(134)映画が抉り出す真実。(12)天使に平和を願ったベルリンの映画詩人(『ベルリン天使の詩』)

この映画は冒頭で「子どもが子どもであった頃、」で始まり、下の予告編が映し出すように(ベルリンのツォー駅の戦争で廃墟と化したカイザー・ヴィルヘルム教会の屋根から)、主人公は人々を優しく見守る天使ダミエルである。
天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は、全知全能の天使と異なり不完全で喜怒哀楽に生きる人間が好きで、好きで堪らなく、脱天使までして人間を愛することを選ぶ。

映画はベルリンの壁崩壊前の小市民的暮らしを映し出した後、再び「子どもが子どもであった頃」と繰り返し、「なぜ僕は僕であって、君でない」、「なぜ僕はここにいて、そこにいない」、「いったいどんなだった・・僕が僕になる前は?僕が僕でなくなった後、僕はいったいなんになる?」と問いかける。
そして天使ダミエルと同僚天使カシエルが今日の報告をする下の動画シーンでは、途中から人間への憧れが語られる。

この動画(英語字幕)で2分過ぎから、天使ダミエルが「僕らはいつだって永遠に幻なんだから、・・」と天使であることを愚痴った後、「子どもを作り、木を植えるとまでは言わないがいいもんだろうな、長い一日の後家に帰り、フィリップ・マローのように猫にえさをやる。体温を持ち、新聞で手が汚れる。霊でいるだけでなく、食事をしたり、うなじに見とれ、耳に触る。真っ赤な嘘をつく。歩くと骨の動くのを感じる。全知でないから予感を味わえる。アーとかオーとか言う」という台詞は素晴らしい。
そして天使は以下の地下鉄のシーンで見るように、人間の心の奥がわかるのだ。

病気の中年男性「医者を変える金がないんだ。変えた方がいいのに。会わなくなって4年か、2年も病気とは」
中年婦人「この連中いつお祈りするのかしら?」
老婦人A「若い人はいい気なものね」
男性「おれはなぜ生きる?」
老婦人B「払いをどうしよう?年金はわずかだし」
破滅の中年男性「ねばってもどうせ破滅だ。親に見放され、女房に裏切られ、友達はいないし、子どもにはバカにされ、鏡の中の自分を殴りたい。(天使ダミエルが優しく肩に手をかけ、命の息を吹き込むように)何だ?どうしたんだ?まだ大丈夫さ。望みさえ捨てなきゃ何とかなる。自分で落ち込んだ。はい出せるさ!おふくろだって“くよくよするな”って」

素晴らしい発想である。しかしこの映画が比類なく素晴らしいのは、幼児にして老人の語りべホメロスを登場させ、この映画全体が20世紀末の叙事詩となっていることだ。
語りべホメロス老人は図書館で地球の模型を嬉しそうに見ながら、「世界はたそがれていくようだが、私は語り続ける。昔と変わらぬ歌の調子で、歌に支えられ。物語は現在の混沌に足をとらわれず、未来に向かう」と、心でつぶやき始める。
そしてナチズムの歴史写真集を捲りながら、瓦礫に無数に並べられた悲惨な幼児遺体の映像が挿入されるなかで、「幾世期をも往来するかつての大いなる物語はもう終わった。今は一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語。乾燥たまねぎでもいいし、沼地の渡り木でもいい。だれひとり平和の叙事詩をまだ、うまく物語れないでいる。なぜ平和だと。誰も高揚することがなく、物語が生まれにくいというのか。あきらめろだと?私があきらめたのでは、人類は語りべを失う。語りべを失うことは、人類の子供時代もなくなることだ(映画日本語字幕より)」と強調する。

次の下のシーンで、ホメロスは図書館を出て、かつてのポツダム広場を求めて、「ポツダム広場が見つからない。ここか?こんなところじゃない。・・・これがポツダム広場なものか!だれに聞いたって違うというよ。にぎやかな広場だった!市電や乗合馬車が行き交い。自動車も2台、私のとチョコレート売りのと。ある日突然旗だけになった。広場が旗でうずまってしまった。それ以来人が人を嫌いはじめた。私は決してあきらめないよ。昔のポツダム広場を見つけるまで」と心で言いながら壁の続く荒涼とした場所を散歩し(注1)、広大な草地の捨てられたソファーに座り、「私の主人公たちよ、子らよ、どこへ行った?私の主人公たちはどこへ消えた?物語の最初の主人公たちは?」と訴えるのだ。

そして天使ダミエルは、サーカスで空中ブランコ乗りの美しい女性マリオンを恋するようになり、勝利の女神像の上から飛び降りることで、人間へと脱天使し、新たな歴史を作るべくマリオンとの愛の暮らしを始める。
しかしこの映画の制作者のヴィム・ヴェンダース監督にとって、物語のストーリーは自ら述べるように、ともすれば作品の命を殺すものであり、重要なものではない。
実際1982年のヴェネチア金獅子賞を受賞した『ことの次第』では、映画のなかの製作費が底をついた映画監督を通して、それを強調している。
もっとも『ベルリン、天使の詩』では、脱天使ダミエルがマリオンと愛で結ばれることで、平和が訪れた20世紀末の叙事詩に、未来永劫の平和の希求が感じられる。
そしてこのベルリンの映画詩人は、映画の終わりに安二郎、フランソワ、アンドレイにささげると付している。
もちろん安二郎とは小津安二郎であり、フランソワとはヌーベルバークの騎手であり『突然炎のごとく』のフランソワ・トリュホーであり、アンドレイとは『サクリファイス』を遺作として残したアンドレイ・タルコフスキーである。
安二郎とフランソワは敢えてノンポリであることから、特にこの作品はタルコフスキーの影響が強く感じられる。
何故ならタルコフスキーは、過去と現在を自在に映し出し、映画を叙事詩化することで世界を圧巻し、『サクリファイス』では世界の救済を求めているからだ。
タルコフスキーの作品は次回に述べる予定であることから、ここでは安二郎の影響を述べておきたい。
ヴィム・ヴェンダースが1983年のドイツ映画祭で来日し、「私は小津安二郎の映画に世界中のすべての家族を見、そこに自分自身の姿を見、自分について多くの事を知る」と小津映画を絶賛したことは有名であり、前年制作の『ことの次第』や、84年制作のカンヌ国際映画祭の最高賞を受賞した、誰もがラストで涙を流さずにいられない『パリ、テキサス』を見れば、カメラワークからストーリーに至るまで、安二郎の影響の大きさがわかるだろう。
すなわち小津映画では暴力もなく、社会や政治の批判もなく、悪人だけでなく強欲な現代人も登場せず、家族の問題を“おかしみ”と“かなしみ”を通して只々映し出している。
もっとも時代に流される人々を只々映し出しているだけではなく、下の『東京物語』の一シーンの動画ように、人々の失っていくものを辛辣に訴えている。

この『東京物語』完全版は既にネットにあることから、是非見てもらいたい映画でもある。
http://www.youtube.com/watch?v=m9xQCEnWGK8

(注1)この付近一帯はドイツ統一後の再開発で壁もモノレールも取り払われ、撮影当時の面影が全くなくなり、ソニーフィルムセンターなどの建物が建ち並び、まさに21世紀のメトロポリスである。