(183) ハネケを通して現代を考える(最終回)タイム・オブ・ザ・ウルフ・・世界の終末に救いはあるのか?

この映画は、いきなり救いのない暴力から始まる。
どうやら第三次世界戦争が既に核攻撃で終わりを遂げ、人類の未来は絶望的状況にさらされているといった状況設定である。
それゆえ母親アンナの4人家族は山の別荘へ街から避難してくるが、東欧から非難してきた貧しい家族に占拠されており、銃を突きつけられ「動くと撃つぞ」と脅される。
父親はそのように脅されても、「人の家に押し入るなんて犯罪だ」と言い切り、「冷静に話し合おう。解決できるはずだ。別に敵じゃないんだから」、「分けてやるよ」、「交渉しよう。食料は分けてやるから」と、逃げずに立ち向かう。
それは父親の生き様であり、たとえ命の危険があるとしても、不正には目を瞑ることができない性格が滲み出ている。
しかし世界終末の無法状態化するなかで、他国から命からがらで逃げてきた者にはそのような姿勢が逆に恐怖であり、即座に銃の引き金が引かれる。
こうして3人となった母親アンナ、娘エヴァ、息子ベンは助けを求めて街を彷徨うが、街に残っている人たちも自分たちが生き延びることに必死で、食べ物は日頃の善行からなんとか分けてくれても助けてくれない。
しかも3人は父親の突然の不条理な死のショックで心を病んでおり、特に10歳くらいのベンは父親を殺されたショックが大きく、鼻血の止まらないほど心が傷ついている。
3人は最早自動車や人影さえない通りを彷徨い、干し草の小屋に辿り着く。
そこを宿にして寝つくが、夜中に起きると息子ベーンいなくなっており、干し草を松明がわりに探す間に火事を引き起こす。
焼け跡でベーンを発見するが、娘エヴァと同じ年頃の少年と一緒であった。
きっとベーンは現在の災難から逃れるためにはサクリファイスが必要であると思い、父の生き返ることを願ってベンの最も大切にしているインコウを神に差し出し(それゆえ本能的に危機を感じたインコウは逃げようとしている)、父の生き返りを信じて別荘へ行こうとしたのだろう。
少年は生きるために盗みが日常茶飯事となっているが、心は純であり、彷徨うベンを保護したのであろう。
エヴァにはそれがわかり、以後少年に好意的である。
少年を含めた4人はここから逃げ出すために、列車を求めて少年の聞いた駅まで行くが、少年は盗みを働いたことから付近で路上生活をする。
駅舎では十数人の人たちが列車を待って、小さな集団を作って暮らしている。
小さな集団では、最早警察などのない無法社会となっていることから、集団のボスが取り仕切っている。
水が汚染されているため飲料水が貴重なものとなっており、病気の幼児を持つ母親は馬で飲料水を運んでくる者に必死に懇願し、アンナを含めて居合わせた人たちも持っている一番大事な物を提供して助けようとするが、飲料水がボスの利権となっていることから、運搬人たちは直接の取引を拒み立ち去る。
そうした非常な暮らしのなかで、娘エヴァは心の傷を癒すため、駅舎の誰も使っていない事務室で父親宛に以下のように日記を書き始める。

「パパへ、鉛筆と紙を見つけたので、手紙を書いておきます。こんな事態なのに、話す相手もいません。パパに、この状況が理解できるかどうか分りませんが、届くことを信じて、ここに書いておきます。やさしいパパ。言葉にするのは難しいけれど、誰にも話せないときって、息苦しいものです。『ママや弟には?』と言うかしら。でも違うの。パパも、ここにいれば分るわ。ママには言葉を選ばないと、かんしゃくを起こしそう。ママの手がいつも震えているのよ。パパは状況を理解できても、弟にはまだ無理。少年が独りいて、彼とは話せると思う。プライドが高く、いつも突っ張ってるけど、虚勢を張っているの。なかなか受け入れてくれないわ。混乱した状況に見える?まさに、そうなの。だから、手紙を書いて、自分の気持ちを理解しようとしたわけ。順を追って書くわ。今の生活を教えたいから・・・毎朝、全員が早く起きる。部屋の誰かが起きると、自然と目覚めるの。それから仕事を分担し」

日記を書くことで、エヴァは自らの傷ついた心を癒しているのが、観る側にも清々しく伝わってくるようである。
しかし映画は直ぐさま、残酷に幼児の死を突きつけ、慟哭する母親の悲しみが伝わって来る。
その悲しみの遠くの背景からは、松明をかざした多くの人たちが列車求めて駅に向かってくる。
多くの人たちの参入は、これまでのボス支配の暮らしを一変させ、形の上では民主的となる。
だからと言って暮らしがよくなることばかりではなく、人が増えたことで足の踏み場所もないほど窮屈となり、支配するものがいないことから、人間の善行と悪行が顕にされる。


