(135)映画が抉り出す真実(13)タルコフスキーが『サクリファイス』で遺言した世界の救済(最終回)

映画『サクリファイス』は下の動画(字幕なし完全版)で見るように、バッハのマタイ受難曲がこの映画を暗示するように流れ始め、レオナルド・ダ・ビンチ作「東方の三賢人の礼拝」絵の幼な児キリストにお辞儀する賢人がクローズアップされ、制作スタッフの字幕終了後カメラはゆっくり垂直にパーンしていき、緑に茂る生命の木オリーブが映し出され、世界の救済を訴えた最後のタルコフスキー映画(注1)が始まる。

映画は主人公のアレクサンデルと幼い息子の登場で劇のように始り、二人はアレクサンデルの誕生日当日に島の海岸で松の枯れかかつた木を植えている。
アレクサンデルは『白痴』のムイシキン公爵役で世界的に著名で、現在は舞台俳優を引退し大学教授であり、彼は木を植えながら喉の手術で言葉が言えない息子に、修道僧が三年毎日水をやり、花を咲かせた話をしている。
そしてアレクサンデルは自らに言い聞かせるように、次のように言う。
「一つの目的を持った行為は、いつか効果を生む。時々自分に言い聞かせる。毎日欠かさずに、正確に同じ時刻に同じ一つの事を儀式のようにきちんと同じ順序で、毎日変わることなく行っていれば、 世界はいつか変わる。必ず変わる。 変わらぬわけにいかぬ(映画字幕清水俊二訳による)」
そこへ郵便配達のオットーが、今日のアレクサンデルの誕生日を祝う祝電を届けにくる。
オットーはアレクサンデルと個人的にも親交があり、いわくありげにニーチェ永劫回帰を話題にする。
そして息子と家への帰宅途中の林の下の動画シーン(英語字幕)では、人類の罪業と破滅を自問自答するのである。

「人間は絶えず自分を守ってきた。他の人間から、自然から。絶えず自然を破壊し、そして文明が、権力、抑圧、恐怖、征服の上に築かれた。我々の技術は進歩したが、我々が得られたものは型にはまった満足と、権力維持の兵器だ。  
我々は未開人と同じだ。顕微鏡を兵器に使う。いや未開人には我々より魂がある。我々は科学的発見があると、すぐに悪用する。罪悪とは不必要な物の事だ。
ある賢人がいった。それが真実だったら、文明は最悪の上に築かれている。そして恐るべき不調和が生まれた。物質的進歩と精神的進歩が調和を欠いている。
我々の文化は病んでいる。根本から間違っているのだよ。問題を探求、解決策を探ればと言うが、時機を失っている。もう遅い!口にするのさえ空しい言葉、言葉、言葉!ハムレットの心境だ。
なぜ私はこんなことをいう!もの をいうのをやめて何かをなすべきだ。試みるのだ」
独白に夢中の余り、アレクサンデラは息子の姿を見失い、必死に探す。
突然後ろから息子に抱きつかれ、驚きのあまり地面に叩きつけてしまう。
その結果息子は鼻から赤い血を出し、このシーンが逃げ惑う人間たちの映像に変わり、見る側に世界の終末を暗示させる。

家に帰宅すると、妻のアンデラ、娘夫婦、小間使いジュリア、召使マリアがアレクサンデラの誕生日を祝うために待ち構えている。
そして誕生日にも招かれていたオットーが、自転車で大きな17世紀の本物の高価な地図を贈り物として持ってくる。
アレクサンデラは高価すぎて受け取ることを辞退するが、オットの犠牲がなければ贈り物ではないという言葉で押し切られる。
オットーは社会科教師を辞め、2カ月前から郵便配達をしているが、専門は超自然現象の収集家だと明し、不思議な出来事を話し出し、途中突然失神の発作を起こす。
その後下の動画シーン(英語字幕)で見るように、テーブルの上のグラスが音をたて始め、轟音がとどろき、戸棚の水差しが落ち、真っ白なミルクが床に拡がっていく。

