社会の仕組みを変えることを求めた『山椒大夫』
平安時代末期に不作が続くなかで、朝廷の厳しい取立てに逆らったとして8年前に筑紫へ左遷された平正氏を慕って、妻玉木(田中絹代)と厨子王、妹安寿、女中の姥竹の一行が旅していくところから映画が始まる。
回想シーンでの、平正氏が筑紫へ出立の際厨子王に残した言葉は、「人は慈悲の心を失っては、人ではない。自分を責めても、他人に情けをかけねばならぬ。人間は皆、平等に作られておる。自分に優しく、人にはもっと優しくせねばならぬ」であった。
父親は朝廷の掟に逆らっても、慈悲の心を優先させ、息子に対して利他主義に生きることを求めた。家族は父親の教えに従って、利他主義に生きている。しかしこの家族は、そのような生き方とは対比的なお金のためなら何でもする人たちの手にかかって、妻玉木は佐渡に売られ、厨子王と安寿は丹後の豪族山椒大夫のもとへ奴隷として売られていく。
そこでの厨子王は過酷な労働と掟のなかで、生き残るために父親の教えである慈悲の心を失っていき、10年後には安寿の諌言に対しても「甘いことを言うな」と突き放し、実利的に生きようとしている。しかし佐渡から売られてきた娘奴隷の小萩が口ずさんでいた歌から、生き別れた母親が厨子王と安寿を案じて生きていることを知り、幼い頃の思い出から純真な心を取り戻していく。
そして厨子王と安寿に、死にかけている小萩を山に捨ててくる役目が与えられると、厨子王は救済を求めて逃亡を企てる。安寿は自分を犠牲にしてでも兄厨子王を逃がそうと思い、追っ手を阻むため池に入水して命を絶つ。
小萩を抱えて逃げ延びた厨子王は中山国分寺へとたどり着き、そこでの僧侶の助けで都に出て、朝廷を支配する関白の藤原師実に直訴を行う。直訴は失敗し捕らえられるが、詮議の結果彼が平正氏の嫡子であり、平正氏の功績と正当性が再評価され、厨子王は丹後の国守に赴任する。
丹後の国守として赴任した厨子王は、直ちに人身売買を禁止し、悪逆を重ねていた山椒大夫を丹後の国から追放し、奴隷たちを解放する。その後厨子王は国守の地位を辞任して佐渡に渡り、「厨子王恋しや」という歌の伝手を頼りに、落ちぶれて目も見えなくなった母親・玉木と涙の再会を叶える。
この映画を見終えた際、誰もが涙し共感しないものはいなかったとさえ語り継がれている。それは1954年に公開された当時、映画を見た人の大部分が戦争によって家族が引き裂かれ、労働を強いられる体験を経てきたことからであり、涙し共感せずにいられなかったからである。
また海外での反応も高い評価で、52年の『西鶴一代女』、53年の『雨月物語』が最高の映画賞を受賞した後、54年の『山椒大夫』はヴェネツィア銀獅子賞を受賞して絶賛されている。その背景には、二度と戦争を繰り返してはならないというヨーロッパの人々の思いが切実であり、この映画が徹底したリアリズムで利他主義の倫理を昇華させていたからである。
本来戦争が起きるのは自国利益第一主義で他国から奪い取るからであり、他者の幸せや利益を第一にする利他主義の倫理が確立されれば、永久平和も可能な筈である。しかし人間は欲望の塊であり、そのような利他主義を貫くことは難しい。事実この映画の厨子王の父平正氏は、利他主義を貫き通したことで、筑紫へ左遷されている。しかも筑紫へ旅する家族の一行も、父親の教えを守り、利他主義に生きていたからこそ人に騙され、人買いによって売られたと言えるだろう。
しかし現在のトランプの自国利益第一主義の世界を見れば、人類は利他主義の倫理を確立しなければ、戦争の拡大や地球温暖化の激化によって人類にもはや未来がないことも確かである。また個人の生き方としても、絶えず競争と自己責任を求める社会で山椒大夫のように富と権力を得たとしても、満足が得られないだけでなく、欲望を肥大させるだけで、悲しい最後が待っていることは必至である。
そのように人間に欲望を駆り立てるのは社会の仕組みであり、この映画は社会の仕組みを変えることができれば、利他主義の倫理が確立され、喜びと涙を共感できる社会が到来することを教えている。
52年制作の『西鶴一代女』では、そのような悪しき仕組みの社会に対して、お春は托鉢をすることで、「自己の執着を捨て、他者の幸福を願う」自ら生き方を通して乗り越えようしている。また53年制作の『雨月物語』でも、人間の救済が「戦のない世での平穏な暮らし」にあることを突きつけている。しかし悪しき社会の仕組みを変えることには、一歩も踏み込んでいなかった。したがって54年制作の『山椒大夫』では、人間の救済が本質的に得られるために、悪しき社会の仕組みを変える作品に挑んだと言えるだろう。
