(154)ハネケ映画を通して現代を考える(2)。『愛、アムール』後篇

上に載せた字幕を付けた『アムール映画制作現場にて』では、この映画の3人の主人公がハネケについて語っているが、彼の映画監督としての巨人像が溢れ出している。
それについては追々と述べていくが、今回はこのハネケ映画が投げかけるものについて考えて見たい。
夫ジョルジュは絶えず共に苦しみ合うという愛を優先し、愛ゆえに妻アンヌ及び自らの死を選択している。
しかし現代においてそのような選択をする者は極々僅かであり、大部分は病院でチューブを付けられ、私の父がそうであったように、自らの置かれている状況も少しずつ自覚できなくなり、死んでいくのが普通となっている。
それは人生のラスト場面であり、時間に追い立てられる多くの人の日常からすれば、考えたくない場面であり、ラストへの先延ばしは当然の事であろう。
しかし私のように数年間母のラスト場面に立会い、今年から少ない年金から介護保険料が強制的に徴収されるようになったこともあり、益々切実な問題となって来ている。
もっとも私自身は、介護の世話になりたくないと思っている。
何故なら私自身10数年前母の介護を前に、全国各地で始まった介護士養成研修を受け、デイセンターでの画一的マニュアル介護や、分刻みで行う訪問介護の実習を体験して、現在の産業的とも言うべき介護システムに依存し始めれば、自らの尊厳確保が難しいと思うからだ。
上に載せた動画でも介護場面が挿入されていたが、看護師は妻アンヌの気持ちなど全く無視して介護していたが、痛々しく感じない人はいないだろう。
もっともこの看護師は、夫ジョルジュの指示には従うことからましであり、「患者は抵抗できないのだ」と解雇された美人看護師は、高額な料金を受け取りながら、糞ジジイと罵っていたことからも、不当解雇だと思っている筈だ。
何故なら彼女は自らプロと言うほど仕事にプライドと自信を持っており、現場では俊敏な効率性を優先する産業的介護が求められているからである。
まさにそのような受ける側の心に配慮しない現代システムが、老夫婦を自ら死への選択へと追い込む愛の物語に、ハネケの託した怒りを感じないではいられない。
ハネケは1997年の第5作目として『城(カフカ小説の映画化)』を敢えて制作したことからも、彼の背景には絶えず現代の肥大化する全体支配構造が垣間見られる。
しかし究極的には『タイム・オブ・ウルフ』(2003年制作)で見せたように、世界の終末においてヒューマンに救いを求めたことからも、戦後ドイツのナチズムの全面的反省に立つ健全性が息衝いている。

それは既に何度も私が述べているように、ドイツの戦後が官僚政治から経済や教育に至るまで、従来の国民に国家(政府)への奉仕を求める全体的支配構造社会から180度転換して、国家に国民への奉仕を求める民主主義社会に変化したことにある。
確かに日本の戦後も民主主義を基調とする社会に変化したが、それは外面だけの官僚支配政治で、責任を分かち合いで責任を取らない稟議制はそのままであり、依然として国民に国家への奉仕を求める全体的支配構造社会を肥大化させている。
確かにあらゆる政策は国民発案を基調としており、国民を代表する限りなく多い審議会で十分議論がなされるが、審議会の委員は官僚によって選ばれ、官僚の描くシナリオ通りに運ばれるやり方は全く変わっていない。
ただ外見だけの責任さえ取らなくてもよい民主主義に過ぎず、それを物語るようにドイツには存在しない天下りや無数の権限がどこまで行っても現存し、構築された巨大な利権構造が国民の現役世代の血税だけでなく、将来世代の税金さえ1100兆円も喰い尽くしている。
そのような全体支配構造社会にあっては、どれだけ消費税を増税しても、私たちの老後さえ、どのような悲劇が待ち受けているか知れない。

話を映画の人生のラスト場面に戻せば、人其々に多様な選択肢があるべきだと思っているが、私自身は孤独死を選択したい。
最近孤独死は増加することで、周囲の人たちに迷惑をかけることからも根絶が求められているが、周囲の人たちに迷惑のかからないよう後始末さえできれば、人間の生の権利として必要だと考えている。
例えば遺書と始末料を振り込むことで、死後数日後に始末されるなら、問題はない筈だ。
実際書物などには、昔の高僧たちの多くは死を悟り、気が失せる人生のラストの場面で自ら食を断ち、孤独死を選択したことが記されている。
それは憐れむべき人生のラストではなく、ハネケの提示した愛を優先して選択するラストであり、誇るべき人生のラストだ。


アールタークドイツ2・・・スノーデン内部告白が世界に投げかけるもの(2)

今回の議論では前シュピーゲル誌編集長のゲオルク・マスコロやジャーナリストのザシャー・ロボの「アメリカ秘密情報機関NSAによってドイツの個人的情報が脅かされているだけでなく、ドイツ民主主義の危機である」という意見と、コル首相の下で秘密情報機関の指揮を務めたベルント・シュミットバウアやバイエルン州内務大臣ヨアヒム・ヘアマンの「NSAのスパイ活動は以前から存在し、テロを防止するためには必要である」と意見が衝突し、白熱していく。
しかし今回の議論の終わりで全く予想もしなかったのは、シュミトバウアが個人情報を脅かす一切の情報活動やスパイ養成施設を拒否しますと断言し、スノーデン発言分析で真実を求め、常に事実を公にして行くことは重要であり、その方法はある筈ですと述べたことである。
シュミットバウアはドイツを象徴する官僚であり、コール首相府で1991年から1998年まで国家大臣として連邦秘密情報機関BNDを指揮し、1992年以降のレバノンやコロンビアの人質事件処理などで008と異名を取るほど世界を股にかけ活躍しており、ザシャー・ロボが怒るように戦犯なのである。
しかし戦犯であるシュミットバウアが、現役を引退しているとはいえ、テロ以外のあらゆる国民の個人情報スパイ活動を拒否し、国民に公開を求めていることに、ドイツの健全性を感ぜずにはいられない。
それは、ドイツに天下りがなく、日本のような巨大な利権構造がないからであり、まさに日本の官僚支配構造欠陥を浮き彫りにしている。