(124)映画が抉り出す真実(2)戦争犯罪の真実とは(『キャタピラー』、『サラエボの花』)

1月3日のニューヨークタイムズは安部首相の旧日本軍による慰安婦の強制性を認めた「河野談話」見直しを、「日本の歴史を否定する新たな試み」(Another Attemptto to Deny Japan’s History)というタイトルで戦争犯罪を否定する重大な過ちであり、恥ずべき衝動であると厳しく非難していた。
世襲ともいうべき安部首相のこうした愚行は、戦争謝罪の先人の70年近い労苦や国民の血税による外交を無にするものであり、世界平和の視点から見れば厳しく問われるべきである。
どのように安部晋三が過去に「美しい国」を求めたとしても、戦争を犯したのは日本であり、戦争という人間性が否定される行為のなかでは強制慰安婦だけでなく集団レイプなどの戦争犯罪は、日中戦争の東京(極東国際軍事)裁判の記録を読めば否定できない筈である(注1)
本心から未来に「美しい国」を築くのであれば、ドイツの第6代連邦大統領ヴァイツゼッカー(1984〜1994在任)が「過去に眼を閉ざす者は、未来に対しても盲目となる」と言うように、過去の日本の醜さに眼を開かなくてはならない。

そうした意味では2010年ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した若松孝二監督の『キャタピラー』(注2動画予告編)は斬新な切口で問いかけており、ドイツ新聞「フランクフルター・アルゲマイン」はラジカルな作品として評価していた。
キャタピラー』は戦争で四肢を失い、村へ名誉の帰還をした男、久蔵とその妻シゲ子のこれまでに描かれなかった物語である。
村では久蔵を軍神さまと言って崇める反面、父親でさえ「こんな姿で生きてかえれたって、どうしたっていうだよ」とこぼし、身内も「久蔵は陛下から、ほらこんな立派な勲章を頂戴したんだ」、「お姉さん、お国のためにも久蔵兄ちゃんの世話をしてください」と、シゲ子だけに押し付け、本当の連帯なき翼賛社会を浮き彫りにしていた。
久蔵は四肢を失っただけでなく、顔は火傷で焼けただれ耳も聞こえないにもかかわらず、食欲、性欲、名誉欲の塊となることで、生への執念を燃やそうとする。
シゲ子は初めのうちは献身的に仕えているが、久蔵の食べること、排泄すること、セックスすることなど全てがシゲ子の助けなしにできないことから、これまでの力関係が逆転していく。
その転機は村での外出で、誰もが軍神さまと崇めて通り過ぎていくが、結局は軍神さまの妻を誇示するための見世物であると久蔵が感じた時に始まり、軍服を無理やり着せようとするシゲ子にツバを吐きかけた時に決定的となる。
そして他日「軍神さまに卵をいただきましたよ」と、シゲ子が吸蔵の拒否した壮行会から戻ってきた時、久蔵は妻を睨みつけるが、妻の「何よそんな眼で見て、食べなさいよ。軍神さまにもらったんだから食べなさいよ」と顔に次々と押し付けられる卵に、耐える以外なすすべもなかった。
こうして逆転の日々が経過して行き、ある日銃後の妻の鏡となる暮らしに疲れ果てたシゲ子は、これまでとは逆に欲望を露わにして久蔵に跨ろうとするのであるが、久蔵は暴行を受ける側になったことで、戦場で犯したレイプの回想に苛まれるようになり、全く勃起しなくなっていた。
それに対してシゲ子は、「どうして!どうして!あんなに好きで、毎日毎日求めてきたのに!」、「もうあんたなんか怖くないわよ。アンタは毎日毎日アタシをこうやって殴ったよね。子供が産めない石女ってね!こうやって、こうやって!」と殴り続ける。
しかし暫く経って我に返り、「ごめんね、ごめんね、大丈夫だから、大丈夫だから、二人で生きていこう。食べて、寝て、それでいいじゃない、ねえ、それでいいじゃない」と言って抱きしめるのであった。

