(442)民主主義は世界を救えるか(民主主義の機能不全克服の道)(2)緑の党が世界市民の利益を追求する時代・何故ドイツは新自由主義に背を向けることができたか(1)

 

 

緑の党世界市民の利益を追求する時代

  今回の「露にされた独露関係2-2」では、ドイツの世界最大の化学企業BASFが天然ガス開発に技術を提供し、天然ガス輸送パイプラインがロシアの政治的戦略として利用されるだけでなく、獲得された富で現在のウクライナへの帝国主義的侵攻が為されていることを明らかにしている。

そうした事実をBASF代表は認めながらも、ドイツ政府が決定した2024年までにロシアからの天然ガス依存廃止のガスボイコットに反対を表明し、「私たちは、みすみす経済全体を破壊したいのでしょうか? 私たちが何十年にもわたって築き上げてきたものは、何でしょうか?」と国民に訴えている。

 確かにドイツを再び強国ドイツに復活させたのは、ロシアからの安いエネルギーが原動力であった。

しかしそれは、ドイツ産業に勢いを与えると同時に、世界一豊かな労働者の権利を根こそぎする強国ドイツの復活であった。

しかもシーメンスなどのドイツ巨大企業は、ドイツ統一で雪崩れ込んだアメリカ企業のやり口を学び、経済進出国の官僚を買収し、規制緩和によってEU諸国だけでなく世界の富を奪い取って行った(注1)。

すなわち強国ドイツを築き上げるために、賃金コスト削減でドイツ市民の豊かさを奪い、ギリシャや東欧諸国などの市民を二級市民へ没落させたのである。

 しかしそうした事実を、下で述べるように新自由主義の恐ろしさを学んだドイツの市民は、「ガスボイコットでドイツ経済が崩壊する」という産業側の脅しに最早屈していない。

それは4月30日ZDFのPolitbarometerが示すように、ウクライナへの重火器を含めた武器提供に慎重なシュルツ首相支持が49%支持(不支持43%)に対して、ガスボイコット及び武器提供を積極的に表明している外相アンナレーナ・ベアボック支持70%(不支持24%)、また実際にガスボイコット2年以内の早期実現に取組んでいる経済相ロバート・ハーベック支持66%(不支持19%)であり、多くのドイツ市民は経済よりもロシア依存廃止とウクライナへの連帯を支持している。

 それを示唆するように、5月15日のノルトライン・ヴェストファーレン州選挙では、社会民主党SPD獲得票26.7%(前回2017年31.2%)、キリスト教民主同盟CDU35.7%(33.3%)、緑の党18,2%(6.4%)であり、緑の党は3倍近くに激増した。

そのような緑の党支持の増加は、ともすれば産業側ロビー支配によって国益追求を優先する保守政党CDUや、産業側と太いパイプを持つ労働政党SPDとは異なっているからだ。

 すなわち緑の党は政治の市民奉仕を優先する市民政党であり、これからの未来の気候変動激化、感染症激化、戦争によって分断される危機の世界に、救世主として期待されているからに他ならない。

それは、ドイツの自国利益追求だけでは許されない時代の到来であり、現在のドイツを牽引する緑の党が世界の市民利益を追求する時代でもある。

 

 (注1)Siemens-Skandal

https://www.manager-magazin.de/unternehmen/karriere/a-596077.html

 

日本語資料シーメンス贈賄 

http://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/09061101_ishikawa.pdf

 

何故ドイツは新自由主義に背を向けることができたか(1)

 

 私がドイツのベルリンで学んだ2007年から2010年の4年間は、まさに競争原理優先の新自由主義に背を向ける転換の時代であった。

 私のドイツへの留学は、若者がドイツの大学で学ぶと言ったアカデミックなものではまったくなく、80年代からドイツを探索して『よくなるドイツ悪くなる日本』を書いたものとして、そのままにできなかったからである。

それは、「よくなるドイツ」を確信していたにもかかわらず、反新自由主義を掲げて勝利したシュレーダー政権で一年後には新自由主義に呑み込まれだけでなく、自ら「アジェンダ2010」を掲げて新自由主義を推し進め、市民の視点からすれば、ドイツも恐ろしく悪くなっていたからであった。

