界が何処にあるかが重要であり、私たちは前例を越えて立法に抑止をかけ、この限界の境界書を書いて戦ったと述べている。

 そして前の連邦裁判所長官ユタ・リンバフ(Jutta Limbach一九九四年から二〇〇二年長官)は、「連邦憲法裁判所は、模範的やり方で安全性と自由のバランスを絶えず調節し、適正な平行をもたらしていると思います」と結んでいる。

 このように現職を含めて憲法裁判所の裁判官や法務大臣が必死に戦う理由は、今日の時代が有無を言わせず「監視国家」に向かっているからであり、連邦憲法裁判所が監視国家とならないよう、絶えず安全性と自由のバランスを絶えず【とる)取っていかなくてはならないと、前の長官リンバフは強調している。

 実際二〇〇八年二月の憲法裁判所の「オンライン判決」では、 対象者のコンピューターの中に入りこんでデータを取り出す捜査方法は、 個人の個別のデータ収集にとどまらず、記憶メディアを捜査し、情報技術システムの利用を監視し、さらには遠隔操作を可能とすることで、基本法における市民のプライバシーを侵害するとし、違憲判決を下している(2)。

 そしてこのフィルムの終わりは、七〇年代の社会民主党連邦首相ヘルムート・シュミットが、「ドイツ基本法は世界最上の憲法であり、十分尊大だと思います」と締めくくっている。

 このように基本法が世界最上と自負される理由は、発効当初国民に評価されなかったにもかかわらず、連邦憲法裁判所の裁判官たちが国民の先頭に立って「国家は国民のためにある」を守り、戦い育んできたからに他ならない。

 それこそが、ドイツを官僚支配から官僚奉仕に変え、ドイツの絶えず進化する民主主義を創ってきたと言えるだろう。

 

 

(1)著者翻訳日本語字幕付き動画「ドイツから学ぼう(369)~(371)」

https://msehi.hatenadiary.org/entry/2019/07/20/112746

 

(2)連邦憲法裁判所の重要な判決

https://de.wikipedia.org/wiki/Bundesverfassungsgericht#Bedeutende_Entscheidungen

(3)KPD禁止

https://de.wikipedia.org/wiki/KPD-Verbot

  

(4) 

https://www.bgbl.de/xaver/bgbl/start.xav?startbk=Bundesanzeiger_BGBl&jumpTo=bgbl154s0045.pdf#__bgbl__%2F%2F*%5B%40attr_id%3D%27bgbl154s0045.pdf%27%5D__1636349257221