(401)救済なき世界”をそれでも生きる(23)・コロナ感染拡大で見えて来た世界(1)問われている“グローバル資本主義という市場アナキストのユートピア実現”

グローバル資本主義という市場アナーキストユートピア実現

 

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今回の動画には、ドイツ第一公共放送ARDの『条件なしのベーシックインカムは何をもたらすか?』を載せた。

何故今ベーシックインカムかと言えば、コロナ危機で人の外出が控えられるなかで、それに関与する飲食業から娯楽産業に至るまで大きな痛手を与え、消費が減速することによって益々景気が悪化し、最も弱い人たちに最も大きく影響を与え、メディアが日々報道するように、暮らしに困窮する人たちが溢れだしてきているからだ。

もっともコロナ危機である故にベーシックインカムと言うのではなく、既にグローバル資本主義の欠陥が、格差の拡大から金融危機地球温暖化問題など様々な問題を噴出させており、コロナ危機はそのような欠陥を一層浮き彫りにしているからである。

グローバル資本主義を“市場アナキストユートピア実現”と呼んだんのは、現代のリスク社会を分析、警鐘したウルリッヒ・ベックに他ならない。

ベックが1997年に世に出した『グローバル化社会学グローバリズムの誤謬とグローバル化の応答』(日本語翻訳版2006年)では、グローバル資本主義というトランスナショナル(多国籍)な経済が、国民国家という足枷をはずし、環境規制、労働組合、社会国家、税制規制というあらゆる投資障壁を取除き、最小国家という市場アナーキストユートピアを実現すると述べている。

実際その後の世界では、2001年米同時多発テロ、2008年世界金融危機などの危機を通して、危機の度ごとに障壁が打ち砕かれ、市場アナーキストユートピアが実現したと言っても過言ではない。

それは世界の市民にとって恐怖の実現であり、革命も、国家の法律や憲法改正を伴わず進展して行くのは、4つの原動力を得たからだとベックは指摘している。

すなわち、最も有利な雇用(可能な限りコストと制約の低いところでの雇用)、分業による最も有利なところでの生産、最も安い税金と最も有利なインフラの選択権、そして最裕福層1%の育成環境形成(最も安い納税と最も快適な地への移住)を可能にした力である。

もっともそのような原動力は、ベックが指摘した97年当時ドイツではまだ機能したばかりで、ドイツ市民も“市場アナーキストユートピアが実現する”とは想像していなかった。

しかしドイツの大学では、競争原理求める大学改革の進行するなかでグローバル資本主義が問われ、学生の間ではそれに反対する運動が高まり、98年の連邦選挙に向けてクライマックスに達して行った。

当時のシュピーゲル誌は、そのようにドイツ中に拡がって行く学生運動を特集で連載し、97年49号では政府ボンでの4万人を超える学生デモ行進を、「怒りは絶え間なく増大する」のタイトルで報道していた。

しかしその際の学生運動は、68年のような力による革命を目指すものではなく、大学が競争原理で解体されることを警鐘するだけでなく、社会のあらゆる分野で社会解体が始まっていることを警鐘し、グローバル資本主義の人間の権利解体に抗して、ゾリダリテート(連帯)によるオルタナティブなより良い社会を求めるものであった(そのような声明が、各大学の学生運動本部のホームページには掲げられていた)(注1)。

実際98年10月の連邦議会選挙では、そのような学生運動が市民の大きなうねりを作り出し、グローバル資本主義に反対を掲げる赤(SPD)と緑の党を大勝利させた。

それゆえ誕生した「赤と緑の連立政権」は、すぐさまコール政権で成立したグローバル資本主義の要である企業の自由解雇を可能にする「解雇制限法の緩和」法を撤回し、さらに病欠手当及び年金減額法を廃止した。

そして公約通り原発撤退に向けて電力企業と交渉を始め、さらにはガソリンや電気に課税することで(将来的には環境に負荷を与える全ての物に対して徐々に課税を強化することで)、社会保障費を賄い、環境に優しいより良い社会を創り出そうとするエコロジー税制改革を断行した。