 還暦を迎えた私は、ドイツ語が読めるとしても殆どドイツ語では話せないことから、ホルクスシュウレ(国民学校)でドイツ語会話を学ぶことから始めた。

 ホルクスシュウレは9年間の義務教育を補完する国民のための学校であるが、実質的には移民やEU及び近隣諸国からの若者がドイツで働くための語学及び教養を身に着け、働くための資格学校として利用されていた。それ故EU内の若者や市民は無料であり、それ以外の外国人にも授業料は非常に安く、1日8時間のドイツ語授業で3カ月200ユーロ程であった(外国人向けドイツ語学校は1日4時間の2週間で200ユーロほど)。

しかも教師は経験豊であるだけでなく、公共職員であることから市民としての主張が強く、しばしば語学テキストから脱線して当時のドイツの問題が聞けたことは語学以上の習得であった。

また世界の新自由主義が激化するなかで、EUの負け組イタリア、スペイン、ギリシャ、東欧諸国の若者、さらにはアフガニスタンやシリアからの若者がどのような思いで学んでいるかを知ることができた。

そのような思いがけない収穫は、私が還暦を機に年金と多少の蓄えで暮らそうという節約なしでは成立たない生き方のお陰であり、ベルリンの暮らしでは月10万円を超えることはなかった。

もっともそれでも、住居マンション家賃は都心にもかかわらず、広い暖房付きの快適な12畳の部屋に、冷蔵庫だけでなくオーブンからミキサーまで備わったキッチン、ドラム洗濯機が使用できるバスルームが付いた家賃は400ユーロと恐ろしく安く(5万円ほど)、食材もスーパーマーケットで日本の3分の1ほどで購入でき、パンやバータ、牛肉が安く、ビールやワインも恐ろしく安く、牛乳は1リットル30セントまで値下がりしていた。また野菜や果物はトルコ人の経営する野菜店が特別に安く、10キロのジャガイモが99セントと驚きの価格であり、私にとっては日本で暮らすより豊なものであった(今から思えばベルリン市民の失業給付金が345ユーロであったことから、事実豊かなものであった)。

大学の授業料も2007年には各州の有料化への動きは問題視されるようになり、ベルリンでは授業料無料が当然であり、その後ベルリン自由大学でのガストヘラー授業料も無料で、登録料だけであった。また散髪も最も高い理髪店でも10ユーロほどで、安いところでは半分の5ユーロと驚くほど安く、私の暮らしには有難い時代であった。

 しかしウェーターの実質時間給が5ユーロを下回る時代であり、市民の8人に1人が相対貧困者に没落し、悪魔の労働改革法といわれるハルツ第4法の資産調べで、市民が辱められる記事が連載される苦難の時代であった。

しかも競争に敗れた企業倒産がドイツ中に溢れているだけでなく、街のいたるところに閉店した店が見られた。

 それゆえシュレーダー政権誕生の頃は、左よりのシュピーゲル誌から右よりの大衆紙DIE・WELTにいたるまで国際競争力強化の必要性を訴えていたが、この頃には競争原理最優先の「アジェンダ2010」には批判的になっていた。

なぜなら「アジェンダ2010」を推し進めた社会民主党SPDさえ、新自由政策に批判的となり、2006年に党首となったクルト・ベックは政策の見直しを図り、新自由主義政策を否定するハンブルグ綱領(注1)を2007年の党大会で採択していた。

 また2008年始めには、ノルトライン・ヴェストファーレン州工業都市ボーフムノキア(本社フィンランド)が、突然工場をルーマニアに移転することを発表した。

移転は3200人のノキア従業員に寝耳に水であり、ドイツ市民にとっても突然の不意打ちであり、ドイツ全土に怒りが拡がって行った。

それはノキアが前年2007年に創設来の72億ユーロ(当時の為替で1兆円)という記録的利益を出したにもかかわらず、さらなる競争力強化を求めてルーマニア(賃金が10分の1)への移転であり、ドイツの殆どのメディアがキャラバンキャピタリズムと呼んで激しく非難したからであった。

