(158)ハネケ映画を通して現代を考える(6)白いリボン後編・・ハネケの叫びかける心の声

上に載せた『ミヒャエル・ハネケ・・マイライフ』を見れば、『白いリボン』がどのように制作され、映画制作の際ハネケが注文の多い監督であり、支配的に取り仕切っているにもかかわらず、いかに俳優やスタッフに慕われ愛されているかが伝わってくる。
またネットに載せられていた「シュピールフィルム・デ」のインタビューを読めば(注1)、ハネケの合理的側面とテロリズムの根源を探求することで現代社会に真摯に向かい合おうとする誠実な側面が見えてくる。
さらに今回「オーストリアフィルムコミッション」のインタビューを読むと(注2翻訳して下記に掲載)、現代のファシズムテロリズムの根源を探求するだけでなく、映画の背景とする封建村社会同様に矛盾した現代社会を解消しようとするハネケの心の声が聞こえてくる。
ハネケはこのインタビューで敢えて二人のドイツ赤軍女性創設者の名前を出しており、エンスリンはルッター派牧師の娘であり、またハネケ自身この映画制作を思い立ったのは、女性友達マインホフの人格が左翼テロリズムへの傾倒で全く変わってしまったことにあると述べていることからも、映画のクララは彼女たちをモデルにしていると言えるだろう。
そこには、「私はテロリズムを黙認できない」と断言しながらも、彼女たちの死での償いを無為にしたくないと思うハネケの声が聞こえてくるようである。
実際『白いリボン』でも、ハネケ自身を投影したと思われる牧師のクララやマルチンを思う心に、それが感じられる。
そして映画のクララのように、彼女たちを恐るべき犯行に追いやった矛盾した現代社会とは、表向きは正義の実現を掲げているが、実際は支配と利益のため、あらゆる不正義が容認されている世界に他ならない。

アールターグドイツ6・・・シュピーゲル誌が世界に問う天使たちのサリン殺戮写真


シュピーゲル誌2013年35号『Giftgas』http://www.spiegel.de/spiegel/

写真には「アサドの冷たい計算」というタイトルが付けられ、以下のように書かれている。

シリアの大統領が毒ガスを投入した状況証拠が報道されているにもかかわらず、西欧は軍事介入を躊躇っている。
しかしながらさらなる大量絶滅が練られるならば、軍事介入がなされねばならない。

サリンのような恐るべき化学兵器使用を、世界はこれ以上見過ごすべきでないと、私自身切に願う。本質的には人類が未来存続を考えるならば、化学兵器核兵器のない世界の実現を目指すだけでなく、表向きは正義の実現を掲げているが、実際は支配と利益のため、あらゆる不正義が容認されている矛盾した現代社会を解消していかなくてはならない。
まさにそれは、ハネケの叫びかける心の声でもある。

(注1)http://planeta-cinema.at.webry.info/201004/article_2.html

(注2)「オーストリアフィルムコミッション」のインタビュー
http://www.afc.at/jart/prj3/afc/main.jart?rel=de&reserve-mode=active&content-id=1164272180506&tid=1248152248596&artikel_id=1248152248530

(質問)『白いリボン』のサブタイトルは、ドイツの子供たちの物語となっています。あなたの作品では子供たちが常に一つの役割を果たしてきました。今回は子供たちを映画の中心においています。何故ですか?

(ハネケ)子供たちは抑圧された階層のなかで最も下の層におり、社会のメカニズムを彼らの中に最も印象強く引き出すことができ、ドラマ的関心が高いからです。底辺にある考えは、理想を刻印された子供たちのグループが、理想を絶対視し、それゆえに理想を子供たち刻印し、自らはそれに従って生きていない人たちを制裁する映画を作ることでした。理想あるいは原理は、イデオロギーになるやいなや危険となります。
子供たちは、彼らに真剣に受け取ることを命じたものに傾斜することから、そのことが危険になり得ます。映画はどのような条件の下で、テロリズムが生じるかについて問を投げかけています。ドイツの歴史的状況のこの例は、一つの例に過ぎないと強調したいと思います。この映画はドイツのファシズムを解釈するだけでなく、一般的に右翼政治テロであれ、左翼政治テロであれ、宗教テロであれ、各々のテロリズムの根源について解釈することが重要に思えます。それはドイツファシストについての映画であると同様に、イスラムファシストについての映画でもあります。
同様にそれらが非常に異なった政治環境にあれば、そこでは常に抑圧と不幸に基づいて逃げ道の救済がイデオロギーに求められています。それは非人間的であり、危険です。

