(153)ハネケ映画を通して現代を考える(1)。『愛、アムール』前篇

〈映画について書き出すと、ドイツからの情報が疎かとなるため、下にアールタークドイツのコーナーを設けました〉

ドイツ映画の巨人ミヒャエル・ハネケは、「映画が気晴らしの娯楽とするなら、私の映画は無意味です。私の映画を嫌う人々は何故嫌うのか、自問しなければなりません。嫌う理由は、痛いところを衝かれているからではないでしょうか」と言い切っている。
しかし彼は同時に映画を作る際最も大切にしているものは、「観客である」と断言している。
それ故彼のどの映画も観客の心理を綿密に計算していることから、ファーストシーンからラストシーンまで、たとえ映画のストーリーが観客にとって不快なものであっても、観客の意識は全開され、ハネケ映画に引き込まれていく。
そして彼を一躍世界のハネケに押し上げた2009年カンヌ映画祭バルムドール受賞作『白いリボン』では、ホロコーストの罪業を予感させ、人間の内面に潜む不快な恐ろしさを感じないではいられない。
すなわちハネケ映画はホロコーストという決定的な罪業を背負った現代人の視点に立ち、不条理な現代社会を恐ろしく冷徹に見つめている。

今回から始まる「ハネケ映画を通して現代を考える」では、彼の全作品を掘起し見ていくことで、様々な視点からハネケ映画が抉り出す現代を考えてみたい。

まず最初は、今年日本で3月に封切られた2012年カンヌ映画祭バルムドール受賞作『愛、アムール』から始める。
彼はこの映画を、「病気であるとか、死であるとかを描いた作品ではなく、愛について語られた映画です」と述べているが、死期の迫る老夫婦の愛を不条理ともいうべき現代社会の枠組みを通して、冷徹に見つめている。
物語は音楽なしのクレジットから始まり、突然のアパルトマン(高級マンション)の扉を激しく叩く音、突入する装備した消防士たち、目張りテープを剥がした奥の窓際の部屋には老女が横たわり、上半身には花びらが撒かれている(手口は一つ一つ異なっているが、いつものハネケ映画のように、観客を恐ろしい求引力で引き摺り込んでいく)。
そして次のシーンはパリシャンゼリゼ劇場の演奏会につながり、音楽家老夫婦は著名な愛弟子のリサイタル演奏にこよなく満足し、二人の表情に至福が満ちている。
しかし物語はここから、ゆっくりと破局へと向かって転がり落ちていく。
コンサートの翌日の朝食で妻が放心状態に陥り、しばらくして元に戻るが、何も覚えていないことから、病院に検査入院する。
病院の入院については全く描かれていないが、脳への血管を塞ぐ血栓手術に失敗し、右半身不随となってアパルトマンに戻ってくる。
その際妻アンヌは夫ジョルジュに二度と病院の入院をさせないことを誓わせることから、病院での扱いがいかに彼女の人間的尊厳を傷つけるものであったかを窺わせる。
彼女は気丈夫に、しかも気高く病気と闘っていくが、病状は少しずつ悪化していき、顔面の麻痺によって言葉さえ満足に話せなくなっていく。
夫ジョルジュは献身的に介護するが、悪夢に脅えるほど精神的に追い込まれていく。
さらに妻アンヌの病状は悪くなっていき、失禁も堪えられなくなりオムツをあてがわれ、寝たきりになり、意識さえ朦朧とする時間も多くなっていく。
そのため看護師の女性は二十四時間看護の二人となるが、ジョルジュは妻アンヌの扱いに「患者は抵抗することができないのだ」と怒り(具体的には全く描かれていないが)、看護師を解雇する。
看護師の女性はプライドを傷つけられたためか、「私はプロよ!こんなこと云われたことないわ!」、そして立ち去るとき、「老いぼれのクソ爺!」と捨て台詞さえ叫でいる。
また時折来る音楽家として一流の娘エヴァも、母の病状が来る度に悪くなっていくことから、どう対処してよいのか全くわからず、「他の治療があるだろう」、「こんなに心配しているのに」と父のジョルジュに当たる。
特にジョルジュが看護師を解雇してから、一人でアンヌを介護するようになったこともあって部屋に鍵をかけたことを、エヴァは激しく怒るが、「お前が引き取って世話するか、それともホームにいれるか」と言われると、何もできないのである。
この辺に、ハネケの現代の専門家社会への痛烈な批判が感じられる。
実際この老夫婦にしても、音楽に関しては一流の専門家であるが、全く他のことにはイノセントであり、人生の終末で尊厳を守って生きようとすれば、現代という産業テクノラート社会には選択肢がないのである。

妻アンヌは夫の関与さえ拒否し始め、必死に飲ませようとする水を吐き出す。
思わず夫ジョルジュは手を上げてしまう(私自身も、末期ガンの母が病院の治療を拒否し、1年以上看護していたので、このシーンは他人事とは思えない。私の場合は手を上げることはなかったが、当時塩分を断つゲルソン療法を信じ必死であった事から、何度も声を荒げたことを悔いつつ思い出さずにはいられない)。
そして夫ジョルジュはある決断をする。
そのような決断へ至る想いを、ハネケは2回の鳩が迷い込む隠喩表現で巧みに演出している。
1回目は窓を開け放し、鳩を外へ自由に飛び出させている。それはどのような妻アンヌの最後も、有りの侭に受け入れようとする夫ジョルジュの決意にも映る。
そして枕で妻アンヌの息を絶った後での2回目は、彼は鳩を部屋に追い込んでいき、毛布で捕え葬った鳩を、愛おしく撫でさするのである。
しかし彼は日記に鳩を葬ったことを書かずに、鳩をすぐに逃がしてやったと嘘を書いている。
そして映画は、ジョルジュの願望としての日記の嘘のように、妻アンヌの「コートは着ないの?」という優しい響きで、二人が何処ともなく外へ出かけるシークエンスを映し出している。
実際はジョルジュは自らの命を絶つために(例えばアルプスのクレパスでの、人に関与されない死を選択するために)、猶予期間の必要性から部屋をテープで綿密に目張りしたのであろう。
おそらく数日後娘エヴァに遺書が届いたことから、ファーストシーンの消防士たちの強制立ち入りが実行されたのだろう。
それを裏付けるように、再びアパルトマンを訪れた娘の表情は両親の貫徹した愛をいとおしむように、平穏そのものであった。


アールタークドイツ1・・・スノーデン内部告白が世界に投げかけるもの(1)


6月30日の独誌シュピーゲルはスノーデンの掲載依頼を受けて、「アメリカ秘密情報機関NSAのドイツへの盗聴行為が毎月5億件なされていた」と報道し、世界に波紋を拡げた。
また今回のスノーデン内部告白で注目すべきは、グーグル、フェースブックスカイプ、ヤフー、ユーチューブ、ホットメールなどを通して、世界の多くの市民の通話やデータが監視されていたことであり、「市民はグローバルに監視されている」と言っても過言ではない。
シュタージ(東独秘密警察)の悪夢を体験したドイツでは、連日のように議論が拡がっており、ZDFの毎週放送される公開討論「マイブリット・イレナの世界」でもこの問題が議論されている。
この議論内容は日本人にとっても重要と思われたことから、字幕を付けて6回予定で載せていきたい(ドイツでは日本のNHKと異なり、ZDF放送の多くの録画は当然のようにユーチュブに投稿されている)。