(350)鈴鹿山麓での農的創成(5)・動物の権利を考える(2)・何故今『ともに生きる』が叫ばれるか?

8月もまだまだ暑い日々が際限なく続いている。
だからといって朝夕の水やりで凌いでばかり居られず、秋、そして冬に向けて始動している。
今一番感動しているのは、自らの糞尿が森の腐葉土の中で100%完熟し、微かに香る価値ある堆肥として蘇っていることだ。
この糞尿は5月、6月に自宅のくみ取りトイレの出口層から毎日1回約15キロを密閉プラスチック容器に汲み出し、一輪車で畑まで運び、畑を飲み込もうとしていた隣接する森に埋めたものが、サラサラの価値ある堆肥に変わっていた。
しかもそこには太いミミズが育っており、その太さからして、さぞかし立派な人参や大根を育ててくれると期待が膨らんでいる(上の写真はその価値ある堆肥を運び出した穴跡であり、秋にはまた来年の春用野菜のためにせっせと運ぼうと思っている)。

もっとも期待が萎んでいくことも決して少なくなく、今年の不耕起での試験的稲づくりでは、左の写真で見るように絶望的になった。
それはブログに書かなかったが労力を惜しんでいたわけでなく、十数年使われず葦の節根が巡る2畝ほどの田を試験的とは言え、苗を育てるまでには並々ならぬ苦労があった。
最初は鎌で草を刈り、表土を開墾鍬で削り、5月初めには不耕起稲づくりの指導書に従い、昨年収獲したコシヒカリの籾を蒔く田下しを終えていた。
しかも枝木や網で鳥獣対策を施しているにもかかわらず、2週間ほどで芽が生えてくるや否や鹿にむしり喰われていた。
それからつくり直してようやく植えた苗も何度もむしり喰われ、8月に入り近辺の2メートル鉄柵に守られた田は既に稲が穂をつけているにもかかわらず、私たちの田は無残にも夢の跡となった。
2メートルまで高くした網も、鹿にとって破るまでに数日もかからなかったことから、田に関しては住居近くの鉄柵内の放置されている田を来年借りて、こだわって自給することを決意した。
尚今年食べているコメは、昨年妙高の2反ほどの田から有機栽培で収穫できたものを籾のまま保存し、少しずつ玄米にミニホップで摺っており、まだ300キロ近くあることから来年の秋まで持ちそうである。

動物の権利を考える(2)

7月21日に放送されたNHKスペシャル『ともに、生きる〜障害者殺傷事件2年の記録〜』は、事件を引き起こした現在の競争社会を鋭く問うだけでなく、植松被告に失心者と呼ばれる障害者の人たちが、「ともに生きる」という視点で一人一人に向き合ったケアーによって心を取り戻していることをまざまざと見せてくれた。
また彼らをケアーする職員たちも、ゆとりを持って向き合うことで、キラキラ輝くような生きがいを見出して取組んでいた。
それは上に載せた、4分1のほどに短縮した私の見た動画49『ともに、生きる』を見ればより鮮明に理解できるだろう。
そこから見えてくるものは、植松被告のようなある意味でナイーブな若者が、「意思疎通のできない人間は生きる価値がない」と言い切る考えは、社会学者の最首悟が強調するように、(競争原理が求められる)現在社会の多数派であり、社会が作り出した「病」であると断言できるだろう。
そうした恐ろしい病が社会全体で反省されなければ、いずれ老人などの弱者にもおよび、究極的に私の見た動画39で見るように、ホロコーストさえ容認する独裁国家へと変貌するだろう。
既に私から見れば、そうした競争原理を最優先する社会は超えてはならない域にまで達しており、右側では自国第一主義を掲げるトランプを誕生させ、また左側では人権弁護士さえ徹底拘束する習近平を誕生させ、世界を滅ぼす独裁国家へと変貌しようとしている。
そのような恐るべき病の処方箋は恐ろしく難解に見えるが、本当は皆が望めば容易であり、「ともに生きる」という視点から最初の一歩が始まると確信する。

またそうした視点で動物の権利を考えるなら、動物福祉を尊重できる社会こそ競争原理を最優先する現在社会とは真反対の方向にあるだろう。
今回載せたドイツの公共放送ZDF『試験台に立たされる動物実験3−2』では、現在の70%の動物実験は動物を使用しないオルタナティブな代替試験に置き換えることが可能であることが示されている。
私がいつもZDF放送に感心するのは、今回も見られるように動物実験に反対するヒンズー教徒からPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)人たちの意見、そして動物実験を必要とする研究者の意見をしっかり取材して入れ、問われている問題を視聴者にガラス張りに開いて、よりよい解決を求めようとする公共放送の意志である。
その原動力こそは、ドイツが戦後築き上げた官僚奉仕社会であり、どのような圧力にも屈しない公正さを求める社会の仕組である。