それはシゲ子が過去の夫を許すものであり、映画は和解へ向かうものだと思った。
しかし若松孝二の描く映画には和解はなく、シゲ子の久蔵への「大丈夫」という思い遣りが、かえって久蔵に戦争で犯した罪を問い正し、怯えて芋虫のように這い回る姿を(戦場レイプのフラッシュバックと交えて)執拗に撮ることで裁いていた。
そしてラストの終戦では、シゲ子は満面の笑みで万歳を叫び、久蔵は必死に這って入水自殺し、「死んだ女の子」の歌で反戦を謳いあげていた。
 
実録・連合赤軍あさま山荘への道程』などで反権力の視点で制作してきた若松孝二には和解はなく、久蔵は天皇を含めてすべての戦争犯罪者の罪を背負って死ぬしかないのであろう。
しかし監督の戦争への怒りが見る側に押し付けられることで、見る側に湧き上がる怒りが逆に萎えてしまったように思う。

願わくは怒りを抑え、「二人で生きていこう」というシーンから和解に導き、シゲ子の愛によって自らの犯した罪の深さを悟り、入水自殺するという描きかたであって欲しかった。
何故なら久蔵は戦争の痛ましい被害者でもあり、人間は夜叉の心と菩薩の心を持ち合わせるものだと思うからである。
そしてラストは、シゲ子が夫の口筆で書き残した「責任をとる。幸せになれ」という遺書を見て、「どうしてアンタが責任をとらなくちゃならないのよ」という絶叫で泣きじゃくってもらいたかった。(そうすればファーストシーンで愛する夫の無残な姿を見ることの拒否、口筆のシーンが伏線として生きてくる)。
またフラッシュバックの的は強姦された女性の絶望的表情シーンではなく、それを助けようとする少女の絶叫を伴うシーンであって欲しかった。
何故なら極東裁判などでの膨大な証言からは、その場の年寄りや子供も皆殺しにされたという地獄のような有様が浮かび上がってくるからである(注3)。
そのようなフィクションで描くことこそが、まさに映画が真実を抉り出すことである。

そのような視点から見れば、2006年ベルリン国際金熊賞受賞の『サラエボの花』は戦争の悲惨なシーンが全くないにもかかわらず、見事に戦争犯罪の真実を抉り出していた。
死者20万人、難民200万人以上を生み出したボスニア紛争の愚かな人間の戦争犯罪が、誰の心にも突き刺さるように抉りだされていた。
セルビア敵兵士に集団レイプされたボスニア女性エスマ(当時医学生)と、レイプで産まれた12歳の娘サラの愛と憎しみ、そしてトラウマが交錯する困窮生活を通して戦争犯罪の真実が見事に描かれ、戦争への怒りと未来への希望が感じられる秀作であった。
それはエスマがセラピで泣きながら語る、「娘を殺したかった。妊娠中に自分のお腹をゲンコツで叩いたわ。流産するかと思って、力の限り叩いた。でもムダだった。お腹はどんどん大きくなった。それでも犯され続けた。毎日数人ずつやって来て犯された。病院での出産後、私は言った。“その子は見たくもない。連れてって”。すると赤ん坊の泣き声が部屋中に響きわたった。その翌日、母乳があふれ出したわ。私は言った。“その子にお乳をあげるわ。でも1回だけよ”。娘が連れてこられた。その子を腕に抱き上げると、弱々しくて小さくて、とてもきれいな女の子だった。私は、この世にこんなに美しいものがあることを、知らなかった」という台詞からも伝わってきた。
戦争犯罪の真実を考える上にも、(レンタル1週間80円で見られる時代に生きているのだから)是非見てもらいたい作品である。


(注1)資料・極東国際軍事裁判
http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban.html

こうした資料が物語るだけでなく、戦争という人間性が否定される状況下では常に虐殺や集団レイプが必然的に起きており、影響力のある政治家が史実の積み重ねた結果を無視して、自らの意見を発言することは許されるものではない。私が(減税及び脱天下りの実践から)支持する河村たかし名古屋市長の南京大虐殺否定発言も不用意甚だしく、あってはならないものだと思っている。

(注2)予告編
http://www.youtube.com/watch?v=D2twzXbgOfw

(注3)国際極東軍事裁判資料より
「おびただしい数の強姦が行われた。 本人自身が抵抗するか、家族のものが助けようとして少 しでもはむかえば、死が待っていた。未成年の少女でもおばあさんでも見境い無し。まったく異 常としか言いようの無い猟奇的行為の連続であった」