(131)映画が抉り出す真実。(9)共感を湧き起こす木下映画が、“どうしても越えなければならない”もの(『二十四の瞳』)

木下恵介映画が最近日本でリバイバルとして人気をはくし、今年のベルリン国際映画祭でも11作品が上映された(注1)。
特に人気が高いのは1954年制作の『二十四の瞳』であり(2月2日と2月22日に上映)、「“何も言わない”庶民の苦しみ(das stumme Leiden der Zivilbevölkerung)」が心を引き付けると紹介されている。
この作品は小豆島出身の壺井栄の1952年小説「二十四の瞳」の映画化であり、実体験に基づき、戦前の軍国主義の中で真剣に生きようとしながら、時代に翻弄されていく高峰秀子の演ずる女(おなご)先生と生徒たちの物語であり、見たことのない人は勿論のこと、見たことのある人も、もう一度じっくり見て欲しい映画である。
(幸いユーチューブ英語版に完全版を見つけたので載せておきます)

美しい自然景観のなかで、教育に真剣に取り組む新任の女先生と純白な生徒たちの美しい心のふれ合いがあり、リリシズムに溢れている。
しかしそれにもかかわらず、木下映画は冷酷である。
最初にそれを感じるのは、貧しい家庭の生徒マツエの母が産後亡くなり、女先生がお見舞いする場面である。
何故なら、女先生はマツエが早く学校へ出てこられることを願って、生徒の一番欲しがっていたユリの花が描いてあるアルマイトの弁当箱を贈るが、マツエは赤ん坊の面倒を見ないといけない現実があり、さらに父親の次のような残酷とも思える言葉に向かい合うからである。
「・・母親の乳がのうなってしまては、長ごう生きとらんでしょう。その方が赤ん坊のためにも幸せでしょう。こんな貧乏屋に育っても、なんでエエことがあるもんですか」
もちろん女先生はそれを平然と受け止めるわけではなく、画面からも思い遣る涙が溢れ出してくるのであるが、役場や父兄に相談して赤ん坊を助けようとせず、只々共感して泣くだけなのである。
また以前は庄屋であった家のフジコが借金で傾き、6年最後の修学旅行に行けないだけでなく、将来の希望を作文する授業で書けないと泣き出すと、女先生は教室の外に連れ出し、「・・・自分だけしっかりしなくてはダメ。先生は無理なこと言ってるようだけど、先生もう他に言いようがないのよ。その代わり泣きたいときは、何時でも先生のところへいらっしゃい。先生も一緒に泣いてあげる」と、最初から匙を投げており、只々共感して一緒に泣くだけである。
それは彼女に勇気がないわけではなく、当時のムラ社会ではそうしないと生きて行けない掟があり、木下映画ではそれを鏡のように只々映し出すだけである。
そのような掟は、「草の実」の作文教室を読んだ同僚教師がアカの嫌疑で連行された際、女先生が生徒のアカの質問に答えただけで校長から厳しく叱られ、さらには生徒たちが戦地で死なないことを願って、「どうしてそんなに軍人になりたいの」、「うん、(軍人)好かんことないけど、漁師や米屋の方が好き」と言うだけで、それを父兄から聞いた校長に震え上がって怒られることが、暗示している。
もっとも校長にしても、彼女を非国民として叱っているのではなく、親しかった同僚教師の娘であり、愛情から身を案じて「何も言うな」と真摯に叱っているのである。
そうした中では、家族のことを考えれば教師を辞職するしか選択肢はないのである。
しかし辞職の選択は何ら解決にならず、戦局の悪化で日本全体が窮乏し、自らも時代の流れに無力に飲み込まれていくしかない。
それは、女先生の最も期待をかけた生徒のコトエが貧しいことと親孝行の気持から自ら進学を辞退し、大阪での女中奉公で体を壊して帰省し、先が長くないことから見舞うシーンが物語っている。
画面からは二人の涙が溢れ出してくるだけでなく、無念な思いが見る側の胸に突き刺さってくる。
そして軍歌が流れるなかで、男の教え子たちが出兵していく。
さらに、戦局の悪化で優しい夫までが徴兵され、母親が急死した後夫の戦死の悲報が待ち構えている。
敗戦で二人の息子が戦争で死ななくてもよい時代がくるが、無常にもまだ小さい一人娘が栄養失調で亡くなり、あまりの運命の酷さに気を失うのであった。

まさに木下恵介映画は、すべての災難を避けられない運命として受け入れてきた日本社会にあって、共感しかできない人々の苦しみを鏡のように映しだしている。
現在の日本社会はこの映画と違って、表面的には自由にものが言える時代になったが、本質的にはムラ社会が続いており、ドイツ人から見ればメルトスルーの福嶋原発事故があっても、全体としてそれを宿命として諦める、理解不能な“何も言わない”庶民なのである。
それ故にベルリン国際映画際で、“何も言わない”日本庶民の苦しみを理解しようとして、木下映画が11本も上映されたと言っても過言ではない。

もっとも脱原発求める側の視点から見れば、日本でも“アラブの春”に倣って毎週金曜日の国会前デモをケイタイでインターネット投稿し、最早“何も言わない”庶民ではない。
また公共放送NHKなども低線量被爆核燃料サイクル計画などで真実を伝えようとしており、これまで沈黙していた学者も活断層などで強い圧力にもかかわらず、怯むことなくものを言うようになってきており、脱原発の実現は決して遠くない。
しかしそのような動きとは逆に、世の中は安部政権の下で衆議院議員9割を擁す新自由主義翼賛体制となり、本質的には原発推進とTPP締結、そしてインフレターゲットを含めナショナリズムへと歩み始めている。
それ故に、木下映画が庶民に愛されるのである。
しかしそれだけでは、この映画の女先生のように只々時代に翻弄され、悲哀を繰り返さなくてはならないだろう。
この映画のラストは、戦後分教場に復帰した女先生が教え子たちから送られた自転車で、降りしきる雨のなかを雨合羽で通うシーンで終わっている。
そこでは女先生はなにも語らないし、意思を表す顔のアップもないが、見る側の姿勢で、二度と戦争を繰り返さない決意と希望が輝きだしてくる。

(注1)2013年ベルリン国際映画祭上映日程表
http://www.berlinale.de/de/programm/berlinale_programm/programmsuche.php?page=1&order_by=1&searchText=kinoshita&defaultvalue-clone-0738=Suche+Filmtitel+%2F+Person&searchSubmit=Suchen
前後上映日程
http://www.arsenal-berlin.de/fileadmin/user_upload/arsenal/pdfs/02-13_arsenal_A1_web.pdf