しかし既に4つの原動力を手にしたグローバル資本主義の勢いは、余りにも巨大で強かった。

すなわちドイツ企業は、競争力の強化なしには生き残れない宣告し、シーメンスフォルクスワーゲンといった製造企業だけでなく、ルフトハンザといった航空企業までが、本社を海外へ移すと政府を脅し、グローバル化で恐ろしく強力化されたロビー活動によって誕生一年後の「赤と緑」政府は、グローバル資本主義を推進するまでに変化していた。

それは、自由解雇法案を元に戻すと行った手ぬるいものではなく、世界で一番豊かなドイツ労働者の権利を根こそぎ奪うだけでなく、職の見つからない専門職労働者を暮らしに困窮する生活保護者へ転落させるほど過酷なものであった。

具体的にはそれまでの失業保険給付期間32か月から12か月へ削減するだけでなく、専門職者も雇用局(ジョブセンター)から紹介される意に反する職を拒否できなくなった。

そして2005年の恐怖の労働法と称されるハルツ第4法では、職の見つからない者は、失業扶助と社会扶助(生活保護)の統合で実質的に生活保護者に転落し、しかもその低い給付をもらうために、当局の厳しい審査で屈辱感を味わなければならなかった。

 

(注1)当時のドイツの学生運動については、ゴルフ場開発後私が書かずにはいられなかった『アルタナティーフな選択・ドイツ社会の分かち合い原理による日本再生論』参照。

 

何故ドイツでグローバル資本主義が克服されたか?

 

確かにそれでドイツの国際競争力は独り勝ちと言われるほど強化され、巨大企業の収益は天井知らずに肥大化した。

しかし益々競争が激化し、夥しい数のドイツの伝統産業や老舗の百貨店が倒産し、市民の暮らしは益々悪化して行った。

そして2008年の世界金融危機では、いち早く銀行は救済されたが、市民が将来のために投資したお金は返って来なかった。

この金融危機を契機に、ドイツではグローバル資本主義カジノ資本主義、或はキャラバン資本主義と呼ぶようになり、殆どのドイツメディアがグローバル資本主義に対し批判に転じた。

そのようなメディアの転換もあって、ドイツ市民はグローバル資本主義がどれ程ドイツ企業に利益をもたらしても、市民の暮らしは豊かにならず、競争原理優先の下では心まで荒ぶことを学んだ。

それ故グローバル資本主義を推進して来たメルケル政権は、2009年の連邦選挙以降は州選挙で勝てなくなり、2012年まで全敗が続いた。

そうした州選挙全敗を受けて、2012年キリスト教民主同盟の党大会では、アデナウアーの「万人のしあわせ」への回帰が決議され、メルケルの弱者を支える社会的市場経済回帰宣言がなされた。

それは少なくともドイツ市民のなかで、グローバル資本主義の克服を象徴するものであった(もっともグローバル資本主義の中で競うドイツ産業は、国内では市民に寄り添い抑えているが、本質的には何も変わっていない)。

例えばそれは、グローバル資本主義の進展にともない大学授業料の有料化がバイエルン州、バーデン・ヴェルテンベルク州、ザクセン・アンハルト州・ザクセン州で2006年より開始され、それを手始めに全ての州で有料化に向けて動き出していたが、キリスト教民主同盟が敗北した全ての州選挙で大学授業料導入が否定され、2015年には再び幼稚園から大学、そして職業学校いたるまでの無料教育を取り戻したのであった。

そのようにドイツでグローバル資本主義が克服できたのは、戦後行政訴訟のハードルを限りなく低くすることで、戦前の無謬神話の行政に責任を求め、官僚支配から官僚奉仕転じさせ、国民一人一人の幸せ(万人の幸せ)を追求してきたからに他ならない。

すなわち民主主義の理念に従い、審議会やあらゆる専門家会議の委員を国民、もしくは州民の選挙での各政党の得票数に比例して選出し、ガラス張りに開いてきたからである。

しかも戦う民主主義を表明する2つの公共放送に加えて、市民のシンクタンクとも言うべきベルリン経済研究所など様々な分野の機関が公正な情報を提供することで、絶えず国民議論を喚起し、ドイツ市民の間に倫理的民主主義を育成して来たからだと言えよう。

 

 何故世界では、コロナ危機でもグローバル資本主義が激化するのか?

