(127)映画が抉り出す真実(5)黒澤明が描く“本当に生きる”(『生きる』)

日本の財政破綻が足音を立てて近づいてきている。
最早バブル崩壊前の時のように真実性を帯てきており、公共放送NHKでさえ財政破綻を警鐘する番組を頻繁に放映し始めている。
1月22日、29日の2回に渡るオイコノミア「僕らがつけを払う・のか!」の番組では、大阪大学大竹文雄が1914年には日本の公債総額(負債)が1400兆円と言われる国民資産を追い越すかも知れないことから、財政破綻のきっかけを迎えるかも知れないと、慎重ではあるが勇気ある発言をしていた。
また番組が街で拾った市民の声も、有り得ないと思いつつも、慢性的に国の支出の半分が借金であることから、いずれあるかも知れないと恐れ始めていた。
何故このような状況になったかは、元大蔵官僚100人の証言録が明らかにするように、借金返済のための借金による大規模景気対策の繰り返しが原因である。
しかし本質的には官僚にそのような行動を許す制度自体にあり、国民の幸せよりも産業利益を最優先する官僚制度にある。
すなわち戦前の官僚政府は戦争国債を乱発し、政官財のトライアングルで戦争を通して利権にむらがり、戦争によって財政破綻させたと言っても過言でない。
そうした官僚機構の悪を死に直面した役人の実存を追及することで抉り出し、人間が本当に生きることを問い正した作品が、1952年黒澤明制作の『生きる』(注1)であった。
この映画を官僚機構批判、さらには現在の財政破綻と関連づけることには異論が多いかもしれないが、1960年制作の『悪いやつ程よく眠る』を同時に見れば、それが理解されよう。
戦争末期の反戦映画とも言うべき『一番美しく』を制作し、理想的な民主主義を夢見た黒澤明にとって、戦後の現実は失望の連続であり、それこそが『素晴らしき日曜日』、『酔いどれ天使』、『静かなる決闘』などに見るヒューマニズム追及の源泉であった。
しかしそのようなヒューマニズムの追求にもかかわらず、戦前の悪しき慣習が蘇ることで、『生きる』制作によって“本当に生きる”ことを追求すると同時に、腐り切った官僚機構を社会に問い正さずにはいられなかたように思われる。

映画は「これはこの物語の主人公の胃袋である。噴門部に胃癌の兆候が見えるが本人はまだそれを知らない」というナレーターの台詞で始まり、定年間際の市民課長渡辺(志村喬)は、患者の入れ知恵から末期の胃癌であることを悟り、奈落の底へ突き落とされる。
渡辺課長は早く妻と死別し、再婚もせず一人息子一途に生きてきたことから、息子への愛にすがろうとする。
しかし息子への愛は、息子夫婦が自分の退職金を担保に家を建て別居を考えていることを立ち聞きし、無残に裏切られる。
そうした絶望の彼は市役所を無断欠勤し、幕末の飲み屋でメフィストフェレスの如き三文文士(伊藤龍之介)に出会い、歓楽への案内を頼む。
三文文士は次のように言って、彼をバーやダンスホールなどの歓楽街へ連れて行く。
「まあ、私に任せて下さい。 面白い・・・ 面白いなんて言っちゃ失礼なんですが、あなたは実に珍しい人物だ。私はね、つまらん小説書いているいい加減な男ですが、今夜は全く考えさせられた。 なるほど、不幸には立派な一面があるって言うが本当ですな。つまり不幸は、人間に真理を教えるんだ。あなたの胃癌は、あなたに人生に対する目を開かせた。 はあ、いやあ、人間は軽薄なもんですな。生命がどんなに美しいものかってことを、死に直面した時に初めて知る。しかしそれだけの人間はなかなかいませんよ。ひどい奴はこの、死ぬまで人生の何たるかを知らない。あなた立派です。その年で過去の自分に反逆しようとしてんだ。私はね、その反逆精神に打たれた。あなたは、これまでは人生の下男だった。しかし今やその主人になろうとしている! 人生を楽しむことってね、これはあなた、人間の義務ですよ。与えられた生命を無駄にすんのは神に対する冒涜ですよ。人間、生きることにこの貪欲にならなきゃ駄目!ね? 貪欲は悪徳に数えられてるがそんな考えは古いんだよ。貪欲は美徳、特にこの人生を楽しもうとする貪欲はね。 さあ、行きましょう!あなたの無駄に使った人生をこれから取り返しに行こうじゃないですか!私はね、今夜あなたのために喜んでメフィストフェレスの役を務めます。代償を要求しない善良なるメフィストの役をね。おあつらえ向きに黒い犬もいる。こらっ案内しろ!」
しかし彼は歓楽の世界に浸っても、むしろ逆に深い孤独感に襲われるのであった。
その翌日彼は溌剌とした若い市民課女性職員トヨ(小田切みき)に偶然出会う。
トヨは退屈な市役所を渡辺が欠勤している間に辞め、玩具工場で働いており、そうした屈託のない生き方に魅かれ、スケート場や映画館でのデートを楽しむ。
しかしデートを度重ねるとトヨは嫌がり始め、最後のデートで渡辺は胃癌であることを告白し、次のように迫る。
「君はどうしてそんなに活気があるのか。・・・私は死ぬまで、その一日でもよい、そんな風に生きて死にたい。いや、そうでなければ、とても死ねない。つまり私は、この、なにかしたい。なにかすることがある。ところが、それがわからない。ただ君は、それを知っている。いや、知らんかもしれんが、現に君は・」
トヨは「私、別に」と言いかけて、余りの真剣な表情に言葉を失い、兎の玩具をテーブルに出し、「こんなものでも作っていると楽しいわよ。・・」とゼンマイを回して動かす。
それを凝視していた渡辺の目が突然異様に輝き、「いや遅くはない。いや無理じゃない。あそこでもやればできる。ただやる気になれば」
渡辺は取り付かれたように兎を抱きしめ喫茶店の階段を下りていく、そこで誕生日に招かれた少女とすれ違い、二階からハッピーバースデーの歓喜があがる。
それは、渡辺の“本当に生きる”始まりを象徴していた。
翌朝、退職すると噂されていた渡辺課長が溌剌として市役所に出勤し、うず高く積まれた書類から住民の公園(暗渠埋め立て)陳情書を捜し出し、市民課でやることを部下に号令し、自ら実地調査に出向いて行く。