そのためこの作品は、森鴎外の書いた小説『山椒大夫』(注1)の映画化にあたって、小説を大きく改変している。すなわちこの映画は、第一に悪しき世の中の仕組みを変えるものでなくてはならないからである。小説では、厨子王は丹後の国主に任命されると、人の売り買いを禁じたが、山椒大夫を罰することなく共存共栄するように取り計らい、国主の辞任もせず母を探しに佐渡に渡り、涙の再会で終わっている。それは小説のモチーフが、「過酷な宿命に屈しない人間の尊厳さ」と「自己犠牲を伴う家族の愛」だったからである。しかし映画のモチーフは、「悪しき社会の仕組みを変える」ことであり、そのためには山椒大夫を罰することが必要であり、歴史的考証からも厨子王は国主を辞任する必要があった。しかも映画では、リアリズムを貫き通すため、見る側の誰もが納得するように節々で小説を変えている。
例えば小説では、筑紫への旅に出た際姉14歳、弟12歳となっているが、映画では兄妹の関係に変え、厨子王13歳で安寿8歳である。また脱走を計ったのが、小説では奴隷として売られた一年後であるが、10年後であり、厨子王23歳、安寿18歳として描かれている。
何故なら小説での一年後の脱走では、利他主義という高潔な倫理への昇華を、徹底したリアリズムで描くことはできないからである。したがって厨子王が奴隷制度の暴力と掟の支配なかで、生き残るために実利的な生き方に陥っていく10年間の年月に変えている。またそのように変化した厨子王が妹の家族愛や自己犠牲を通して子供の頃抱いた慈悲の心を取り戻し、利他主義を貫いて生きる物語をリアリズムで描くため、脱走の過程や丹後の国主になる経緯など節々で小説を改変する必要があったからである。
そしてこの溝口映画のリアリズムこそが、国内外で絶賛されたと言えるだろう。しかも溝口監督の演出は、撮影現場での俳優への演技指導が全くなく、俳優自身が即興的に迫真に迫る演技を何度も繰り返すことで、監督自身の納得する完璧性を生み出すというやり方であったと聞く。したがってその作品の完成度は監督の資質と感性に依り、自身が身をもって体験してきたものに対してはそれがフルに発揮され、神業の作品が生まれたと言えよう。
そして溝口健二監督の足跡をたどるとき、父親の事業の失敗により極貧生活を余儀なくされ、御殿医の娘であった母は苦労に苦労を重ね生活苦のなかで亡くなり、姉寿々は芸者に身を落とし子爵松平忠正の妾となることで、一家が寿々の仕送りによって成り立つという苦しい境遇のなかで、溝口健二の資質と感性が育まれていることを知る。
したがって溝口映画で描かれる「男の都合や社会の理不尽によって犠牲になる女性」は、母や姉の生き様からきていた。そのような溝口健二の資質と感性は、下に載せた新藤兼人の『ある映画監督の生涯・溝口健二の記録』によって、その一端が紐解かれている。
(注1)森鴎外の小説『山椒大夫』は青空文庫で読むことができ、朗読もされているので、映画『山椒大夫』を見た人は是非比較して欲しい。
『ある映画監督の生涯』が紐解く溝口健二
この映画を制作した新藤兼人は、溝口健二の下で美術助手や助監督として映画作りを学び、溝口を生涯にわたって師と仰ぎ、深く尊敬していたことで知られている。溝口監督の死後、新藤兼人は俳優や映画制作スタッフ39人のインタビューを通して、1975年にドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯』を完成させている。この映画は、溝口健二の人間像と映画への執念、さらには彼の資質と感性を浮かび上がらせている。
具体的な撮影現場スタッフの証言を通して、溝口監督が自分の納得がいくまで俳優や撮影スタッフに何度でも繰り返しを求め、映画制作への執念が生々しく感じられる。また若い頃の愛人に背中を切りつけられた事件や、妻千恵子の精神病入院等々、壮絶な人間溝口健二の私生活が語られている。もっとも人間溝口健二のすべてが語られているわけではなく、彼の苦しみや怒り、そして作品に挑む執念の本質は、本人しかわからないことも確かである。
しかしこの映画を見るとき、人間溝口健二の私生活の苦しみや怒りこそが、世界に残した絶賛作品群の原動力となっていることを思い知る。
尚新藤兼人の作品群には、溝口健二から学んだ「リアリズムへの徹底的執念」と「女性の視点から社会を描く姿勢」が、初期の『裸の島』や『鬼婆』から最後の『一枚の手紙』に至るまで貫かれている。

