(123)映画が抉り出す真実(1)『白バラの祈り』とハシズム

ハシズム(橋下イズム)が若い人たちや陽の当たらない人たちに絶賛され拡がって行くなかで、私の脳裏に蘇ってきたのはドイツ映画『白バラの祈りゾフィー・ショル最後の日々』(注1動画)のゲシュタポ尋問官モーアの台詞であった。
「君らは学生の特権を濫用している戦時下で勉強できるのは政府のお陰だ」
「民主主義の世なら私は仕立て屋どまりだ。警察官になれたのはフランス占領のおかげだ。さもなければせいぜい田舎の巡査だろう」
ヴェルサイユ条約が生んだインフレと失業と貧困をヒトラーが解決してくれた」(台詞は映画字幕より)
この映画は、ナチ反政府組織「白バラ」に属する女子学生ゾフィーが、ナチスドイツ末期の1943年に医学生の兄とともに反戦ビラをミュンヘン大学構内で撒き逮捕され、モーアの救済の提案にもかかわらず信念を貫き、逮捕からわずか5日間で処刑されるというストーリーである。
尋問官モーアの言葉はナチズム(国家社会主義)を信奉した当時のドイツ国民を代弁しており、私にはハシズムを支持する人たちの声にも聞こえる。
当時のドイツでは大学で学べるのは一割ほどの恵まれた家庭だけで、大部分の国民はハウプトシューレ(職業学校)で学び、親と同じ職人の道を選択するしか道がなく、それ故にモーアの仕立て屋どまりだという言葉がでている。
彼の台詞からは、ドイツ国民の大部分である生活に困窮するモーアのような階層の人たちにとって、ナチズムが福音であり理想であったことが浮かび上がってくる。
すなわち彼の言葉を借りれば、糞みたいな民主主義によって政治は腐敗し、実質的には門閥主義が横行し、職人の子は職人、インテリの子はインテリ、企業家の子は企業家であることが暗黙的に決められた階級社会であり、ユダヤ企業家のような一握りの人たちだけが益々裕福になっていく時代であった。
そうした全てを解決してくれたのが、総統アドルフ・ヒトラーだと、モーアは真髄から絶賛するのである。
すなわちナチズム(国家社会主義)によって政治の腐敗は一掃され、企業の社長も就業後は若い工員の指導で平等に奉仕活動に駆り出され、帝国森林に見るように自然保護運動や動物愛護運動に至るまで徹底したヒトラーの正義を、モーアは福音とし、理想としているのである。

まさに現在の日本社会でハシズムがより衰退の激しい関西で絶賛される状況は、ナチズムがドイツ社会で陽の当たらない大部分の国民に絶賛された状況と同じでないだろうか。
ハシズムを綿密に検証していけば、政治腐敗の一掃やカビ臭い官僚組織の刷新を掲げ、国家社会主義と類似する平等と正義論で無垢な若者の心を掴んでいるが、連れて行く先はボトム競争を深化する新自由主義であり、それを守るための軍国日本である。
今回の衆議院選挙ではハシズム日本維新の会は不備から予想ほど伸びなかったが、それでも比例区の国民支持率は20パーセントを超えており、安部政権のインフレターゲット政策でインフレに歯止めが効かなくなれば、今年の参議院選挙でさえハシズム大勝利が現実化しかねない。

話を映画に戻せば、『白バラの祈り』はドイツ統合で東ドイツから出てきたナチスの史実に基づいて制作されており、1943年2月18日ゾフィーは兄と大学構内で逮捕され、2月22日の人民法廷で以下の判決理由で死刑判決を受け、即日処刑されている。
「被告はビラの中で、戦時において武器生産のサボタージュを呼びかけ、わが民族の国家社会主義的生活を打倒し、敗北主義を宣伝し、われらの総統を口汚く罵り、国家の敵に利する行いをし、我々の防衛力を弱めんとした。それゆえに死刑に処せられる。・・・もし死刑以外の扱いをすれば、連鎖の始まりとなり、その結末はかつて−1918年(の第一次世界大戦敗北)−と同じになる。それゆえ戦う民族と国家を守るべき人民法廷には、唯一の刑、すなわち死刑しか選択はありえない。・・・わが民族に対する裏切りにより、被告らはその自らの市民権を永遠に失う」(出展ウィキペディア
しかし映画はフィクションである。
確かにゾフィーのモーアとの論争の台詞は尋問調書に基づいているし、裁判官に叫ぶ「今にあなたが裁かれるわ」という言葉も史実に基づいている。
しかし最初激昴していたモーアがゾフィーの死も厭わない人間愛に基づく信念にうたれ、救おうとする心の変化はフィクション以外のなにものでもない。
そして映画はフィクションの創作でナチズムの真実をより鋭く抉り出し、見る側にメッセージを伝えているのだ。
モーアの救いの手を拒否したことを聞いたエルゼは(共産党の関係から拘留され、ゾフィーの監視役として協力させられている女性)、「あなたはまだ若いわ。理想のために生き延びて」と、モーアの“手伝っただけ”という提案を受け入れることを薦める。
しかしゾフィーはきっぱりと拒否する。
そして翌日(22日の朝)ゾフィーはエルゼに、子供を抱いている夢を見たことを話す。
「その子は白い服を着ていた。その子の温もりを感じたら地震が起き、地が裂けたの。でも子供を救って安全な場所に置いたの。私は落下しながら解放感に満たされた。その子は私の信念だから生き延びたのよ」
この映画の真髄は、ゾフィーが命をかけてナチズムに反抗する信念を貫くことであり、トイレで泣く姿、処刑への絶叫、愛する両親との別れ、タバコを回して吸う処刑前の悔いなく清々しい表情、そうしたフィクション故に見る側の心に強烈に、しかも美しく突き刺さってくるのである。
そして私には迫りくるハシズムの前で、陽の当たらない人たちにもっと光をという叫びが、この映画から聞こえてくるのである。

P.S 私が『白バラの祈り』を初めて見たのは、2007年のベルリンであった(このブログを書くにあたって宅配DVDで暮れに再度見たのであるが、7本送料込みで860円と映画に関しては夢のように有難い時代だ)。毎週のように噴水が素晴らしいフリードリッヒシャイン公園に隣接する映画館(Filmtheater )に歩いて出かけたものだった。料金も月曜日は5ユーロ(土日は7ユーロ)と安いことから、私にとって月曜日が映画デイであり、2010年9月まで続くほど映画を見ることが楽しかった。もっとも図書館には何千というDVDがそろっており、1人1回につき15本まで1ヶ月無料で借りれたことから土日はそれらの映画を見ることが習慣となり、日本の黒澤映画『生きる』、『酔いどれ天使』や今村昌平の『うなぎ』なども見たものだった。それほど映画には恵まれているにもかかわらず、ベルリンだけで何百もの映画館が至るところにあり、概ね活況であった。決して市民はかつてのように裕福ではなく、多くの市民は暮らしに困窮していたにもかかわらず、週末はこぞって映画館に足を向けていた。それは映画が市民の叫びを代弁するほど、ドイツ人の暮らしになくてはならないものとなっているからでもあった。

(注1)予告編http://www.youtube.com/watch?v=3-TC7iBrYqY
    英語字幕完全版1部http://www.youtube.com/watch?v=5lgJtqq432A
             2部http://www.youtube.com/watch?v=qlzCCirCVOU