ポーランドからの避難家族の老人が漏らしそうになると、息子と思われる男が優しく外へ付き添い、途中ヤギの乳搾りを見つけ、分けてもらい飲ませようとする。
しかしすれ違った男から突然盗みと殺人で糾弾され、殴り合いになるが、周りの男たちによって引き離される。
ポーランドの男は泣き崩れるが、それが何を意味するのか、この際は知る由もない。
ただここでは、犯罪を糾明する機関がないことから、目先の暴力だけが制止されるに過ぎない。
それでも乳を搾った女が、老人のところへ乳を持ってきてくれると、老人は自分が飲むのではなく、妻に優しく飲ませてやる。
そうした善行は周りの人たちの心を癒すものであり、それを見つめていた母親アンナも張り詰めていたものが取れたのか、、外に出てむせび泣く。
そんなある日別荘で父親を殺した家族に遭遇する。
アンナとエヴァは絶叫し、必死にそれを皆に訴えるが、相手も必死に無実を訴え、証拠もないことから、ポーランド男の場合同様にそれ以上どうすることもできない。
そうした無法の狹い避難暮しであるが、その数日後美しい音楽が若者のカセットから流れ、その音楽に心を動かされた娘エヴァは若者にもう一度聞きたいと夜に言うと、喜んで快くカセットを借してくれる。
しかしその後真夜中にエヴァが目を覚ますと、少し離れたところで寝ている同じ年頃の少女が髪の毛を鷲掴みにされ、何者かによってレイプされていた。
エヴァは恐怖と、弟ベンも目を覚ましていたことから、それを見せないために抱きしめることで見なかったことにする。
またポーランド男を糾弾した男が仲間を連れて、ヤギや食料が盗まれたと言ってポーランド男を連れて行こうとするが、家族が必死に守り、独りで路上暮らしを続ける少年に嫌疑がかけられる。

少年のところへ赴いたエヴァは、彼の犯行であったことを知り、罵り泣き出す。
それを見て少年が謝ると、エヴァは(レイプされた)同じ年頃の少女が自殺したからだと、心の底にあるものを吐き出す。






そして物語の終わり近くでは、ベーンが夜中に独り鼻血を出しながら、線路の焚き火へ行き、裸になり飛び込もうとする。
それを目撃した自警団として見回りをしている例のポーランド男を糾弾した男がそれを見つけ、機転を利かしてベンを抱きしめ、「思い切り泣けば落ち着けるさ。イヤな話でも聞いたか?信じるんじゃない。あのカミソリ男には、誰もがウンザリしている。奴は本気だろうが、臆病だ。だが、お前は勇敢だから考えたんだな。・・・お前なら飛び込んでいた。でも、やろうと思っただけで充分なんだよ。待ってろ。すべて解決する。たぶん、明日にでも。明日になれば、大きな車がやって来る。乗って来た男が、こう言う。“世界が生まれ変わる”水とお肉も、たくさん来る。死んだ人だって、生き返るかも知れん。お前の気持ちだけで充分だ」と、優しく父のようにベンに語りかける。

結局この男はベンの父のように、たとえどのような理由があるにしろ不正には目を瞑ることができない、本当は優しい心の持主だとわかる。
そしてラストは誰も人の乗っている気配のない列車が、誰もいない野原を通り過ぎていく。
それは例の駅に向かっているようでもあり、列車を待つ人たち、そしてこの映画を見る人たちの希望である。
 

ハネケはこの映画のDVD巻末のインタビューで、「パニック映画を撮る気はなかった。人間同士の行動に関する、とても私的な考えを描こうとした。とくに現代は、ニュースで世界の破壊が映し出されるような時代だ。だが、それは他人が住む遠い世界の出来事。だからこそ、居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった。もしこれが、あなたの家庭に起こったらどうするのかと問う作品です」と述べ、「私は、すべての作品において“ヒューマニスト”になろうと努力しています。芸術に真剣に立ち向かおうとするならば、そうするしかない。それが必要不可欠な最低条件です。ヒューマニズムなき芸術は存在しません。それどころか、芸術家の最も深遠なる存在理由です。意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリストであり、暴力を生むのです」と主張している。
 

またハネケが絶賛するアンナを演じている女優イザベル・ユペールは、「母親と二人の子供が三人で力を合わせ、社会の大きな変わり目となる難局を経験するという物語でしょ。いかにして、彼らがこの状況に反応するのか。この作品では、ある意味、個人という立場が喪失してしまう。心の葛藤が起きたり、日常生活で感じることを、経験するような余裕がなくなってしまう。考えてみれば、安楽な生活感が持てなくなる。悲しいとか、幸せだとか、空腹だ、のどが渇いたとか、眠いとか。生き残った者は、西洋の消費社会での生活から、飢えた人々が生きるこの惑星の現実へと追い込まれていく。まさに生存競争の社会です」と述べている。
 

まさにイザベルが述べる生存競争社会とは、ハネケの全ての作品で垣間見られる植民地主義を土台とした社会であり、このような世界は最終的に核戦争を通して、終末へと追い込まれて行くといった、ハネケが直接的には言わない批判を婉曲的に表現している。
すなわちハネケは、人間の欲望に駆られた植民地主義を土台にし、絶えず支配を外に向けるグローバル世界には人類の未来はないと、ヒューマニズムを通して観客に提示している。

しかし私見を述べれば、それを乗り越えることをヒューマニズムに期待しても、これまでの歴史が示すように不可能に近い。
本質的には、現在の外的支配を求める世界分業的な中央集中型社会から内的自力発展を求める地域分散型社会へ変えて行くことが必要であり、私がこの「ハネケを通して現代を考える」と並行して主張してきた「エネルギー転換」で実現すると確信する。

*今年はきりの良いところで終わったこともあり、しばらく休み、正月中頃からブログを再開する予定です。