そしてこの映画の後半は渡辺課長の通夜から始まり、渡辺がその後いかに“本当に生きた”か、そしていかに官僚組織が腐りきっているかが描かれていく。
通夜では、まず公園を誰が作ったかが話し合われ、最大の功労者となっている助役(中村伸郎)は、「あの公園をつくるにゃ、渡辺君は大変な尽力をした。しかし、それはあくまでも市民課長という職権内ということでね。市民課長が公園を作ったというような話は役所の機構を知っているものにとっては全くナンセンスだよ」と渡辺説を後ろめたさから否定し、部長たちも同調する。
末席の渡辺の部下で、渡辺の死をも厭わない行為に心を打たれた木村(日守新一)や小原(左ト全)は反発するが、彼らに反論できない。
しかし渡辺を神様のように慕う住民主婦たちが焼香に押かけてくると、みな真実がわかっていることから座が白け、助役たちは逃げるように帰って行く。
その後渡辺の部下の小役人たちだけとなり、野口(千秋実)が「会議ですか・・お偉さんたちは」と聞くと、木村が「いたたまれないんですよ。誰がなんて言ったってあの公園を作ったのは渡辺さんですよ。本当は助役さんたちも感じているんですよ」と、我慢を解き放つように言う。
しかし課長補佐の大野(藤原鎌足)が「そりゃ君、言いすぎだよ・・」と言うと、小役人たちは「あの公園は政治の力でできたんだ」、「設計・予算・工事の施行は公園課の仕事なんだ」「役所にはちゃんと縄張りがあるんだから」「役所というのはそういうところなんだ」と、明日から課長の大野の肩を持つ。
しかしそれが終わると、30年近くも役所の慣例を保守し続けてきた渡辺課長が、突然慣例に背き公園建設に身を捧げたことに向けられ、彼が胃癌であったことを知っていたのではないかと言い出す。
しかし息子が否定したことから、一人一人の回想を交えて語ることで、その真実を探していく。
そこでは、公園課、下水課、土木課の縄張りがあり、最初見向きもされなかった実態が語られる。
しかしそうした冷たい仕打ちに対しても、何時間でも、何週間でも執拗に粘り続け、ハンコを付かしたことが回想される。
また助役の中止命令や、そこに歓楽街を作ろうとするヤクザの脅しも、死をかけた執念でものともせず、只々公園を作ることに邁進する、痛ましさをこえた神々しさが見えてくる。
木村は言う、「あの渡辺さんの熱意が通じないなら世の中は闇ですよ。第一、あの渡辺さんの姿を見たら、まるで仕事だけで体を支えている。そんな風だったじゅないですか。僕ァ、時々、ぞっとしたぐらいですよ」
そのように小役人たちが回想するうちに、渡辺課長が癌であることを知っていたことがわかってくる。
課長補佐の大野(藤原鎌足)は、総務課の二週間にも渡る惨い仕打ちに憤ったとき、渡辺課長が「いや、私は人を憎んでいる、そんな暇はない」と言ったことを思い出す。
また主任斉藤(山田巳之助)は、課長が役所の帰路に夕焼雲を見上げて、「おう、美しい。実に美しい。私は夕焼けなんて、この30年間すっかり・・。いやしかし、私にはもうそんな暇はない」と言ったことを思い出し、一同渡辺課長が癌であったことを知っていたことを確信する。
そして小役人たちは銘々に言う、「これではっきりした」、「ああなるのが当たり前かもしれない」、「僕たちだってやりますよ」
それに対して小原は、「こら、今お前なんて言った。そうなったら僕たちだってやる。嘘だよわしら。お前なんかに渡辺さんの真似ができてたまるか」と怒鳴る。
主任の斉藤は、「渡辺さんに較べて、我々は人間の屑だ」と言い、場を取り持とうとする。
僕たちだってと言った坂井(田中春男)は、「どうせ屑ですよ。でもね役所にだっていい人間も入ってくるんですよ。でも長くいるうちに。僕だって昔はこんな・・」と吐露する。
また野口(千秋実)は、「あそこは何もやっちゃいけないところですから。何もやらないこと以外は過激行為なんだから、何もしないよりしかたない」と本音を漏らす。
さらに小役人たちは、「その功績を横取りしたやつは人間じゃないよ」、「助役とはっきり言えよ」と述べるまでに変化する。
坂井は渡辺さんがさぞ無念だったと思い、「ねえ、あの公園で独りさびしく死んで行く時の渡辺さんの気持はどうだったろ・・」と問いかける。
折りしもその時、昨晩公園でパトロール中に渡辺に会った警官が焼香に訪れ、「あまりに楽しそうだったから。つまりしみじみと歌を歌っておられ、不思議なほど、その奥の方までしみわたる声で」と述べ、放置したことを詫びた。
息子は居たたまれなくなり、廊下で妻に「夕べ階段の下に俺の名の預金通帳と印鑑、退職金自動手続き書が置いてあった」と言って、嗚咽する。
そして小役人たちも、「僕は断じてやるぞ」、「僕は生まれ変わったつもりでやるよ」、「頑張ろう」、「この感激を忘れるなよ」等と、全員が連帯して誓い合うのであった。

