(179)ハネケ映画を通して現代を考える(20)71フラグメンツ後編・・世界はマクシミリアンを救えるか、日本は大本営再構築を避けられるか?

ドイツではマクシミリアンのような無差別殺人者をアモック(文化依存症候群・・元々は東南アジアの心を病む風土病)患者と呼び、社会及び環境に要因する心の病と捉えている。
何らかのショックや軋轢で周囲とのコミュニケーションが難しくなり、独善的に引きこもって考えることが多くなり、ある時ストレスなどで引き金が引かれる。
発症したアモク患者は身近な武器(猟銃、刃物、拳銃)を手に学校や通りで行動を爆発させ、自殺するか、取り押さえられるまで無差別に殺戮する。
取り押さえられた場合、アモク患者はその際記憶がないのが典型的パータンである。
ドイツでも2000年以降アモク患者乱射事件がしばしば見られるようになり、2009年には3月にバーデン・ヴュルテンベルク州のヴィネデン市と9月にはバイエルン州アンスバッハ市で起きている。
ヴィネデン乱射事件は世界にも報道され有名となったが、当時ドイツでは毎日のように報道され、社会の対処とあり方が論議されていた。
この事件は17歳の少年がリアルシュウレ(実業学校)で9人の生徒及び教師を射殺し、その後通りで3人の市民を射殺し、警官との銃撃戦の末自殺している。
こうした事件後ドイツでは、2008年末の世界金融危機での州銀行の実質的金融デフォルトを通して新自由主義が見直されたこともあり、ドイツでの2000年以降の競争教育の激化が反省され、従来の連帯を尊重する教育への動きも始まり、学校では引きこもりや欝兆候の生徒に対して心理カウンセラーの個別対応が徹底されて来た。
それゆえドイツでは、2009年以降は少年及ぼ青年のアモック患者の乱射事件は起きていない(2010年9月バーデン・ヴュルテンベルク州のレラハ市で、41歳のアモク女性患者が息子及び前夫を射殺する事件は起きているが)。
しかしアメリカなどでは青少年の学内でのアモク乱射事件が激増しており、今年2013年だけで1月カルフォルニア州、4月テキサス州バージニア州マサチューセッツ州、6月カルフォルニア州、8月ジョージア州、9月テキサス州、10月アーカンソー州ネバダ州と10月までに9件世界に大きく報道されており、現在の新自由主義推進での競争教育激化との因果関係は明白と言えよう。
新自由主義の教義はすべての規制を取り払うことであり、競争を自由にすることで強者が全てを支配することが目論まれている。
したがって資源国でさえ、強国のバイヤー達によって開発融資さえ返済できないほど資源が市場で自由に安く買い叩かれ、弱国は益々弱くなっている。
まさにそれはコロンブスの時代から続く、名前を変えた植民地主義に他ならない。
そのため強国での教育は、国際競争力の強化が最優先され、実質的にはボトム競争に勝ち抜くための産業戦士の育成が求められていると言っても過言でない。
そうした中では、過酷な競争教育に適応できず心を病む青少年も決して少なく、引きこもりやいじめだけでなく、アメリカに見るようにアモック症を発症し、記憶が失われた状態で無差別乱射を引き起こしていると言えよう。
こうした青少年を救うには、学内でのカウンセラーの徹底も対症療法としては必要であるが、本質的にはドイツのように新自由主義の反省を踏まえて、競争教育を見直さなくてはならない。
しかし現在の化石燃料に依存する大量生産の産業社会では益々国家間の競争も激化し、現在の中国、韓国、日本のように偶発的に戦争への引き金が引かれかねない事態になっている。
それゆえ新重商主義を掲げる安倍政権は、国民の知る権利を奪う特定秘密保護法強行採決し、嘗ての大本営再構築に一歩を踏み出した。
しかし良識あるものならば、そのような選択は益々日本を危うくし、破滅への道を歩むことになると思う筈である。

私の住む8日の新潟日報の勇気ある社説では、「・・・ナチス政権は1933年全権委任法を成立させ独裁体制を確立、憲法を有名無実化した。秘密保護法も、情報に関する全権委任法と呼べるものだ。・・・。日本維新の会みんなの党といった一部の野党も、形ばかりの修正をのみ、結果的に成立の補完勢力となったといえる。翼賛体制が強まれば、国の未来はさらに危うい。開かれた情報は民主主義と平和の基盤である。国民の声、異論が抑圧された時代へ、歴史を逆戻りさせてはならない」と、自由で公正なジャーナリズムの使命を守り抜いている。

本質的な解決のためには民意でこの全権委任法を廃止するだけでなく、日本もドイツのように脱原発選択によるエネルギー転換で、現在の海外進出で量産技術を継続するのではなく、太陽光発電を基軸とした分散型技術推進を通して、国内の地域産業興隆に取り組むべきである。
そうすればマクシミリアンを救うことができるだけでなく、秘密保護法など全く無用な平和な世界を築くことも可能である。

映画『71フラグメンツ』に戻れば、ハネケ映画は再び戦争に向かって疾走する生き難い世界に問題を絶えず提示しており、『隠された記憶』以後のハネケのインタビューでは、現代の植民地主義批判を鮮明にしている。