(125)映画が抉り出す真実(3)監視社会克服の切札とは(『善き人のためのソナタ』、『一番美しく』)

大阪市の高校での体罰による生徒自殺が日本中を駆け回っている。
教育評論家尾木直樹が週刊NHKニュース深読みで述べるように、体罰などの問題で教育委員会は現場の高校校長に丸投げであり、校長は競争原理の成功者である当事者教師に丸投げであり、当事者教師の弁明が再び教育委員会に上げられ、容認される閉鎖的仕組みが隠蔽体質で完結しているからであり、制度自体が病んでいるという指摘は的を得ている。
しかし第三者機関が病んでいる制度を健全に機能するように監視するという尾木の処方箋には、監視という対症療法に危うさを感じるだけでなく、第三者機関のメンバーも競争原理の成功者が主流であることから、新自由主義のための監視社会へ突き進んでいくことが懸念される。
(現に新自由主義を信奉する橋下大阪市長は、溌剌と行政側の全面的過失であると明言し、勝ち誇ったように詫びている)

今回はドイツ映画『善き人のためのソナタ』(注1)と黒澤明が戦争末期に制作した『一番美しく』を取り上げ、DDR旧東ドイツ)の秘密警察シュタージによる監視社会克服の切札は何であったか、また黒澤明大本営の翼賛体制による監視社会でどのような意図で軍需生産高揚のプロパガンダ映画を制作したか考えて見たい。

善き人のためのソナタ』の主人公ヴィースラー大尉はDDR東ドイツ)を守るための秘密警察シュタージの有能な専門職員であり、社会主義の理想を信奉し、その理想実現のために全てを捧げる善き人として描かれている。
ヴィースラーはかつての同僚である上司の頼みで、劇作家ドライマンの盗聴監視を始める。
しかしこの盗聴監視はドライマンの反体制嫌疑事実に基づくものではなく、ドライマンの妻である女優クリスタルを自分のものとしようとする大臣の欲望から出たものであり、上司もこの欲望に加担することで出世することしか考えていないことがわかってくる。
こうした経緯で監視するヴィースラーは、自殺した才能ある先輩劇作家イェルスカがドライマンに託したブレヒトを盗み読み(注2)、ドライマンがピアノで弾く「善き人のためのソナタ」を聞くことで、ドライマンたちが社会主義体制の過ちを正そうとして苦悩していることを理解し始める。
そのような折り、クリスタルはドライマンの制止の願いも聞かず、「あなたは体制を利用するだけなの?あなたは連中と寝てるも同じよ。どんなに才能があっても彼らは簡単に握りつぶすわ。演目も役者も演出家も勝手に決められるのよ。イェルスカみたいな末路はイヤでしょ?だから行くのよ」と言って、執拗な大臣の強要を受け入れるために出て行く。
それを盗聴していたヴィースラーは心の動揺が決定的となり、クリスタルが大臣に会いにいくことを阻止する行動にでる。
それは苦悩から薬を常用する女優クリスタルが言うように、DDR社会主義体制が腐りきっており、そのような行動をせずにはいられなかったからだ。
すなわち監視社会を克服したものは、ヒューマニズムに他ならないことを暗示している。
もっともそれは物語であり、実際はヒューマニズムのような甘い考えは監視社会の切札となり得ないと言う人も多いであろう。
しかしシュタージの監視社会で、処罰が強化されればされるほど自由を求め、命を賭けて壁の逃亡者が増えたことは真実であり、旧東ドイツの人々の人間性を求める心が監視社会の非人間性に幕を引いたと言っても過言ではない。
そして映画のラストは、妻クリスタル自殺の責めから立ち直れないドライマンが、たまたま出会った仇敵大臣の言葉からシュタージの監視下にあったことを知り、善き人ヴィースラーのために監視社会克服の切札とも言うべき「善き人のためのソナタ」の本を書くのであった。
当然のことながらこの映画もフィクションであるが、若き新人監督フロリアンは膨大な資料の検証や当時の多くの関係者をインタビューしたと言われており、監視社会克服の真実を抉り出していると言えるだろう。

