(181)ハネケ映画を通して現代を考える(21)ピアニスト・・官僚肖像の死

ミヒャエル・ハネケ第7作の『ピアニスト』(2001年)はこれまでの題材や描き方を一変させ、ドイツ最高の文学賞ビューヒナー賞を受賞したエルフリーデ・イェリネクの自伝とも言われている、愛の脱神話化をテーマとした長編小説『ピアニスト』の映画化であり、この作品のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞でハネケの名を世界に轟かせた。
主人公はウイン国立音楽院の指導教授エリカであり、幼少から母親の厳しい教育で世界的なピアニストになることを目標に育てられてきた。
しかしその夢は実現されず、音楽指導教授となった現在も母の指導管理は続いており、エリカを束縛している。
しかし現在では母親への反抗と束縛の解放から、ポルノショップでの個室利用や男女のカーセックス覗きなど、性的趣向に向かっている。
それは母親に競争に勝つことだけを目標に育てられ、中年になるまで異性との交際もなく、音楽院では権力行使者として命令的に指導していることから、エリカの心が男性であるからだ。
そのようなエリカが裕福な家庭慈善コンサートでバッハの曲を弾き、そこに居合わせた主催女性の従兄弟でもあり、音楽にも秀でた才能を持つ工科学生ヴァルターに、彼女の父が精神病院に入院しているからシューベルトシューマンの病める心が理解できると話した経緯から、音楽院に編入するほど熱烈に求愛される。
最初エリカは求愛に拒否的であったが、あるとき劇的な愛へと変わる。
それは、ヴァルターが心の弱い能力あるエリカ指導の女子生徒を優しく励まし、公開練習ステージの楽譜めくりで寄り添うと、素晴らしいピアノ演奏ができた時だった。
エリカは嫉妬に狂い、足でガラスコップを粉々に割り、女子生徒のオーバーポケットに入れるほど常軌を逸するものであった。
そのことで女子生徒が指を怪我すると、エリカはヴァルターに面倒を見るようにと命令するが、ヴァルターはその様子に異変を感じ、階段を駆け上りトイレに隠れるエリカを見つけ出し、激しく抱き合う。
しかしエリカの愛情は異常であり、彼女の心にある男がそれ以上普通に愛されることを拒む。
そうしたエリカの心が理解できないヴァルターは住居に押しかけるが、彼に宛てた手紙を読まされ、エリカがマゾ的な愛され方を求めていることを知る。
それはごくありきたりの愛を求めるヴァルターには、異常に病的で容認できないものであった。
エリカがそのような異常な愛を望むのは、長年母に性的衝動を禁止されてきた反動であり、自らを傷つけることを求めるのは十分理解できる。
しかし翌日深夜、愛を壊されたヴァルターが訪れ、エリカの望むマゾ的な愛を行使するや、それは男であるエリカの願望に過ぎないことがわかり、拒み続ける。
翌日の演奏会当日の朝、エリカは何らかの予感のためか、ヴァルターへ報いるためか、小刀をバックに入れて出かける。
会場では一旦演奏のため階段を登ろうするが、ヴァルターたちが来る気配で立ち止まり、ヴァルターの叔母夫婦から挨拶を受けるが、ヴァルターは全てが終わり、何もなかったように「先生、演奏楽しみにしています」と急ぎ足で階段を駆け上がってしまう。
それはエリカには許せないことであり、自らの心臓に小刀を突き刺し、マゾ的愛を完結する。

ハネケは内容については観客自ら考えることだとして語らないが、この映画のインタビューで以下のように述べている(注1)。

「・・・どこの国よりもまず日本でこそ理解されるに違いないと思います。仕事への鉄の規律、とりわけ音楽の領域で鉄の規律がテーマになっています。オーストリアを別とすれば、これほど数多くの音楽家を生み出している国は、それも演奏家を生み出している国は、ほかにありません。私のイメージでは、この鉄の規律、芸術を介して社会的ヒエラルキーを上り詰めるための鉄の規律こそが、この映画のテーマなのです。まさしく日本でこそ理解されるにちがいありません。」