 

 コロナ危機でグローバル経済にブレーキがかかり、世界の成長率が大きくマイナスに転ずるなかで(2020年4月~6月GDP ユーロ -39.4%、米国-31.7%、日本-28.1%)、ITの4つの巨大企業GAFA(グーグル、アップル、フェースブック、アマゾン)の2020年4月~6月純利益は合わせて日本円で3兆円にも上り、益々富の集中が加速されている(9月27日NHKスペシャルパンデミック 激動の世界3 ▽岐路に立つグローバル資本主義』で放送)。

さらに10月1日に放送されたNHKクローズアップ現代+コロナ禍なのになぜ購入? 追跡!都心の不動産売買」では、世界の巨大投機マネーがコロナ危機が欧米に比べ軽傷な日本の東京都心に集中し、その影響で都心湾岸エリアの築13年の2LDKが分譲価格4500万円から8100万円へと高騰させていた(注2)。

それはまさにギリシャ危機などでも見られたように、危機を利用して肥大化して行くグローバル資本主義の正体であり、コロナ危機でも投機を益々肥大化させて行く。

すなわちグローバル資本主義の絶えざる発展とは、弱肉強食の競争社会を激化させて行くことに他ならないからである。

 

何故コロナ危機の今、ベーシックインカムが必要なのか?

 

コロナ禍で日本が欧米に比較してパンデミックが軽微であることから、世界の巨大投機マネーが東京都心に集中し、100億円規模の不動産物件がターゲットとなり、その売買によって巨額の富を得る人がいる(注2)。

その反面、コロナ禍で収入減少によってマイホームローンが払えなくなり、売却せざるを得ない人たちが増えている(注3)。

さらに悲惨なのは職を失った人たちで、居場所を失い車中泊を余儀なくされている(注4)。

そのような過酷な人たちにも、行政は様々な理由を付けて緊急には対応しない。

まさに困窮者の命を見捨てる、非情な社会と言っても過言ではない。

そのような非常な社会では、多くの市民が困窮者を見捨てない社会を希求しても、競争原理最優先の社会ではその実現は難しい。

競争原理優先の新自由主義の生みの親ミルトン・フリードマンさえ、そのような社会では負の所得税ベーシックインカム)が必要であると提唱している。

ベーシックインカムが条件なしであることが求められるのは、膨大な行政の査定作業なしで誰一人困窮者を見捨てないことを可能にするからである。

確かに裕福者には必要でないお金であるが、裕福者がたとえ申請して受け取ったとしても、どのみち課税で同じことであり、それは反対理由にならない筈だ。

一人一人の最低限の生活を保障するベーシックインカム導入は、誰一人困窮者を見捨てない社会を実現するだけでなく、競争原理支配のぎすぎすした社会を和らげ、誰もが幸せになる社会創造のチャンスを生み出す。

何故なら大部分の人の職業は、必ずしもやりたい仕事や社会貢献として使命感の持てる仕事ではなく、暮らしに必要なお金を稼ぐためであり、ベーシックインカムが実現すれば仕事の選択でも大きな変化をもたらすからである。

確かに財源は莫大であるが、現在年間120兆円を超える生活保障費を土台にして考えれば(もし全てを充てることができれば、全ての国民一人一人に毎月8万円を支払うベーシックインカムが実現する)、決して難しいものではない。

実際国民一人一人が暮らしに困らなければ、介護や看取りも昔のように家庭へと移行し、医療なども原則利用者負担が可能となり、行政や仲介を必要としない、身内や市民ボランティアで助け合う社会への転換チャンスにもなろう。

本来ならば人間の労働が少なくなる現代社会は豊かな社会であり、ベックが「大量失業と貧困は、敗北ではなく、現代の労働社会の勝利の表明です。何故なら仕事は生産力が益々高まるため、何倍もの成果達成の仕事さえ、益々人間を必要としなくなっているからです。(ベーシックインカムで)貧困がなくなることは、歴史的に長く信頼を失ってきた完全雇用哲学の裏面です」と言うように、ベーシックインカムの導入は人類の勝利を歓喜する時代の始まりである。

