(64)「ドイツから学ぶ99パーセントの幸せ」 第10回 2010年ドイツの新自由主義からの転換。前編

ドイツで2010年に新自由主義からの転換が起きたかどうかは、歴史が判断することであるが、2007年から2010年までベルリンに暮らし、今年2011年ベルリンから遠く離れて日本で、3月の保守王国バーデンヴェルテンブルグ州の緑の党連立政権誕生、5月の2022年までの脱原発宣言などを検証するなかで、そのように結論するに至った。
もちろんそのような転換は、2010年に突然起こった訳ではない。
2008年1月15日、ノルトライン・ヴェストファーレン州工業都市ボーフムノキア(本社フィンランド)は、工場をルーマニアに移転することを発表した。
それは3200人のノキア従業員に寝耳に水であり、ドイツ市民にとっても突然の不意打ちであり、ドイツ全土に衝撃が走った。
ドイツ政府もこの報道には怒り、キリスト教民主同盟の消費者大臣ホルスト・ゼーホファーや社会民主党議員団代表のペーター・ストルックが先頭に立って、ノキアの携帯の不買運動を呼びかけ、ドイツ市民に連帯して戦うことを求めた。
そして1月22日に15000人の市民がボーフムで従業員と連帯して抗議集会を開くと、連帯の絆が全土に拡がって行った。
ZDFを初めとしたドイツのメディアは、ノキアが前年の2007年に創設以来の72億ユーロ(当時の為替で1兆円)という記録的利益を出していたことから、さらなる競争力の強化を求めてルーマニア(賃金が10分の1)へ移転するノキアの方針を、キャラバンキャピタリズムと呼んで激しく非難した。
このような報道は、少なくともノキアがドイツを去る6月の終わりまで連日のようになされ、各地で市民によるノキアの携帯廃棄もなされ、失われていたドイツ人のゾリダリテート(連帯)を呼び覚ました。
またマスメディアはこの時を契機として、新自由主義に批判的になって行った。
何故なら、マスメディアがキャラバンキャピタリズムと非難したものは新自由主義に他ならず、さらにその後金融危機新自由主義の弱肉強食の競争で、ドイツの夥しい数の伝統企業が倒産して行ったからである。
実際2008年には電波時計で世界に名を轟かしていたユングハウス(9月倒産。翌年縮小して再建)を初めとして29500件を超える企業が倒産し、翌年の2009年には益々倒産が増加し、1月に陶磁で世界的に有名なローゼンタール、6月には7万5000人の従業員を持つアルカンドーア、7月はドイツの老舗ピアノメーカのシーメル、9月は世界のファショーンブランドのエスカーダなどが倒産し、34300件にも上った。
特にアルカンドーアの倒産の際は、傘下に1881年創業128年の歴史を持つドイツの顔とも言うべき百貨店カールシュタット(ドイツ全土で120店舗)があり、ドイツ国民にとっても衝撃的であった。
この際も全土で従業員だけでなく市民も連帯して、連邦や州に公的支援を要請した。
しかし政府は老舗企業の倒産が余りにも多すぎることもあって、市場に任せるべきとして公的支援を拒否した。
これに対して多くのマスメディアは、政府の銀行やオペルGMの小会社でアメリカからの要請でこの時点では支援を約束していた)への公的支援を取り上げて鋭く批判し、ドイツ市民の怒りも頂点に達した。
もっとも2009年9月27日の連邦選挙では、選択肢が限られていたこともあって(注1)、その怒りはポジティブに機能せず、「アジェンダ2010」で新自由主義を過激に推し進めた社会民主党への怒りとしてぶつけられた。
すなわち選挙直前にはシュレダー政権からの看板女史ウララ・シュミト厚生大臣が、過激な保険改革で保険料の値上だけでなくサービスを低下させた不満もあって、フランスでの休暇を公用(施設訪問)と組み合わせて政府飛行機を使用したことから、国民から激しくバッシングされ、公務から引きずり下ろされた。
また2005年の大連立において、社会民主党は主導権を取るために蔵相ポストに固執し、一貫して金融自由化を推し進めてきたシュタインブリュック蔵相が金融危機の責任を問われた。
さらに選挙を戦う社会民主党の党首シュタインマイヤーは、前シュレダー事務所の責任者であったことから激しく非難され、ベルリンでは彼方此方で党首のポスターに怒りの落書きがされていた。
その結果、社会民主党は23パーセントの得票しか得られず、歴史的敗北をした。
これに対してメルケル首相のキリスト民主同盟は、メルケルの人気と財政状態からすれば考えられない減税を公約したことから、選挙綱領で原発運転期間の延長を言及していたにもかかわらず選挙では論点とされず、中道保守の自由民主党と共に圧勝した。
しかしそれは、国民が保守政治を望んだわけではなく、減税などとんでもないとした社会民主党への怒りの裏返しでもあった。
事実先頃(2011年11月3日)公表された連邦統計局の資料では、2009年の相対貧困者は1260万人(15、6パーセント)にも上り、市民の暮らしはどん底であり、将来への展望もなく怒りだけが充満していた。
しかしそうしたどん底のなかで、脱新自由主義のエネルギーと連帯のエネルギーが充電されて行った。

(注1)左翼党(リンケ)は、「時間当たり10ユーロの最低賃金」「ハルツ第4法の撤廃」「金持ちに課税せよ」「67歳からの年金支給反対」など脱新自由主義を掲げ、得票率を11,9パーセントに上げたが、現在も少なからず社会主義に根ざしていることから、社会主義の欠陥と恐怖を体験したドイツ市民は政策以前に敬遠する人も多く、選択肢が限られていた。。
(注2)アンゲラ・メルケル首相は、前DDR東ドイツ)科学アカデミーの理論物理学者であり、ベルリンの崩壊時に辞職し、ラジカルな「民主主義の出発」の報道官を務めていた。
普段は周囲の意見に合わせて振舞うことから、カメレオンとも揶揄されるが、5月の党大会での先んじた脱原発宣言のように、言うべき時は断固として主張することからファンも多い。