こうしたハネケの発言をしてエリカ像を見るとき、私には病める官僚の肖像、もしくは原子力ムラの専門家たちの病める肖像がオーバーラップされてくる。

尚、長編小説『ピアニスト』の作家エルフリーデ・イェリネクは、「あなた自身、ブルジョワで、カソリック信者の絶対的権力を持った母親にコンサート奏者としての将来を期待されながら教育され、父親は精神病施設で亡くなられている。「ピアニスト」はどこまでがあなたの自伝なんでしょう?」という質問に対して以下のように答えている(注2)。

「 −その質問には答えたくありません。それに、確かに基本的な要素に自伝的なものが含まれているとはいえ、小説を自伝としてとらえて欲しくありません。ストーリーで私が大事に思うのは、同種の例があることです。この小説の場合は、皆から敬われ、崇拝されている高尚な芸術の中に重きを占めている女性たちのひとりを、徹底的に偶像破壊することでした…。彼女の性交渉を伴わない性は、のぞき趣味に転化して現れます。彼女は人生にも欲望にも関与できていません。他人のセックスをのぞくことすら男性の権利であるので、彼女はつねにのぞかれる存在であって、のぞく存在ではないのです。精神分析学の専門用語を使えば、彼女は男根的女性だといえるでしょう。彼女はのぞくという男性の権利を横取りし、そのおかげ人生を棒に振るのです」

また別の機会で、イェリネクは女性フェミニストたちからの非難に対して以下のように答えている(注3)。

「私は、女性運動がよくそう見なしたがるんですが、女性をより良い、より高い存在として描写しませんでした。そうではなくて、まさに父権制社会の歪んだ像として書いたのです。この社会はその奴隷たちをみずからに適応させます。父権制は、いつも男性たちが指揮をとることを意味しません。女性たちも指揮をとります。ただ最後にはいつも男性たちの利益になるのですが。私は女性たちをとても批判的にこのような社会の犠牲者として示しましたが、女性たちは自分のことを犠牲者とみなさずに、自分たちは共犯者でありうるんだと思っているのです。もともと私のテーマはこうです、それがセクシャリティーであれ、また経済的権力であれ、女性たちがみずからを男性たちの共犯者にしてしまうやいなや、そしてそうすることでより良い社会的スティタスに入れるやいなや、それは失敗に終わらざるをえないのです。」

そのような作者の発言を踏まえるなら、ハネケ映画は原作小説『ピアニスト』に細部に至るまで踏襲して描いているが、ハネケの映画制作の意図は作家の“父権制共犯者の死”という意図とは異なり、世界を構築している官僚制という鉄の規律へのアイロニーに他ならない。

さらに私の視点から述べれば、近代官僚組織は植民地主義遂行のために合理性を追求することで、富国強兵と殖産興業に向けて最大限機能する組織であるが、組織利益の自己目的化と肥大化、秘密主義、責任転売などの必然的欠陥を通して、国益最優先に猪突猛進していくことから、最終的に戦争へと導くと言っても過言ではない。
日本が明治に手本としたそのような近代ドイツの官僚制度は、戦後ナチズムの反省から裁量権を官僚組織から現場の官僚一人一人に委譲し、責任を徹底して問う制度へと刷新したことから、最早ドイツにおいて官僚は市民の公僕以外の何者でもない。
そのように嘗ての“官僚肖像の死”が断行されたドイツでは、官僚退職後日本のような天下りは容認されず、ボランティアでなくてはならないのだ。

(注1)(注2)シネマストリート参照 http://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/pianist/staff.html

(注3)『ピアニスト』(中込啓子訳、2002年、鳥影社)の訳者あとがきP414より抜粋。