すなわちベーシックインカムが実現すれば、ベックの強調する「より良い善を為す生き方を可能にする」だけでなく、社会全体がより良い善を為す時代の始まりでもある。

 

 (注2)コロナ禍なのになぜ購入? 追跡!都心の不動産売買(クローズアップ現代+10月1日)

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4465/

 

(注3)まさか、家を失うとは… ~広がる 住居喪失クライシス~(クローズアップ現代+6月3日)

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4424/index.html

 

(注4)“行き場がない”すぐそばにいる『Aさん』の危機(クローズアップ現代+6月12日)

https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/188/index.html

“新たな日常”取り残される女性たち(クローズアップ現代+6月9日)

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4426/index.html

 

(400)救済なき世界”をそれでも生きる(22)・ベックのリスク社会6・世界市民主義の要請

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ウルリッヒ・ベックの最終回の議論では、リスク社会が生み出した危機が益々拡がっており、人々は危機故に国家の殻に閉じこもり、国家民族主義に縋ろうする話から始る。

それは後退反応であり、益々危機を拡げ、最終的に破局(世界戦争)を迎えるとベックは訴えている。

しかし新チューリヒ新聞(NZZ)のジャーナリストが、「それは、私たちがその危険性があり、危険性が世界中に巨大となり、最終的に社会をこの方向に強い、世界を強いると言うことでしょうか?」と聞くと、ベックは一転して、そのような危機は世界市民主義の要請でもあり、希望を叶える過程でもあると説いている。

もっとも2009年のこの時点では、金融危機があるものの差し迫った緊迫感はなかった。

しかし現在のコロナ危機では、世界が協働し、連帯して取組まないと、最早人類の未来がないことが見えて来ている。

何故なら貧困者を放置すれば、既に感染者が3100万人を超えて爆発的に拡がっている世界が実証しているように、コロナ危機が長期化し、世界の経済が破綻していくだけでなく、世界の人々の暮らしが破綻するからである(今後出回るワクチンも、言われているように副作用があり、免疫も短期的である可能性が高いからでもある)。

そのような“危機が世界に巨大化”していくことを、ベックは希望であると断言している。

誰が見ても危機が“世界に巨大化”することは絶望であり、本来なら絶望を回避する対処法を述べるのが筋である。

それにもかかわらず希望と断言するのは、ベックが絶えずポジティブであったからというより、進歩を追求して来た近代が必然的に絶望的危機に陥り、その絶望なくしては変われないというネガティブな認識があるからだ。

既にベックは1997年に世に出した『Was ist Globalisierung?: Irrtümer des Globalismus – Antworten auf Globalisierung 』で(注1)、「グローバル化」によって世界社会が形成され、今まで制御されてきた資本 主義の活動力を拘束から解き放れ、利益優先のため労働削減によって格差が増大して行くが、国民国家は対処できないことからコスモポリタニズム(世界市民主義)の要請を訴えている。

すなわちそれは、世界国家や世界政府と言った単一的統合ではなく、国民国家及び世界市民が超国家的に連帯して生まれる統合である。

しかもそのような世界市民社会は、グローバル化世界市民社会を創り出すための過程であり、「この過程はトランスナ ショナルな社会的結節点と社会的空間を作り出し、ローカルな文化の価値を引き上げる(31ページ)」と述べているように、グローバル化がローカル化を輝かせる協奏的「グローカル化」した世界社会でもある。

またそのような世界市民社会は、カントが『永遠平和のために』で述べた、民主主義の世界市民社会であり、国民国家のさまざまな(政治的および社会的)諸権利を各国の内部に積みあげて行くことで、創り出される世界市民の権利を保障する世界社会であると述べている。

それはカントの時代も、ベックの時代も、理想郷に過ぎなかったが、現在のコロナ危機が何時までも終息せず、さらに地球温暖化危機が猛威を振るい始めるなかでは、喫緊の課題であり、それなくしては人類の未来はないと言えよう。