このような激しい非難報道は、少なくともノキアがドイツを去る6月の終わりまで連日のように続き、各地で市民によるノキア携帯の廃棄もなされ、競争原理優先によって失われていたドイツ人の連帯を呼び覚ました。

 

(注1)ハンブルグ綱領

http://spdnet.sozi.info/bawue/ostalb/jusostalb/dl/Hamburger_Programm.pdf

要約すれば、以下のようになる。

*市場支配を許さないだけでなく、多くの適正な規制は重要であり、必要不可欠である。

*労働者の共同決定権、賃金自治ストライキ権、適用区域による賃金協定、強い組合は重要であり、必要不可欠である。

*財産及び相続財産への公正な課税は重要であり、必要不可欠である(財産税などの復活)。

*失業保証は労働保証に見直されるべきであり(ハルツ第4法の見直し)、法的な最低保証賃金は必要不可欠である。

*年金は全ての就労業務で支払われるように拡大して行くべきであり、年金額は収入額と継続期間に基づいて従来通り支払わなければならない。

社会民主党は大学などの授業料導入に反対であり、2歳からの養育権利を与える無料の全日教育を実現する。

 

しかしこのような反新自由主義政策へのハンブルク綱領での転換は、シュレーダー政権の「アジェンダ2010」を推進してきたフランツ・ミュンテフェーリング(シュレーダ政権での党首、副首相)やシュタインマイアーとって容認できるものではなく、ベック攻撃が密かに激化し、翌年9月には党首ベックが引きずり降ろされたのであった。

 

『2044年大転換』出版のお知らせ

 

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 前回述べたように、退歩も踏まえて、絶えず進化してきたドイツの民主主義を理解してもらうため、『2044年大転換・ドイツの絶えず進化する民主主義に学ぶ文明救済論』から抜き出し、今回は「ドイツを官僚支配から官僚奉仕に変えたもの」(139頁から144頁)を載せておきます。

 

 

 

ドイツを官僚支配から官僚奉仕に変えたもの  

 

