(196)地域分散型自給社会が創る理想世界への道13・・『第三次産業革命』(5、社会に理想を求める教育)


2014年3月20日21日ボーンで開催された包括的教育(障害者と共に学び合う教育・動画・・生徒自身が助け合って学ぶ素晴しさを語っている

互恵的で民主的な水平型学習

リフキンは現在の教育を厳しく批判して、「率直に言って、アメリカや世界各国の教育制度は過ぎ去った時代の遺物だ。カリキュラムは時代に合わず、経済や環境の危機という現状を踏まえていない(334ページ)」と述べている。
そして第三次産業革命の教育の使命を、生物圏意識(多様な人類をひとつの家族と見なし、地球上に暮らすすべての生物種を共通の生物圏で相互依存的に生きる進化上の拡大家族と見なす)で思考や行動できるようにすることであると主張している。
具体的には、以下のような互恵的で民主的な水平型学習を提示している。
「生徒を少人数の作業グループに分けて、具体的な課題を与える。課題を提示したら、教師はもう手を出さず、生徒たちに自身で知識コミュニティーをまとめさせる。生徒は、アイデアをやりとりし、互いに質問し、互いの分析を評価し、互いの貢献を足がかりにして、コンセンサスを成立させることが求められる。・・・このようにして、生徒は互いに教え合い、対話を乗っ取ることなくリードする方法を学ぶ(358ページ)」

社会に理想と愛(連帯)を求める教育

リフキンの提示する教育は、まさに戦後のドイツ教育改革でヘルムート・ベッカー等が目標としてきた「競争より連帯を育む教育」であり、その到達点が一致するのは注目すべきことである。
互恵的に助け合う連帯、すなわち愛が求められることは、再生可能エネルギーが溢れだす満ち足りた社会が競争原理を不要とし、共生原理によっているからに他ならない。
そこでは当然のことながら、教育の目標として社会の理想追求が掲げられよう。
何故なら満ち足りた豊かな社会も、豊かさゆえに問題も決して少なくないからである。
例えば遺伝子技術の進歩で自らの細胞から臓器がつくられるようになれば、益々人間の寿命は限りなく延命されて行く、しかしそれが必ずしも人間に幸せをもたらすとは限らないからだ。
しかしそのような問題も、理想と愛を求める教育で育まれた市民は誰もが納得のいく解決策を見つけ出すだろう。

“たえ難いほど憲法に反する”日本の教育

日本は高校進学率97パーセントを超える教育国であり、現在の競争教育こそ民主的で素晴らしいと思っている人にとって、上のタイトルは余りにも挑発的でラジカルに思えるかも知れないが、教育の機会平等を厳守しようとしているドイツから見れば、“たえ難いほど憲法に反する”と書かずにはいられない。
日本においても憲法26条で、「国民は、法律の定めるところによりその能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」としているが、現状は違法状態を容認していると言えよう。
何故なら年間所得200万円以下が1100万人を超える現在の格差社会で、相対貧困家庭に「等しく教育を受ける権利」を与えているとは、誰が見ても言えないからだ。
ドイツでは貧困が教育のハンディーになっていないことを、貧しい母子家庭で育った前のシュレーダー首相や現在のベルリン市長ヴォ―ヴェライト(3期目)は大学卒業後も家庭に依存しない恵まれた奨学金で学び続けることができ、それを実証している。

日本との教育の驚くべき違いは、先日放映された「大貫康雄の伝える世界(ドイツと日本。こんなに違うの!?・・動画)』見れば、理解できるだろう。
私自身も還暦を契機に4年間ベルリンで学んだ経験があるが、授業料は私のような高齢聴講生にも無料であり(ベルリン自由大学の場合1科目の登録料金は30ユーロほどであるが、100ユーロが上限でどれだけ登録してもよい)、しかもベルリン市内の地下鉄、列車、バスが自由に乗れる学割1か月定期券は50ユーロほどと、学生だけでなく市民も学ぶことを求められていると言えよう。
放映に出演されたドイツ人大学院留学生のカーロさんが語るように、ドイツでは各大学の選抜入学試験がなく、高校終了試験アビトゥがあるだけである(各高等学校の自主試験であったが、2005年頃までには、ほぼ州の統一試験となっている)。
しかもアビトゥ試験では、カーロさんが語るように暗記や詰め込みを必要とせず、論理的な思考が求められている。
すなわちそこから、社会に理想を求める批判精神も養われると言えよう。
そのようなドイツでは、「国家が教育に奉仕する」と断言できる。
日本も戦後、戦前の教育勅語による国家に奉仕する教育が反省され、教育基本法の創設で「国家が教育に奉仕する」ことが求められた。
しかしアメリカの政策転換で実質的には逆戻りし、現在日本では「教育が国家に奉仕する」ことが益々求められていると断言できる。
そこでは高額な大学授業料を必要とし、若者を無給残業も契約で厭わない産業戦士の育成が求められているだけでなく、集団的自衛権憲法解釈で戦争戦士さえ求められようとしている、と言っても過言でない。