実際最近の世界のコロナ感染者は、インドやアフリカなどの暮らしに困窮する人たちのなかで爆発的に拡大しており、国連は救済すべく既に動き出している。

すなわちUNDP=国連開発計画は、この7月に現在のコロナ危機拡大の主因は貧困にあるとして、132か国で貧困ラインの前後に位置する27億8000万人を対象に、生活を維持するために最低限必要な現金を給付するベーシックインカムを一定期間導入することを世界に呼びかけている。

何故ならこれらの人たちを放置すれば、コロナ感染の波は何度でも世界に押し寄せ、終息しないからである。

こうした状況こそは、ベックが現在生きていれば、必ずや世界市民社会創出のチャンスと世界に訴える状況だろう。

 

(注1)2006年日本語翻訳版 『グローバル化社会学・・グローバリズムの誤謬とグローバル化の応答』参照。

(399)救済なき世界”をそれでも生きる(21)・ベックのリスク社会(5)・コロナ危機到来の日本を考える(8)日本を危機から救う具体的方法論4.公文書改ざんが当たり前である国を変えるシナリオ

ベックのリスク社会(5) 

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ベックは決して未来に対して楽観的ではなく、発展進歩の近代という産業社会が生み出した副作用としての危機を、絶えず警鐘し続けた。

しかし絶えずポジティブで、彼が偉大なのは、危機をよりよい未来社会を創るチャンスとして捉え、近代を内省し、問い直すことで、あらゆる分野おける危機の解決方法を追求し続けたことにある。

今回の議論でも、ベックは「過去も現在も金融危機EUのチャンスです」と明言している。

それは、国家間の共同を通して危機を乗り越える仕組を創ることで、EUの理念を実現するチャンスになると言っているように聞こえて来る。

実際前回の議論でも、「リスクは別の現代への新しい道の展望を開きます」とベックが述べていたように、あらゆる分野の危機をよりよい未来を切り拓くチャンスとして捉えた彼の足跡が、益々輝いている。

具体的には原発であれば、大事故発生の可能性がある以上廃止の脱原発宣言であり、自然エネルギーへの転換であった。

また戦争やテロへの危機、そして金融危機から地球温暖化の危機に至るまで、近代の産業リスク社会が生み出したあらゆる危機の徹底した分析と対処の提言である。

すなわちこれらの危機は、最早いち国家の解決が不可能で、ヨーロッパ、そして世界の国家間の共同なくして有り得ないと明言している。

しかしそれは、今回の議論後半で述べているように、世界政府創設といった全体的で均一なものではなく、世界の各々の地域が自律性や主権性を生かし、適正な世界連邦の仕組を創り出すことである。

しかしそうしたものを創り出すものは、産業社会を支えてきた政治や経済、そして科学技術でもなく、近代の自由を得た個人化で分断された世界の市民であり、連帯を取り戻す市民運動などの“サブ政治”だと訴えている。

前回述べたように、現在のコロナ危機の救済策としてのベーシックインカムについても、1990年代末より、リスク社会の切札として推奨しており、前回載せた日刊シュピーゲル社会学ウルリッヒ・ベックは、ベーシックインカムで人類の束縛からの解放を望む」のインタビュー記事を読めば、その入れ込みようが理解できよう。

何故なら、1986年に出した『リスク社会』では貧困の克服は可能だとベックが考えていたにも関わらず、ドイツ統一による新自由主義の到来で、世界一豊かであると言われていたドイツ市民の多くが困窮し、暮らしの危機に追い込まれて行ったからである。

それ故ベックは今回の議論を主催したNZZ(新チューリヒ新聞)にも、悪魔の労働法と称されるハルツ4が施行された一年後の2006年に、「完全雇用ユートピアからの別れ」というタイトルで、「西ヨーロッパの貧困と失業に対する論争が国家に溢れており、型破りな提言で描くその論争に寄与するテーゼ」という見出しで、ベーシックインカムの必要性を説く論文を寄稿している(注1)。

その論文によれば、「・・・。大量失業と貧困は、敗北ではなく、現代の労働社会の勝利の表明です。何故なら仕事は生産力が益々高まるため、何倍もの成果達成の仕事さえ、益々人間を必要としなくなっているからです。貧困の見込みがなくなることは、歴史的に長く信頼を失ってきた完全雇用哲学の裏面です」という書き出しで、現状の新自由主義の底なしの危機のなかで驚くほど冷静に見据え、飽くまでもポジティブである。