まさに黒澤明は、雪の降る公園でブランコに乗って、本当に楽しそうにしみじみと「命短し恋せよ乙女…」と歌いながら、自ら選んで死んでいった渡辺課長を通して、人間の“本当に生きる”ことを提示しているのだ。
自らのためを捨て、世の人のために、そして家族のために生きろと。

しかし翌日の市役所ではドンデン返しが待ち受けており、これまでと全く変わらず、慣例以外は何もしない、ハンコ、ハンコ、ハンコに追われる日々が続くのである。

それは、相変わらず自分たちだけのために生きる役人への黒澤の怒りでもある。
そして60年制作『悪いやつほどよく眠る』では、65年までは公債なき健全財政であったにもかかわらず、日本未利用開発公団のような政財界の利権構造があらゆる分野で復活し、高度成長で国に入るお金にむらがるさまに、黒澤明は怒りをこえて絶叫している。
しかしこの黒澤の絶叫は無視され続け、利権構造が日本の富を喰い尽くし、今我々は最早逃れることが難しい財政破綻の絶壁に立っているのだ。

この作品は皮肉にも、日本が官僚制度を学んだドイツの53年ベルリン国際映画祭で特別賞を受賞している。
もっともドイツの官僚制度は、ハイパーインフレやナチズムを生み出した戦前の深い反省に立って、稟議制(ハンコ、ハンコ、ハンコ)での無責任を廃し、担当官僚への権限移譲と徹底した責任を課し、原則的に局長以上の幹部官僚は政党からの推薦及び選挙得票率で各党に割り当てることで、市民、そして国民にガラス張りに開かれていると言えよう。

(注1)
予告編http://www.youtube.com/watch?v=pCRyjFwwjGA
三文文士とバーでhttp://www.youtube.com/watch?v=nr2d6PsRpsc
世界で無料で見られる黒澤映画(完全版)
羅生門http://www.youtube.com/watch?v=8dM_ZtjdcjM
『白痴』http://www.youtube.com/watch?v=pAFQpHT8_Ao