(351)鈴鹿山麓での農的創成(6)・動物の権利を考える(最終回)・ともに生きる(2)駅の子が今訴えるもの


ようやく暑い夏も峠を過ぎ、朝夕は少し涼しさを感じるようになってきた。
左の写真は現在最も重宝しているステンレス製かまどである。
このかまどで、カレー味の二人の3食分の野菜鍋を昼食時にまとめて煮ている。
鍋の中身は、赤いアンデスジャガイモ、ニンジン、カボチャ、ナス、ズッキーニ、キャベツ、大根、小松菜、玉ねぎ、さらに朝の自家製豆乳のカスであるおからなどであり、自賛となるが格別に美味しい。
これらの材料は玉ねぎを除いて、この春から庭の有機栽培や森の自然農法栽培で収穫できたものであるのも嬉しい。
かまどで鍋を煮るのはいたって簡単であり、最初にここでは有余っている竹を焚き付けに使い、数分で倒木が燃え始め、そこに娘が最初から全てを入れ込んだ鍋を20分ほど載せて置くだけである。
倒木は長期乾燥の必要な薪とは異なり、数日の乾燥で激しく燃え、4,5本の30センチ程の倒木で鍋は活きよいよくたぎり、20分ほどで燃えついた頃庭に取りに行けば、最高に美味しいカレー鍋が出来上がっている。
このようなカレー鍋が定着したのは、殆どの野菜が自給でき始めた1か月前からである。
お陰でプロパンガスも節約でき、それまで1か月5000円ほどの燃料費が今月は3000円を切ったのは驚異的であるとともに、ドイツ人のシュパーレン、シュパーレン(節約する)と唱える気持ちもわかる気がする。
しかも暦が秋に向かうなかで、大根、人参、カブ、聖護院大根、小松菜、レタス、キャベツの種まき、そして二期作アンデスジャガイモの植え付けなどと順調であり、9月にはこれまで雪深い妙高では栽培出来なかった玉ねぎの種まきへとモチベーションも上がっている。


しかしながら鳥獣被害はとうとう電気柵の中まで破られ、楽しみにしている枝豆が写真で見るように半分ほどが鹿によって丸坊主にされた。
対策としては現在1メートル弱の電気柵電線を2メートル近くにも張り、飛び越えられないようにすることであるが、取り合えず外側のネット網を2メートル近くまで補強した。
葉が貪り食われた枝豆は花や枝が残っているので、収穫はできるのではないかと楽天的に考えることにした。
何故ならここは鳥獣被害では日本の最前線にあり、そのように楽天的に取組んでいかなくては継続は難しく、動物との共存など考えられないからである。

動物の権利を考える(最終回)

ドイツは動物保護を基本法に明記し、「人間と動物の共生」と「人間の動物に対する倫理的責任」を将来の目標に掲げていることから、また研究者が殆どの動物実験は代替可能と明言していることから、このフィルムのラストでは、近い将来の全面的動物実験を訴えるものと期待していたが、当て外れであった。
もっともそれが難しい現状を、当事者たちを通して忠実に描くのがZDFプラネットeのスタイルであることから致し方ないだろう。
これがZDFズームの制作者たちであれば、脱原発、脱石炭電力などに見せたようにZDFの視点で公正さを追及することから、広い分野で取材がなされ、現状を批判的に描くだろう。
しかしそうした筋では進まず、医学研究者たちの取材で現時点では全面廃止は困難であるという主張が前に出て、代替法の開発推進、動物実験の個体数減少、そして動物の苦痛緩和という域で留まっていた。
ZDFズームのように現状批判の視点を採るなら、例えば自然保護団体ブンドや緑の党政治家などにも取材を追及し、現状の困難さに流されることなく、ドイツが将来に掲げた二つの目標である共生と責任を通して、動物実験の早急な動物実験廃止を訴えた筈である。
そして私自身は前回も述べたように、単に動物の共生と責任の達成だけでなく、現在の世界のさまざまな問題の解決策として、「ともに生きる」視点が第一歩であると考えている。

ともに生きる(2)・駅の子の闘い

「ともに生きる」という視点から前回は障害者査証事件の私の見た動画49『ともに、生きる』を載せたが、今回は8月12日に放送されたNHKスペシャル『“駅の子”の闘い〜語り始めた戦争孤児〜』を、私の見た動画50として上に載せた。
戦後“駅の子”となった小倉さんは、生きるために窃盗にも手を染め荒んで生きてきたが、施設で黒羽先生に疥癬にかかった背中を流してもらうことで、人の温もりに触れ、その恩に報いるために必死に生きてきたという。
そして今、これまで隠してきた辛い暗い体験を語ることで弱者救済を訴えている。
その表情は涙に溢れているが、生きがいに溢れ輝いている。
それは他の“駅の子”も同じであり、上野駅で幼い二人の兄弟と寝泊まりした女性も、清掃で働いたお金を訴訟に寄付し、二度と“駅の子”を生み出さないように国を訴えている。
それを語る彼女の表情も生き生きと輝いている。
そこからは一般市民も黒羽先生やよき伴侶のように振舞えるなら、孤児や困窮者もいつか輝きだし、市民自身も輝きだす「ともに生きる」社会が期待される。

このフィルムで厚生省の役人はいろいろと言い訳をしているが、戦前内務省として国体を統括してきた厚生省は、従来の既得権益を守り、例えばらい患者に対しては隔離政策を継続死守し、サリドマイドエイズ犯罪が物語るように製薬企業の復興統括に動き出していた。
それは戦前、戦後を通じて国益最優先し、国民の命も厭わなくさせるものであり、ホロコーストの最高責任者アイヒマンが「ユダヤ人の輸送は、市民の義務として指示に従っただけである」と語ったように、一かけらの過ちを犯した意識さえ奪う仕組に他ならない。
その仕組みこそ日本が明治にドイツから学んだ富国強兵、殖産興業を目的とした官僚支配であり、他国との競争に打ち勝ち、究極的には他国の富を奪うものであることから(当時の列強帝国主義世界では重商主義と称され、現在の新自由主義世界では新重商主義と呼ばれている)、戦争へと発展することは必至である。
ドイツはそうした仕組みを、戦後従来の国益最優先から国民の幸せ最優先の官僚奉仕へと180度転換したが、日本では戦争の反省もなく継続され、“駅の子”を見るにつけても、戦後も強固に死守されている実体が浮かび上がって来る。
事実直近の森友学園加計学園問題では公文書類の改ざんが日常茶飯事に行われている実態が連想され、今問題が拡がりつつある40年以上も組織ぐるみでごまかしてきた障害者雇用水増しでは、産業利益、すなわち国益のためには何事も厭わないこの国の形が見えてきている。