そして新自由主義の目標達成が成功したとしても、大量失業と貧困から逃れられないのではないかと前置きして、「仕事が見つからなくても、どうすれば有意義な人生を送ることができますか?完全雇用を超えて民主主義と自由はどのようにして可能になるのでしょうか?賃金労働なしで、人々はどのようにして自覚ある市民になるのでしょうか?」と問いを投げかけ、ベーシックインカムの必要性を訴えている。

そして端的に、「思考実験としてだけでなく、現実的な政治的要求としても、毎月約700ユーロの無条件の市民所得が必要です」と、ベックの考えるベーシックインカムを提言している。

こうしたベーシックインカムは、新自由主義の生みの親であるミルトン・フリードマンさえ、「一定の収入水準を下回る人は、州から一定額を受け取ります。この負の所得税は税収によって賄われます」と、その必要性を早くも1962年に提言していると述べ、「社会には、全ての人にとって乗り越えることのできないセーフティフロアが必要です。端的言えば、完全雇用ではなく自由の創出です。これは、近い将来の本格的破裂を防ぐ唯一の方法です」と強調している。

そして最後に財源に対してもポジティブで、「ベーシックインカムが生活水準を確保する場合、社会援助、失業給付、年金制度、児童手当は必要ありません。両親も子供を持ちたいという願望を簡単に満たすことができます。完全雇用の望みが完全に失われたなかで、私たちはより良い善を為すべきです!」と結んでいる。

そこには、危機を通して意義ある人生の実現、リスク社会を切り拓く自覚ある市民を希求するベックの心像が、くっきりと見えて来る。

公文書改ざんが当たり前である国を変えるシナリオ

この数年、自衛隊南スーダン派遣、森友問題等々で政府各省庁の公文書改ざんが日常茶飯事であること見えて来たが、今回のコロナ危機では詳細な議事録(公文書)さえ作らない無責任な姿勢が露見している。

そのように責任を回避する、言わば責任を問われることのない大本営システムが網の目のように張り巡らされている国に対して、それを真正面から変えようとしても、国民の多くが支持した鳩山民主党政権に見られたように、あらゆる分野から圧力がかけられ、悪しきシステムを焼け太りさせることになりかねない。

そうしたなかでベックなら、「コロナ危機をチャンスと捉えよ」と明言するだろう。

現在のコロナ危機は、政府が国民の安全性より国の経済性優先に転換するほど、底知れない恐ろしさがある。

実際クローズアップ現代+などの報道で見るように、コロナ危機で職を失い、もしくは減給で暮らしに困窮する人たちは、現在においても溢れており、新たな毎日の感染者が東京で200人前後、全国で600人前後が続く中で、10月から平常の経済活動再開を強行すれば、恐ろしい事態への突入は必至である。

それは、日本の経済がコロナ危機で行き詰まり、このままにすれば計り知れない企業倒産が予想され、日本経済の屋台骨さえ崩れかねないからだろう。

しかしそのような強行をすれば、経済優先で強行したアメリカの感染者数648万人、インド465万人、ブラジル431万人と、現在、今も増え続けているように、取返しのつかない過ちを招くことになろう。

そのような迫りくる危機のなかでも、チャンスは選挙が近いことで、暮らしに困窮する人たちを最優先で救済する仕組を創り出すことである。

例えばその日の生活に困り果てた人には、電話で自己申請したその日から緊急支援がなされ、詳しい審査は支援開始後に為されように変え、国民の命最優先を誓うことである。

また長期的視点から、ベーシックインカム導入の国民議論を公約し、民主党政権の「事業仕分け」がガラス張りに国民に生中継されたように(但し市民の質問には開かれていなかったことから、市民が納得できるように、市民のネット参加も可能にして)、国民の大部分が納得できるよう十分な時間と、制約のない期限で議論を深めて行くことを約束することである。

現在の日本では、「働かざるもの食うべからず」と言った儒教的考え方が主流であり、例えば国民一人一人に、無条件で毎月7万円を支給するベーシックインカムは、必ずしも賛成が得られるものでないだろう(注2)。