そして動画の7分少し前から、テレビ放送から以下の首相の核戦争開始報道が流される。
「全国民が平和と秩序と規律の回復に努めねばならぬ。我々が恐れる唯一の危険の敵は、パニックが起きる事である。パニックは伝染しやすく、常識を持ってしては測れぬ様相を示す事である。“秩序とそして組織である”。国民諸君、このほかに道はない。秩序だ。秩序を守って混乱を防ぐのだ。国民諸君に心からお願いする。何が起ころうとも勇気を持って、理性に従って行動しなけばならぬ。
ミサイルの基地のどれかが、おそらくは、我々に悲劇的終末をもたらす。通信はもはや保証されていない。国民諸君、何が重要であるかは既に話した。動いてはならぬ。前欧州に安全な土地は、我々がいる所ほか、他にはどこにもない。そのため我々全員が同じ状況のもとにおかれている。すべての地区に軍の特殊部隊が配置され、その指揮を受ける。それ故に・・・(テレビの中継が切れる)」

テレビだけでなく通信も不通、そして電気も使えなくなり、妻のアデライデは日頃の夫婦の不和を曝け出すかのようにパニックに陥り、娘婿の医師のヴィクトルによって鎮静剤が注射される。
アレクサンデラは最初「私はこの時を一生待っていた。この時がくるのを待っていた」と独白するが、それは黙示録的人類の救済からだと思われるが、同時に一番恐れていたことでもあり、しばらくして書斎で神に自分の持っているものをすべて奉げますから、愛するものをこの恐ろしい戦争から救ってくださいと祈り、そのためには家も、家族も、子供も、すべてを捨てますと誓うのであった。
アレクサンデラがそのまま倒れこむように眠った後、オットーが「まだ最後の機会が残されています」と訪れ彼を起こし、召使マリアは魔女であり、マリアと寝ればすべてが解決すると、(この映画を見ている誰もが信じられない)オカルト的な神からの伝言を伝える。
結局アレクサンデラはその伝言を信じ、マリアの自宅を訪れ、自らのこめかみにピストルをあて懇願することで契りが結ばれる。
翌朝目覚めたアレクサンデラはいつものように平穏な朝を向かえ、電信も通じ、すべてが解決されたと思う。
したがって彼は神との契約を守るために、家に火を放ち、下の動画シーンのように犠牲に奉げる儀式を始めるのであった。

そしてラストシーンでは、再びバッハのマタイ受難曲が静かに流れ出し、奇跡のように回復した息子が、父との約束を守って枯れかかった木に水を与え、「“初めに言葉ありき”。なぜなのパパ?」と言葉を発し、ゆっくりカメラは垂直パーンしていく。
枯れかかった木は、陽の光の水面からの反射で美しく輝き続け、神との契約によって世界が救済されたことを暗示して終わる。

この映画を見る多くの人は、おそらくオットーのオカルト的伝言から、理解に苦しむだろう。
タルコフスキー映画の特徴的隠喩表現であり、私が解説する前にフランスAMPI制作の『映画にささげた魂・・巨匠アンドレイ・タルコフスキー(日本語吹き替え)』がタルコフスキー映画を素晴らしい簡潔さで解説しており、下にその動画を張り付けておくので見て欲しい。

ともあれ隠喩表現の「魔女のマリア寝る」ことを私なりに解釈すれば、魔女マリアはロシア正教の視点でみれば聖母マリアであり、ムイシキン公爵で象徴される人間の良心を持つアレクサンデラが聖母と契りを結び、神にすべてを犠牲として奉げる意味は明白であろう。
強欲な人間たちが益々肥大していく渇望を反省し、貧しく虐げられ、尊く神に近い人々と契り合うことで(富を分かち合うことで)、世界は最終核戦争から救済されると訴えているのだ。
すなわち神と契り、神への全てを奉げる契約によって、核戦争勃発という時間軸を超えて平穏な朝が訪れたのである。
さもなければこの映画で2回も繰り返される映像のように、人々がパニックで逃げ惑う世界の終末カタストロフがまもなく到来すると警告しているのである。
またテレビでの「秩序と組織が最も重要で、秩序を守れ」という首相の核戦争開始報道こそ、タルコフスキーが生涯怯え、立ち向かってきた全体主義であり、それを悔い改めることが世界の救済だと遺言しているのである。

