(173)ハネケ映画を通して現代を考える(17)べニーズ・ビデオ前編・・両親告発の意味するもの

ミヒャエル・ハネケ第二作の『べニーズ・ビデオ』は衝撃的な豚の屠殺ビデオから始まる。
消費者である観る側は、その残忍さを思い知らされずにはいられない。
もっともドイツやオーストリーでは屠殺銃で瞬間的に失神させ、飼育動物も如何なる場合も苦しませないことが法律で求められている。
しかしこの映画の屠殺銃はそれとは関係なく、少年ベニーの少女殺しの道具として使われている。
タイトル後の冒頭では、年の離れたベニーの姉が両親の豪華なマンションで、両親に無断でネズミ講のパーティーを開いている。
このネズミ講では、頂点の操縦士が2人の副操縦士を作り、副操縦士は2人の乗員を作り、乗員は2人の乗客を作り、乗客各々が1万シリング(約10万円)出資すると、操縦士は8万シリングを受け取り飛立ち、各々の副操縦士が操縦士に繰り上がる仕組みである。
こうしたギャンブル資本主義(新自由主義)を象徴するネズミ講コソボ紛争ニュースを背景に、物語は展開されていく。
ベニーも姉のネズミ講を真似たものを、学校で始めている。
ベニーの趣味は、母親アンナが幼少から美術店で働いていることもあって、孤独にビデオを撮ることと観ることである。
ある日、ビデオレンタル店でいつも見かける少女を自宅に誘う。
自宅の部屋では少女の注意を引くために豚の屠殺ビデオを観せ、くすねた本物の屠殺銃も見せる。
ベニーはその際少女の‘意気地なし’という挑発に、うっかり引き金を引いてしまう。
まさに、それは事故であった。
しかし少女が痛みで叫ぶことから、それを制止しようとしてその後2発も銃を撃ち、殺人を犯してしまう。
映画では、犯行シーンやベニーの死体処理ビデオが再生されるが、ベニーは一見冷静さを装って淡々と処理にあたっているため、心情は映像から読み取れない。
ただ犯行後友人から誘いがあり、友人宅に泊めてもらい、ベットで煙草を吸いながら犯したことを考えているように見える。
翌日宿題まで貸してもらい帰宅するが、途中で床屋に寄り、丸坊主にしようとする。
理髪師が「いいんだね?ご両親に憎まれたくない」と言うように普通では考えられないことであり、丸坊主にすることでベニーの心情が伝わってくる。
その頭でベニーが帰宅すると、娘が無断で自宅を使用しても怒らない父親も、「まともな人間はお前を含めて皆社会の一員として決まりの中で生きている。何も大層なことじゃない。先生にしたってお前が強制収容所みたいな頭で現れたら一体どう思う?」と、心配を込めて叱る。
翌日学校で教師に借りた宿題を詰問され、身を守るために宿題など借りてないと嘘をつき、抗議する友人を殴る。
それを教師に見られ、親の来校を求められたこともあり、帰宅後全てを母に投げ出す。
すなわちベニーは、母親に犯行のビデオを観せる。
その際父親ゲオルグも加わり、息子の少女殺しの一部始終を知る。
オルグは父親の農場経営からエリート社員へと修羅場を潜って生きてきたのか、このような恐ろしい途方もない出来事にも冷静に対応しようとする。
それとは対照的に母親アンナは為すすべもなく、驚愕で歯も震える有様である。
そして最終的に両親の選択した道は、ベニーを守ることであり、同時に家族の幸せを守ることであった。
それは、少女の死体を現在閉鎖されている農場に運び解体することであり、「うんと細かくすればトイレで流せる」という道であった。
そうした両親のやり取りを、ベニーはベットで無言で聞いていた。
そして父親が解体処理をしている間、アンナのエジプトの母が亡くなったことにして、ベニーとアンナは葬儀名目でエジプト旅行に出かける。
見学旅行は外面的には楽しそうにも見えるが、母親は絶えずオーストリアの新聞に目を通し、帰国前日のベットでは罪の意識に怯えて慟哭する。
ベニーの心情は描かれていないが、母親のトイレシーンを撮そうとしたり、母親の慟哭を理解できないイノセントさが感じられる。
帰宅後父親ゲオルグが優しく「帰って嬉しいよ。愛している」と言った後、「聞きたいことがある。何故あんなことをした?」と尋ねると、「わからない、どうかと思って」と答えている。
すべてが終わったかに見えた時、再び両親がベニーの少女殺しを知った夜の会話シーンがビデオ再生される。
ビデオ再生は、ベニーが両親の死体処理を警察に訴えたからであり、警察でのビデオ再生で警察官から「なぜここへ来た?」と問われ、ここでもベニーは「なんとなく」と答えている。
警察官と自宅へ戻ると、謝る息子をゲオルグは清々しく見つめ、アンナは理解できない表情で目を伏せるが、両親の表情にはベニーを責めるものはなく、むしろ解放された安堵さえ感じられた。
それは、両親がギャンブル資本主義の競争社会から自由に解き放たれた時であり、現実感のないイノセントな子供に育てたことに対して自らを痛く感じ始める時でもある。