しかし私の嫌う新自由主義の生みの親ミルトン・フリードマンさえ、一定の収入の水準を下回る人は、州から一定額を受け取る負の所得税の必要性を提言していることからも、ベックの主張の正当性が、議論を深めて行けば、最終的に国民の9割以上の賛成が得られると確信している。

そして日本を変えるシナリオとは、そのようにベーシックインカムの国民議論をガラス張りに開かれたなかで深めていくことであり、ベーシックインカムが導入される頃には、官僚支配から官僚奉仕への機運が高まって来よう。

 

(注1)ベックのNZZ新聞へのベーシックインカム寄稿

https://www.nzz.ch/articleEM5N6-1.73078

(下に翻訳した箇所を載せておきますので、参照ください)

 

(注2)ベックが述べているように、社会援助、失業給付、年金制度、児童手当が必要なくなることから、現在の日本では高額所得者への増税なくても、国民一人当たり毎月7万円の支給は可能である。

何故なら日本の社会保障費は120兆円(2017年度)で、医療費39兆円、年金55兆円、福祉その他が26兆円であり、国民一人当たり年間94万9000円が支給されてさいるからである(国民一人当たり毎月約8万円が支給されていることになるが、仲介するものや箱物造りにその多くが無駄に失われている)。

確かに医療制度は残すとしても、毎月の支給で適切な利用者負担で簡素化していけば、半分以下に縮減することは決して難しいことではない。

年金制度にしても、国民がこれまでに支払った額は当然返還されるので、大きな問題はない筈である。

国民一人一人に無条件で毎月7万円が支払われるベーシックインカムは、行政の恐ろしく無駄で膨大な仕事を殆どなくすことができ、直接ロスなく毎月支払われることから、暮らしの不安を解消するだけでなく、国民一人一人が望む意義ある仕事の自由な選択を可能にし、ベックの言う「より良い善」を為す生き方を可能にするものだと確信する。

(*但し国民がこれまでと同じ社会保障費を支払う前提であり、実際は少なくとも毎月の年金支払いがなくなることから、前回述べたように高額所得者の増税はさけられないだろう)

 

Abschied von der Utopie der Vollbeschäftigung「完全雇用ユートピアからの別れ」 

Die Debatte über Armut und Arbeitslosigkeit in Westeuropa steckt in der nationalstaatlichen Falle - so die These des folgenden Diskussionsbeitrags, der einen unkonventionellen Vorschlag skizziert. 「西ヨーロッパの貧困と失業に対する論争が国家に溢れており、型破りな提言で描くその論争に寄与するテーゼ」

・・・.Massenarbeitslosigkeit und Armut sind nicht Ausdruck von Niederlagen, sondern der Siege moderner Arbeitsgesellschaften. Weil die Arbeit immer produktiver wird, braucht man immer weniger menschliche Arbeit, um ein Vielfaches an Ergebnissen zu erzielen. Die Aussichtslosigkeit der Armut ist die Kehrseite der Vollbeschäftigungsphilosophie, die ihre Glaubwürdigkeit historisch längst verloren hat.・・・。大量失業と貧困は、敗北ではなく、現代の労働社会の勝利の表明です。何故なら仕事は生産力が益々高まるため、何倍もの成果達成の仕事さえ、益々人間を必要としなくなっているからです。貧困の見込みがなくなることは、歴史的に長く信頼を失ってきた完全雇用哲学の裏面です

・・・.Nicht nur als Gedankenexperiment, auch als realistische politische Forderung: Wir brauchen ein bedingungsloses Bürgereinkommen, etwa in Höhe von 700 Euro. 思考実験としてだけでなく、現実的な政治的要求としても、毎月約700ユーロの無条件の市民所得が必要です

・・・. Wie kann man ein sinnvolles Leben führen, auch wenn man keinen Arbeitsplatz findet? Wie werden Demokratie und Freiheit jenseits der Vollbeschäftigung möglich? Wie wird der Mensch selbstbewusster Bürger - ohne Lohnarbeit?仕事が見つからなくても、どうすれば有意義な人生を送ることができますか?完全雇用を超えて民主主義と自由はどのようにして可能になるのでしょうか?賃金労働なしで、人々はどのようにして自覚ある市民になるのでしょうか?

