(130)映画が抉り出す真実。(8)黒澤映画が今も警鐘し続ける、“どうにも止まらない”もの(『生きものの記録』)

1955年黒澤明が『生きものの記録』を世に出したとき、黒澤は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国より早く、率先してこういう映画を作るということは、当然だれかがやるべきだ」と述べている。
この前年ビキニ環礁で水爆実験が強行され、“死の灰”をかぶった第五福竜丸の船員が亡くなる事件が起こり、アメリカによる南方からの放射能が、さらにはソ連による北方から日本各地に降り注ぎ、ラジオでセンセーショナルに報道され、まだ幼かった私も記憶に残っている。
また同年中曽根康弘などが提出した原子力研究開発予算が国会で承認され、日本の原子力発電の歩みが開始された。
『生きる』や『悪い奴ほどよく眠る』で述べたように、黒澤明の時代への先見性は跳び抜けたものがあり、平和利用という原子力時代の幕開けを誰よりも恐ろしく感じていたことは明らかだ。
既に『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』を世に出した黒澤は、日本映画監督の第一人者に登りつめていただけでなく、世界の黒澤となっていたにもかかわらず、時代の流れに抗した作品を制作した背景には、戦時下で反戦映画『一番美しく』を制作したように、日本が深刻な状況に陥っていくことに黙って見ていられなかったのだろう。
『生きものの記録』を今再び見るとき、主人公の中島喜一(三船敏郎)を通して、黒澤明の時代への苦悩と積極的な抗議姿勢を感じずにはいられない。
映画は下の映画冒頭の数シーンが物語るように、一代で鋳物工場を興し成功した喜一が、原子爆弾などによる放射能を極端に恐れるようになり、安全なブラジルへの一族移民を独断で計画したことから、一族から準禁治産者の申し立てがなされるところから始まる(注1)。

結局一族の殆どは、将来の安全を喜一の築いた現在の富である工場やお金に求めた。
それはまさに、お金のために被爆国日本が原子力を容認することを暗喩している。
もっとも喜一の理解者が全くないわけではなく、妻のとよ(三好栄子)を除き、末娘すえ(青山京子)と彼の赤ん坊を育てる妾の朝子(根岸明美)であり、将来世代の母なのである。
また歯科医師で調停委員の原田(志村喬)は当時の良心的知識人を代弁しており、喜一を準禁治産者として認めることに抵抗するが、押し切られ良心の呵責を感じている。
結局準禁治産者となった喜一は追い込まれ正気さえ失い、一族が依りどころとしている工場を全焼させる。
翌朝喜一は呆然と立ちつくす家族や工員に、水浸しの地面に土下座をして謝っている。
工員の「俺たちはどうなってもいいのかね」という声に、「すまなかった。すまなかった。お前たちも連れて行く。自分たちだけが助かっても・・、皆が助からないかん」と、只々謝罪に必死である。
当時の御用知識人を代弁するかのような長女の夫(清水将夫)の、「でもね、だいいちブラジルへ行こうが何処へ行こうが、水爆に対して安全な場所なんか地球上にないですよ。水爆400トンで地球は丸焼けですよ。しかも世界の水爆保有量は、とっくにそれを超えている」の言葉に、末娘の「なにさあんたなんか、偉そうに口先ばっかりで、本気で考えたことないのに。お父さんは、お父さんは、一人で考えて、考えて、皆のことを心配しているのに、考えないのはあんた達よ」という怒りの叫びが、胸に突き刺さってくる。
そして中島は、結局この後精神病院に入院する。
呵責を感じている調停員の原田が見舞いに行くと、精神科医中村伸郎)が次のように言う。
「私はあの患者を診るたびに、酷く憂鬱になって困るんです。こんなこと初めてです。狂人というのは、そりゃ、憂鬱な存在であることには違いありませんが。しかしあの患者を見ていると、なんだかその正気でいられる自分が、妙に不安になるんです。狂っているのはあの患者なのか、こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか?」
そして訪れた個室の病棟では、喜一は「よくおいでなさったなァ。ここなら大丈夫だ。・・その後、地球はどうなりました?まだ大分人が残っとるじゃろうか?・・人はまだたくさんおりますか?」
うなずく原田に、「そりゃいかんなァ。それはいかん。早く逃げないとえらい事になるぞ。なぜ解らんのかな、早くここへ、この星へ逃げてこなければいかん。早く、この星へ(急に窓の外を指して)。ああ、地球が燃えとる、ああ、地球が燃えとる」
原田はただ呆然と見守るだけで、そしてラストは子供を連れて面会に来る朝子とすれ違うシーンで終わりであるが、黒澤の警鐘は最後まで続いていく(注2)。

実際この映画がつくられて60年近くも経つが、愚かな人類は米ソの果てしない核ミサイル競争だけでなく、中国さえも地球が全滅するに十分な核を保有し、イスラエルとイランの核戦争は時間の問題とさえ言われ、北朝鮮の度重なる核実験が地球全体を脅かしているにもかかわらず、世界は有効な手立が全く無いと言っても過言でない。。
しかも日本においては2月10日のNHKスペシャル「核のゴミどこへ・・・検証・使用済み核燃料」(注3動画)で述べられているように日本の核燃料サイクル計画は、提言書を出した経済産業省の若手官僚たちだけでなく(注4PDF)、核燃料サイクル計画を政策した当時の官僚たち、当時の電力会社幹部たちさえ、安全性だけでなく、経済的にも完全に破綻していることを認めている。
それにもかかわらず政府が核燃料サイクル計画の続行を決めたのは、福嶋原発事故後の23回に渡る原子力委員会の秘密会議であり、会議に出席した鈴木達治郎委員長代理は番組で、「今の自分たちの属している団体や組織の利害というものが、今のサイクル政策にやはり、え・・直結しているという事で“やっぱり事業に影響がでるから止めて欲しい”と・・・」と述べていた。
すなわち、核燃料サイクル計画がどのように危険であろうと、経済的にも破綻しており、国民に何十兆円の損失を与えようが、肥大し生き続ける組織は喰いついた利権に、“どうにも止まらない”ことを意味しているのだ。
それは日本の財政危機でも全く同じであり、日本が破綻しても喰い尽くすまでは“どうにも止まらない”のである。
そして世界の核戦争危機においても、人類が一旦口にした欲望の果実は、欲望配分の適正なルールが構築されない限り、たとえ人類が滅亡しても、喰い尽くすまで“どうにも止まらない”のである。
それを黒澤明は、今も警鐘しているのだ。


(注1)正確にはタイトルシーンの次に、調停委員の歯医者原田の診療の一シーンがあって次である。タイトルシーンでは魂に突き刺さるような苛まれた音楽が流れ出し、同時に都会を行きかう人や車の俯瞰撮影で始まり、この映画の数箇所で黒澤映画がドイツ表現主義映画(不安定な構図に社会の不安や人間の闇を追及する)に学んでいることを実感させる。

(注2)特に1990制作の『夢』では将来の原発事故に警鐘を鳴らし、富士山近郊の6基の原発が次々と爆発し、愚かな人間が逃惑う姿を鋭く捉えている。
動画http://vimeo.com/22013550

(注3)動画http://www.dailymotion.com/video/xxeu27_yyyy-yyyy-yy-yyyyyyy_news?start=7

(注4)経済産業省の若手官僚たちが2004年春に出したPDF文章。
http://kakujoho.net/rokkasho/19chou040317.pdf