今回取り上げるもう一つの『一番美しく』は黒澤明監督の戦争末期の作品であり、映画の冒頭に「情報局選定 国民映画」とあるように戦争高揚を目的としていることから、他の素晴らしい黒澤作品群に比べて余り評価されていない。
黒澤映画を全て見ている私自身も他の作品に比べ単調に感じたが、50年近い年月が経っても、いつまでも心に強く残っている。
それはこの映画を年末に再度見てわかったことであるが、戦争高揚のプロパガンダ映画であるにもかかわらず、当時の現実とは全くかけ離れた理想に純化することでプロパガンダを超越し、さらに登場する人たちを善き人ばかりにするなかで、自己犠牲という人間の一番美しいものを描き出すことに成功しているからであった。
それは映画の冒頭で軍事製品増産要請から、男子10割増産女子5割増産が決められたことに対して、動因されている女子生徒たちは男子と平等に「お国のために奉仕」できないことで、理想的民主主義社会のように公然と不満を顕にする。
すなわち青年隊長の渡辺ツルをして、「私たちそれぐらいのご奉公しかできないのでしょうか」と言わしめている。
実際は当時の女子生徒が公然と不満を顕にすることも、増産要求を自らすることは絶対に有り得ないことである。
しかし当局にとって女子生徒の自発的3分の2増産要請という嘘は文句を付けるどころか、願ってもない美談なのである(第一作『姿三四郎』で黒澤の描きたかったヒューマニズムの箇所を当局にズタズタにカットされたことから、この第二作では当局の弱点を意図的に利用しているように思える)。
病気の生徒は工場で働けなくなるから両親に知らせないでくれと寮母先生に頼み、微熱が続く生徒も皆に迷惑がかかることから平熱と書くことを頼むというように、現実とはかけ離れている。
しかしそのような白々しい嘘も自己犠牲という理想に純化されると、この作品では不思議に美しく輝いている。
また工場の上司たち、そして寮母などの軍事教育を強要していた人たちは、この映画では絶えず生徒たちの要望に寛容であり、常に優しい言葉で説得し、実際の行動からも愛情が満ち溢れていた。
恐らく黒澤明はこの映画でアメリカ行進曲を使用していることから、アメリカの理想とした教育(戦後の教育基本法)について本などを読んでおり、それを手本にしたように思われる。
何故なら、戦後の私自身の小学校は、少なくとも4年生までは現在のような競争教育ではなく、この映画のように教師は優しく寛容で、生徒と昼食を共にし、絶えず戦争の過ちなどを自らの体験に基づき愛情に満ち溢れて話していたからだ。
そして映画のラストでは、様々な困難を乗り越えて目標増産に目途が立ったところで、かねてから危篤であった青年隊長渡辺ツルの母の死という悲報が知らされる。
しかしそれにもかかわらず帰省もせず、あくまで責任を果たすツルの自己犠牲と、それを見守る善き人たちの満ち溢れる愛情で美しく終わる。
この映画を総括すれば、一つ一つのシーンは戦争高揚を題材としているが、全体として見るとき、全く戦争高揚とはかけ離れており、ヒューマニズムが溢れだしており反戦映画と言っても過言ではない。
情報局の検閲官がそれにクレームを付けなかったのは、シュタージのヴィースラー大尉のように「善き人たちのソナタ」とも言うべきヒューマニズムに心を打たれたからではないだろうか。
すなわちこのような映画が戦時下で製作されたこと自体、ヒューマニズムが戦時下の監視社会を克服したと言えよう。

P.S
たまたまこのブログ「監視社会の切札とは」を書いていたら、12日ZDFニュースでドイツ政府の「監視規制法草案」を報道していたので(無料ZDFオンデマンド番組をパソコンで見るため2日遅れの報道となるが)、字幕を付けてユーチューブに投稿しておいた(注3)。
前回の『大いなるこけおどし・原発政策の間違い』の際は40分を超えるフィルムであることから大変で、二度とやりたくないと思ったが、今回は2分程度ということもあり、それなりに楽しかった。
もっとも前回はペンネームmsehi888で投稿できたが、厳しくなり名前を出しておいた。合法であるかどうかは、報道者ZDFおよびお金を出しているドイツ市民が決めることであるが、NHKと違いZDFが寛容という思いもあることから、クレームがなければ時々投稿したい。

体罰については中途半端な取り上げとなったが、現在のような競争原理を最優先する教育自体が安易で効率的な手段として、戦前の体罰教育を復活させているのである。
本質的な解決のためには、戦後10年ほど競争を極力控えた理想的民主教育への回帰、もしくはブログ31で書いているが、2006年のドイツ最優秀賞を受賞した「イェーナプラン学校」のように、グーループで生徒たちが教え合うと言った連帯を育む教育(ヒューマニズムに基づく教育)へと変えていかなくてはならないだろう。


(注1)予告編動画http://www.youtube.com/watch?v=UM_jFjwojNU

(注2)イェルスカがブレヒトの本といって渡した本は、彼の創作の「善き人のためのソナタ」の楽譜であり、ヴィースラーは検閲のためドライマンの書庫からブレヒトの本を密かに持ち出して読んだのである。

(注3)