(質問)罪はあなたの作品の本質的テーマであり、『白いリボン』のなかではことさら無罪と罪との間の転換劇を行うために、純潔と無罪のシンボルを喚起しているように思えますが

(ハネケ)私は子供たちが無罪と思っているのではありません。子供たちに非がないのではなく、ナイーブであり、人が彼らに命ずることを実践しているに過ぎません。人は何かを言葉で企てるとしても、それは危険で在り得るでしょう。世界は政治家や悪い独裁者が好んで吹き込もうとするように、善と悪に分かれていません。世界がそのように機能していれば、穏やかでしょう。私たちを安心させ、望まないラストを受け入れないジャンルの映画が流行っています。現実は異なっており、私は矛盾した現実を解消させるべく探求しています。子供たちは純な無罪や純なモンスターではなく、私たち全てのように、その中間のどこかにいます。

(質問)あなたが今回の歴史的な背景で受け入れることができない一つのテーマは、メディア批判、特に商業映画批判ですね。

(ハネケ)私は映画提示で観客の疑念を育みたいと思っています。それは『白いリボン』では、「私は、これから述べようとする歴史が全ての箇所で真実かどうかわかりません。多くは聞いて知っているだけです」とナレーションで述べる形を取っています。
映画はまさに矛盾を含んで語られます。観客は話し手が実際に見ることができたものをただ見ているのではなく、話し手がその場にいなかった情景も見ています。それが、私たちは真実に関与しなくてはならないのではなく、真実を再構成する試みで、誰もがしかるべく行っている設定に関与しなくてはならないということを理解してもらうための私の瞬きの始まりです。だから映画は「そのようだった」と、決して言っていません。

(質問)映画が出来事を現代のなかで演じられるのではなく、歴史的文脈で取り組まれているということは、あなたの映画制作で最初ですね。

(ハネケ)この歴史的時代は、高く言及されるテーマ性を特別に意義あるものとして提供しています。特に私はプロテスタンティズムに興味があります。何故なら私自身、オーストリアでは比較的見られないプロテスタントとして育っているからです。私の父はドイツ人であり、プロテスタントでした。また私の母はオーストリア人であり、カトリックでした。そして私は子供の頃、プロテスタンティズムに強く影響されました。
他の点からすれば、ナチドイツやドイツファシズムについての映画は非常に多いですが、それ以前のその根源についての映画は全くありません。ファシズムにどのように行き着くかという質問設定は、私を浮き浮きするものに思えました。もちろん映画は「ファシズムはそのように起きた」という問への徹底した分析ではなく、決してそうあるべきでないでしょうし、根源のテーマに取り組むことでしょう。

(質問)映画は第一は文学的な領域ですが、外からの声に基づいて第二の物語を語る領域があります。それはテキストに関与する要素であり、あなたがある時は同時代に、ある時は時代をずらして映画の出来事に入れています。何故あなたは、このような二重の物語の層を決められたのですか? 

(ハネケ)何故なら、それはテーマに相応しい距離を取る形態を可能にするからです。丁度それは、映画の白黒が距離感をつくるのと同じようです。色彩によって間違ったナチュラリズムを生じます。それ自体19世紀のフォンタナスタイルの作り話めいたスタイルになります。出来事は少し距離をおいて振り返ることで、客観的に見ることができます。それゆえ物語の声は、出来事を振り返るために歴史的距離を取る老人の声です。老人の声によって、人はファシズムだけでなくバーター・マインホフ(ドイツ赤軍テロリズム)を味わうことができるでしょう。ウルリケ・マインホフ(ドイツ赤軍女性設立者、核兵器反対運動、記者、幼少期に両親を亡くし社会主義の女性大学教授に育てられる)同様グドルン・エンスリン(ドイツ赤軍女性設立者、原爆に反対する詩集出版、ルッター派牧師の娘)は非常に激しいプロテスタントを刻印した家系の出身です。そのことで今私は、プロテスタンティズムが政治的に過激に傾くと言うつもりはありません。しかしプロテスタンティズムはカトリシズムより過激であり、思考方法で厳格であり、本質的に悪くはありませんが、絶対化され、あべこべにされると危険なモラル的要求を持っています。
(以下注1のインタビューとダブルことから省略しました)