尚ドイツでもフランス同様にタルコフスキーの評価は極めて高く、膨大な取材を通して素晴らしい追悼ドキュメント映画130分『アンドレイ・タルコフスキーの亡命と死(Andrej Tarkowskij-Exil und Tod)』が1988年に制作され、ユーチューブに載せられているが日本語字幕付きがないのは残念である(注2)。
タルコフスキー映画に関しては、『ノスタルジア』と『サクリファイス』の英語字幕版はネットで見られないが、それ以外の英語字幕版はネットで、『僕の村は戦場だった』から『ストカー』や『鏡』まで無料で見られることから挑戦してもらいたい(注3)。
特にニューヨーク国際学生コンクール一位を受賞した『ローラとバイオリン』はやさしい英語字幕であり、字幕なしでも映像が心情をきめ細やかに描いているので是非見てもらいたい作品である。
さらに下の動画『アンドレイ・タルコフスキーによるサクリファイス制作ドキュメント(Directed by Andrei Tarkovsky 1988)』を見れば、タルコフスキーが映画を総合芸術(第八芸術)として捉え、セットや絵画からカメラ撮影や演技指導に至るまで、黒沢や溝口以上に完全なものを追い求めていたことがよくわかる。
ラストの家に火を付ける長まわしシーンで、最初意図通りに行かない際の落胆の表情、そして二日後のセット作り直しでの撮影成功での喜びの表情が印象的である。

私の映画論を終えるにあたり一言述べておけば、戦後の日本映画は黒沢明溝口健二小津安二郎の三大巨匠に加えて木下恵介新藤兼人、市川昆、今村昌平、さらには日本のヌーベルバークの旗手大島渚吉田喜重篠田正浩など層層たる監督を生み出し、世界を圧巻させてきた。
しかしバブル享楽のなかで商業至上主義に徹し、その低迷は見るに堪えないものがあり、国際映画祭出品こそ多いが、とてもかつてのようにグランプリや金熊賞が受賞できるレベルにない。
まさに日本映画の現状こそは、日本の未来を抉り出していると言えるだろう。
それを救うものは、学術であれ、映画であれ、将来の日本であれ、教育である。
私のドイツ人の知人の息子さんは、高校終了後映画専門学校で2年間学んだ後ベルリン自由大学の政治学科で学んでいる。
前回紹介したヴィム・ヴェンダースはそれとは逆に、高校終了後ミュンヘン大学医学部で2期医学を学んだが落ちこぼれ、フライブルク大学で1期哲学、そしてデュッセルドルフ大学で1期社会学を学ぶもいずれも落ちこぼれ、1年間パリでの放浪生活を経て、ミュンヘンの映画大学に再入学し、現在の輝かしい道を切り開いている。
こうしたことが可能なのは、ドイツでは大学教育であれ、職業教育であれ、原則的に無償で提供されるからに他ならない(多くのEU諸国でも少し前までは、教育は無償で提供されることが当然であった)。
今回紹介したタルコフスキーも最初芸術学校の音楽科で落ちこぼれ、絵画科でも落ちこぼれ、再起して大学でアラビア語学ぶが、またまた落ちこぼれるといった有様であったと語られている。
為すすべのない窮地から彼を救ったのは、映画大学への入学であった。
そこでタルコフスキーの才能は花開き、現在も彼の才能が世界を圧巻し続けているのだ。
すなわち私の言いたいことは、人の才能は誰でも無限であり、それを引き出すのが教育であり、それを無償で提供することが社会の責務であるということだ。
特に日本は将来世代に1000兆円以上の負債を背負わせることからも、少なくとも無償の教育提供は責務である。
子供たちは日本の未来であり、無償の自由な教育こそが日本の救済、そして世界の救済に繋がるからでもある。

(注1)タルコフスキーの愛読した詩人チュッチェフの下の詩ようであり、まさに彼の映画はここから生まれていると言っても過言ではない。

自然の最後の時は告げられる。その時、土なる部分はすべて崩れ去り、可視の世界のすべては、ふたたび水で覆われ、かくて神の面が水の面に描きだされよう(川端香男里訳)。

(注2)http://www.youtube.com/watch?v=6bvC406b1b4

(注3)
『ローラとバイオリン』http://www.youtube.com/watch?v=rFBtVea-VGE
惑星ソラリスhttp://www.youtube.com/watch?v=GG9Anstjlro&list=PL23AA36F554CDA2EB
僕の村は戦場だった』(Ivan’s Childhood, 1962)
http://www.youtube.com/watch?v=X-cOMy9k-6s&feature=youtu.be
アンドレイ・ルブリョフ』(Andrei Rublev, 1966)http://www.youtube.com/watch?v=1PAhbcy8mP4
『鏡』(The Mirror, 1975)http://www.youtube.com/watch?v=gCTMM1iZ5Lw
『ストカー』(Stalker, 1979)http://www.youtube.com/watch?v=JYEfJhkPK7o