(470)『永久革命としての民主主義第二部(日本の処方箋)』を書き上げました

『永久革命としての民主主義第二部・         退化し続ける日本の民主主義と処方箋』

 

ブログを長く休んでいましたが、ようやく書き上げることが出来ましたので本の「はじめ」と目次を載せておきます。この本はアマゾン電子書籍キンドルで無料でも読めますので、日本の民主主義を取り戻すためにも多くの人に読んでもらいたいと思っています。

 

 

「はじめに」

永久革命としての民主主義』はドイツの絶えず進化する民主主義を描くことで、読者自身に絶えず退化し続けている日本の民主主義を考えてもらいたいと云う思いから書き始めた。しかし現在の専制的ともいうべき日本の社会では、もはや本質的な思いが一つ一つ検証していくことなしには伝わらないことも確かである。それゆえ第二部では、「退化し続ける日本の民主主義と処方箋」を書くことにした。

現在の日本は、コロナ禍やウクライナ戦争によるインフレ禍など次々と生じてくる禍に対して困窮者などの弱者が見捨てられていると言っても過言ではない。

これに対しドイツでは、市民に幅広く生活支援、子育て支援、住宅支援、交通費支援、暖房費支援、インフレ支援と満遍なく対処がなされ、困窮者には調査なしで即座に手厚い支援が与えられている。またウクライナからの膨大な数の避難民に対しても、ドイツ人生活給付者と同等の支援が与えられている。

しかもドイツはロシアの無法なウクライナ侵攻が始まるや否や、これまでドイツに莫大な冨をもたらしていたロシアからの天然ガス輸送パイプラインを自ら断ってブログ参照・注1)、エネルギー危機に見舞われた。それにもかかわらず、今年二〇二三年四月には残されていた三基の最後の原発を停止し、二〇三〇年までに再生可能エネルギーを少なくとも消費電力の八〇%以上にすることを明言している。

どうしてそのようなことが出来るかは、第一部を読んでもらえば理解できるだろうが、戦後(国民を国家に奉仕させる)官僚支配から(国家が国民に奉仕する)官僚奉仕に変化させ、降りかかる禍を力として絶えず進化する民主主義を築いてきたからである。

日本では戦後の民主主義の下眠っていた官僚支配が朝鮮戦争で再び呼び起こされ、固く禁じた国債発行時限立法で一九六五年に復活させ、それを契機に官僚支配の利権構造が肥大し始めた。そして現在では処方箋がないまでに肥大し、現在の危機を招いている。

国の勢いの衰退は嘗ての英国のように著しく、膨大な貿易黒字も膨大な貿易赤字に転落し、「この国には生産能力のないものを、支える余裕はない」という声さえ、暗黙裏に聞こえてきている。

 その声は、まさに七年前の二〇一六年七月二六日に起きた津久井やまゆり園障害者殺傷事件の植松聖被告が述べた「意思疎通のできない人間は生きる価値がない」であり、周囲からの入れ知恵からか、植松の手記では「生産能力のないものには、支える余裕はこの国にはない」と書かれている私の見た動画49『ともに、生きる』参照・注2

 私のように戦後の一人一人を生かす民主化教育で始まり、小学校を出る頃には一転して競争教育を課せられたものには、競争教育が若者をここまで洗脳させていることに驚きと、大きな懸念を感じないではいられなかった私の見た動画57『戦後の日本の教育前編』『後編』参照・注3)。

 ドイツでも戦前の国家奉仕のナチズムが、ホロコーストのリハーサルとして同じ考えで、障害者を病院で処分していた(私の見た動画39『障害者虐殺70年目の真実 何故起きたか21』『22』参照・注4)。

 しかしドイツは戦後それらの大罪を深く反省し、基本法国家への奉仕から国民への奉仕に転じ、万人の幸せを追求し、絶えずゾリダリテート(連帯)を求めている。それは大きな意味で「ともに、生きる」ことであり、ドイツの原動力ともなっている。

 日本においても「ともに、生きる」ことで、降りかかる禍を力として、絶えず進化する民主主義を創り出し、希望ある未来切り拓かれることを願い、第二部を執筆した。