 もっとも具体的にドイツの官僚支配を変えたのは、第一に基本法第一九条四項で、「何人も、公権力によってその権利を侵害されたときは出訴することができる」とし、行政訴訟を容易なものとしたことである。  第二に一九六〇年成立のドイツ行政裁判法(Verwaltungsgerichtsordnung)第九九条一項で、「行政当局は記録文章や書類、電子化した記録、情報の提出義務がある」としたことにある。  しかしこれらの画期的な法案も、すぐさま官僚奉仕へと機能したわけではない。基本法がナチズムの過ちを真摯に反省して一九四九年に誕生させたにもかかわらず、僅か一年あまりの一九五〇年にアデナウアー政権が「非ナチ化終了宣言」を行い、占領軍の手で公職追放されていた元ナチ関係者一五万人のうち九九%以上を復帰させ、五一年に発足した連邦外務省の官僚は、三分の二が元ナチス党員であった。また五〇年代末の元ナチス関与の現職裁判官や検事なども多く(東ドイツから非難キャンペーンによる指摘では一一一八人)、基本法誕生後も一進一退で、基本法を創り出した反省の思いが中々達成されなかった(1)。  しかし基本法が徐々に社会に浸透していったことも確かであり、六〇年代の民主教育改革のリーダー的存在となるヘルムート・ベッカーは、一九五四年に「管理された学校」を書き、現代の学校の教育は、大勢順応的で創造性に乏しく、容易に統制されやすい人間を生み出していると、厳しく戦後教育を批判した(2)。  そして復古主義的雰囲気が支配する戦後ドイツ社会でそれを克服するためには、「自由な学校」を創造することであり、以下のような三つの重要性を説き、民主化への機運を高めて行った。  第一、(自由な学校創造は)、国家の学校監督のあり方を民主化することである。  第二、(自由な学校創造は)、教員の教育上の自由確立と表裏一体の関係にある。  第三、学校の自治は、学校関係者の参加と持続的な対話とを必要とする。    このような基盤の下に六〇年代のドイツの教育改革は、「教育の目標は競争や選抜のためではなく、個人が市民社会に生きていく生活の質を高め、連帯してよりよい平等社会を築くためにある」という理念で推し進められて行った。  同様に司法民主化の改革が、一九六〇年一月二一日行政裁判法発行で始まり、既に述べた第九九条 一項で 「行政庁は、書類および文書を提出し、情報を提供する義務を負う」とし、行政訴訟での行政側の開示を義務付けた。それゆえ行政の過ちを裁く行政訴訟では、弁護士の必要性さえなく、短期で裁くことを可能にし、基本法第一九条四項「何人も、公権力によってその権利を侵害されたときは、出訴することができる」を、より容易に具体化した。  同時にこれによって、現場での官僚の裁量による過ちが容易に裁かれるようになり、官僚支配は徐々に崩れていき、官僚を支配する政令も機能しなくなり、官僚支配から官僚奉仕へと転換して行った。  もっとも日本の裁判官に問題を提起した映画『日独裁判官物語』(3)では、ブラウンシュヴァイク高等裁判所のクラマー元裁判官が、「しかし一九六〇年代の裁判官の独立が事実上存在しないことに、革新的な裁判官たちは気づきました。それは裁判所長官の指示によって裁判官の言論の自由が制限されたり、批判発言に懲戒処分を受けたりしたからです。特に司法の権威主義的構造、非民主的な立法や当時のドイツ民主主義の欠陥についての発言は、特に激しく懲戒を受けました」と語るように、一旦構築された慣習を突き破るには、長い時間と粘り強い戦いが必要だった。  しかしながらこの映画でも語られているように、ナチ支配下の裁判官たちが引退していき、教育改革の民主化の息吹が徐々に感じられるようになったことも確かであり、六〇年代後半には高座の裁判官を傍聴人と同等の席の高さまで引きずり下ろし、傍聴人と隔てる柵が取り払われ、七〇年代には画期的な民主化への転換がなされて行った。  さらに一九八〇年代に入ると、裁判官の政治的発言制限に対して多くの裁判官が積極的に批判するようになり、裁判官たちが一九八三年ハンブルクでの核兵器反対と軍縮会議に対して、市民と共に反核デモに参加した様子が描かれている。そして一九八七年のNATО軍のムトランゲン基地の核配備に対し、裁判官たちは反対してムトランゲン基地前に座り込むという違反行為を敢えて起こした。  しかしこの行動は、裁判官等の政治活動の行き過ぎと世界的に報道されたが、ドイツ市民の圧倒的支持で裁判官たちは不利益を被ることなく、市民との連帯も築いたと語られている。  そしてフィルムの最後では、「開かれた司法、国民の人権を保持する裁判所、それは自由で独立した裁判官なくしては国民の権利は守れない。司法の民主主義を確立するのは主権者たる国民である」と結んでいる。  このフィルムは日本の意ある司法関与者等が制作し、日本の表向き民主的な司法がドイツの司法に較べて如何に権威的で、非民主的であるかを浮き彫りにすると同時に、日本もドイツのように市民に開かれた司法にならなくてはならないと訴えている。しかもドイツの司法は市民奉仕を目指し、官僚支配を官僚奉仕に変えたことを明白に物語っている。  このようにドイツ社会では、基本法を基盤として教育から始まった民主化による市民奉仕が、司法においても市民奉仕へと進化させている。  次章ではそのようなドイツの絶えず進化する民主主義が、メディアを通してどのように形成されて行ったかを述べたい。

(1)ドイツの歴史認識 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AA%8D%E8%AD%98

(2)遠藤孝夫・へルムー ト・ベ ッカーにおける 「管理 された学校」から「自由な学校」-の転換の思想的布置・・・弘前大学教育学部紀要 第八〇号 :一〇九ー一二八頁(一九九八年一〇月)

(3)映画『日独裁判官物語』一九九九年制作(制作・普及一00人委員会)  日本とドイツの裁判官の違いを浮き彫りにし、日本の裁判官のあり方について問題提起したドキュメンタリー映画 https://www.youtube.com/watch?v=FLbp39nxlw4