(299)世界の官僚奉仕を求めて第9回官僚奉仕の切札は太陽(4)苦界浄土が希求する善なるもの(『私の見た公共放送の苦界浄土』)

この動画を編集した理由は、これまで公共放送NHKが伝えてきた水俣病の作品群を振り返って見た際、石牟礼道子さんが振顫しながらも、「現在のごまかし、ごまかし、正当化する国のあり方を、善なるもの(徳義)がなされるあり方に変えて行かなくてはならない」との思いを必死に訴えられている生きざまにあります。
それは私が希求する「悪の凡庸なる官僚支配から善の凡庸となる官僚奉仕」と一致するものであったからでもありますが、徳義がなされる社会実現のために60年間の闘いを経て、今尚振顫するなかで形振かまわず闘う姿勢に、魂を揺さぶられたからに他なりません。
またそれは、私の母も60歳を前にして振顫が始まり、名古屋の八事日赤で診てもらったところパーキンソン病だと言われ検査入院し、同じ症状を抱えてその後四半世紀を前向きに生きたからでもあります。
3週間ほどの長い検査入院では、多くの検査の結果パーキンソン病とは異なる病の診断がなされ、原因不明とされました。
妙高に移り住んでからは小布施の新生病院で漢方薬治療を受けていましたが、母が症状を話そうとするとそれを妨げるかのように振顫し、私が「眠っているときは全く振顫がない」と話すと、経験豊富な初老の診察医は驚いていました。

何故今私の母のことを持ち出したかと言えば、母の父が炭鉱の技術者であったことから筑豊炭鉱の直方に幼少から住み、当時手厚い待遇であったことから官舎には絶えず水俣でとれる新鮮な魚が届けられ、食べていたと聞いていたからです。
水俣有機水銀について調べて見ると(注1)、1932年には航空機燃料製造のためその原料となるアセトアルデヒトが石炭(コークス)からアセチレンカーバイトを経て水銀触媒で製造を開始しており、副生物のメチル水銀が海に垂れ流されていました(すなわち水俣と直方は繋がっていたのです)。
その結果1942年には確認できる最初の水俣病患者が発病しており(熊本第2次水俣病研究班の調査で検証)、さらに1943年には水俣湾が工場排水でヘドロ汚染化したことで、チッソは被害漁場の漁業権を買い取っています。

それらの事実は私の母や石牟礼さんが有機水銀で汚染された水俣の魚を食べたことを物語っており、私の母、そして石牟礼さんの振顫も遅延性の水俣病であることを示唆しているように思われます(恐らく摂取量が少ないため遅延性となるのでしょう)。
何故なら戦前水俣の魚を多く食べた母、母の兄、そして祖母は60前後から振顫が始まり、晩年は痛々しく感じられました(祖父は戦後直ぐに癌で他界したことから発症はなかったようです)。
とくに母は既にブログに書いたように末期ガンとなり、自宅で亡くなることを求めたことから私が食事の世話もしていたのですが、振顫が酷いためスプンに盛った食べ物が口に入らず下に落ちることも屡々有り、その度に謝る母を思い出します。
それを今思い出すと、どうして母が謝らなくてはならないのか、本当は謝るべきは被害の拡がりを恐れて自ら調査しない国であり、怒りがこみ上げて来ます。
そのような表に出ない多くの人の怒りを汲み取るかのように、石牟礼さんの60年間を越える闘いを経て、今も尚振顫という十字架を背負って悪の凡庸なる国の所業を太陽に晒し、善なる未来を紡ぎだそうとする生きざまは、私にとっても大きな支えであり、立ちはだかるものがどのように巨大であろうとも、必ずや善なるものがあたり前となる、善の凡庸なる官僚奉仕社会の到来を信じないではいられません。

(注1)水俣病略年表
http://www.soshisha.org/jp/about_md/chronological_table

水俣病報道の責任 −全国紙の役割から− 朝日新聞 野上隆生(20141211)PDF
http://www3.kumagaku.ac.jp/minamata/wp-content/uploads/2014/09/7221bd643bcee087c8a3a89168a47cfc.pdf
このPDFには2次研究班の大きな成果として以下の5項目が挙げられています。
(1)水俣地区でその後も水銀による汚染が続いていた (2)御所浦島や県外移住の患者の存在を確認して、汚染の広がりを指摘 (3)第3水俣病騒ぎを機に、魚介類における水銀の暫定規制値が設けられた (4)1941 年 11 月に湯堂で生まれた最も早期の胎児性患者とみられ女児を発見。1942 年 2 月に生まれた月浦の女性を水俣病と確認。後に認定される患者のうち最も早い例だ った。こうした初期の患者発生を確認 (5)中度、軽度の患者に見られる感覚障害を確認