(169)ハネケ映画を通して現代を考える(15)コード・アンノウン 前編・・・生き難い世界


ミヒャエル・ハネケ第6作の『コード・アンノウン』は冒頭に聾唖の子供が登場し、ジェスチャーで何かを表現する。
仲間の聾唖の子供たちはその表現に対して、一人ボッチ?隠れ家?ギャング?心のやましさ?悲しみ?刑務所?などと答えて行くが、いずれも違っており、それこそがコード(暗号、符号、社会的規範)・アンノウン(不明)の印象を与える。
その直後に「いくつかの旅の未完の物語」というサブタイトルがあり、パリ市街で直向きに生きる女優アンナの暮らし、そして同時に彼女とすれ違い交錯する人たちの暮らしも、ドキュメンタリー形式で淡々と映し出されていく。
女優アンナは、恋人ジョルジュの弟ジャンから住居近くの街路で突然呼び止められ、家出したから同居させて欲しいと頼まれる。
アンナは3人で暮らすのは無理だと断るが、とりあえず部屋の鍵と昼食パンを渡して出かける。
ジャンは同居できないウサから、街路で物乞いをするルーマニア女性マリアにパンの紙袋を丸めて投げつける。
それを見ていた移民の黒人アマドゥは(聾唖の子供たちの太鼓を指導していることから聾唖教師とわかってくる)、不公正を見捨てることができず注意する。
しかしジャンが無視して立ち去ろうとしたことから取っ組み合いとなり、戻ってきたアンナの制止にもかかわらず、警察官が駆けつける騒動にまで発展する。
結果として、過ちが最も立場の弱い人々に及ぶ現代を風刺するかのように、ジャンは未成年であることから咎められず、アマドゥは連行され尋問のため短期間拘留され、マリアはパスポートがないことから郷里のルーマニアに強制送還される。
そしてカメラは、アンナやジャンの父の農家の暮らしと同時に、移民ならではの差別問題などに悩むアマドゥ家族の暮らしや、貧しさゆえ連れ合いと別々の出稼ぎで家族のコミュニケーションを失い、本当のことを言えないマリアの暮らしを追っていく。

アンナはアパートの部屋でアイロンをかけていると、子供の悲鳴のようなかすかな声を聞き、後でそれを裏付ける幼児虐待のメモが投げ込まれ、その筆跡から向かいのお婆さんを訪ねるが、騒動への関わりを心配してか、「知らない」と拒否される。
買い物の際アンナは、コソボ紛争から帰還した報道カメラマンのジョルジュに幼児虐待を相談するが、彼は前線で殺戮されていく人々との接触を押し殺し、自らの判断でひたすら写真を撮り続けていることから、自分で考えるようにと冷たくあしらわれナーバスになる。
結局幼児虐待は見過ごされ、葬儀の後無言で向かいのお婆さんと歩くシーンからは、助け合えない生き難い現実が痛く突き刺さってくる。
そしてジョルジュも、友人から戦争の酷さを伝えるために必死に取った写真を、「思い上がりよ。体験が感じられない」と言われ、「そうかも知れない」と認めざるを得ない現実がある。
また彼の父親からは、弟ジョンの家出で最早家族農業が継続できない無言の悲しみが滲み出してくる。
それは、多民族が溢れる生き難い都市同様、人が都市へ去って行くことで生き難い農村である。

この映画のラスト近くで、アンナは地下鉄車内で鬱憤の溜まった移民青年から揶揄われる。
車内の誰もが関わりを恐れて無視する中で、アンナが唾をかけられるに及んで、「恥を知れ」と立ち上がったのは移民と思われる中年男であった。
アンナは「有難う」と言うのがやっとで、すすり泣きながら足早にアパートに帰り着く。
そこへカブールからジョルジュが突然戻ってくるが、恐怖心によるアンナのアパート暗証番号変更で入れず、電話をかけても出ないことから、やむなく立ち去ろうとする。
そこで物語は終わりとなり、冒頭同様生き難い世界を訴えるかのように、聾唖の子供のジェスチャーでエンドとなる。

このいくつかの未完の物語で共通なのは、理解し合えない生き難い世界であり、各々の生き難い暮らしを通して、移民問題、人種差別、格差問題、紛争、幼児虐待、農村の過疎化などの現代の社会病理が浮かび上がってくる。
そのような巧みなハネケの構成と演出に、思わず拍手せずにはいられない作品であった。