・・・(.Wirtschaftswissenschafter und Nobelpreisträger Milton Friedman schlug schon 1962 vor:) Wer unterhalb einer bestimmten Einkommensschwelle bleibt, erhält vom Staat einen festen Betrag. Finanziert wird diese negative Einkommenssteuer durch Steueraufkommen.一定の収入水準を下回る人は、州から一定額を受け取ります。この負の所得税は税収によって賄われます

・・・. Eine Gesellschaft braucht einen Fussboden, unter den niemand geraten darf.» Auf eine Formel gebracht: Freiheit statt Vollbeschäftigung. Nur so lässt sich verhindern, dass es demnächst so richtig knallt.社会には、全ての人にとって乗り越えることのできないセーフティフロアが必要です。端的言えば、完全雇用ではなく自由の創出です。これは、近い将来の本格的破裂を防ぐ唯一の方法です

・・・. Denn wo ein Grundeinkommen den Lebensstandard sichert, braucht man weder Sozialhilfe noch Arbeitslosengeld, kein Rentensystem oder Kindergeld - und auch nicht die unzähligen weiteren Hilfen und Subventionen, die heute nach dem Giesskannenprinzip verteilt werden. Sogar Eltern könnten sich ihren Kinderwunsch leichter erfüllen und so weiter und so fort. Also: Nie wieder Vollbeschäftigung - wir haben Besseres zu tun!それ故ベーシックインカムが生活水準を確保する場合、社会援助、失業給付、年金制度、児童手当は必要ありません。両親も子供を持ちたいという願望を簡単に満たすことができます。完全雇用の望みが完全に失われたなかで、私たちはより良い善を為すべきです! 

(398)救済なき世界”をそれでも生きる(20)・ベックのリスク社会(4)・コロナ危機到来の日本を考える(7)日本を危機から救う具体的方法論3.ベーシックインカム

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今回の議論の冒頭でも、ベックは「それ故、人は近代とは何であるか自ら問わなくてはならないでしょう」、「それは、何が近代を引付けるかという点であり、本質的に発展の認知であり、決定を可能にするものであり、宿命的にするものではありません」と、リスク社会を生み出した近代を問うている。

そこには危機を生み出した近代を、解体し、再構築するというポストモダンの概念では対処できず、あくまでも近代を内省し、問い直すことで解決して行こうというリスク社会への強い思いが感じられる。

それ故にベックは、前回述べたように福島原発事故直後のインタビューで、「私たちは、空間的、時間的、または社会的に制限することができない新しいタイプの危険に取り組んでいます。その発生確率は非常に低いとしても、どのような状況でも発生してはなりません」と断言しているのである。

しかしベックはあくまでもポジティブであり、エネルギー転換を示唆して、「リスクは別の現代への新しい道の展望も提供します」と述べている。

そのようなベックの姿勢は、今回の後半の議論でも見られ、NZZのジャーナリストが過去の大恐慌を踏まえて、現在の金融危機をネガティブに問い正すのに対し、「まさにヨーロッパとドイツでは、同時にそれが最初の議論に戻り、産業化の勝利行進基づいた温和な状況で副作用が世界中に引き起されています。それに私たちは最早いかなる解答もありません。しかしそれこそが注目すべきパラドックスです」と、ネガティブな副作用こそ未来を切り開く鍵であると、果敢に立ち向かうベックの真骨頂を感ぜずにはいられないか。

 

 日本を危機から救う具体的方法論3

ベーシックインカム

 

前回ドイツ市民のシンクタンクとも言うべきドイツ経済研究所が、コロナ禍での困窮者救済のため、ベーシックインカムの本格的な調査を開始したことを述べたが、今ではその報道が世界に拡がり、救済なき世界で福音のように現実味を帯びて来ている。

具体的にはドイツ経済研究所が主導するもので、研究のために1,500人のドイツ在住の被験者が募集され、3年間に渡り月額1200ユーロの給付金の支給を受ける120人と、残りの支給を受けない人1,380人のデータ比較が為される。

実際の給付開始は2021年春で、すべての参加者は半年に1度、雇用、時間の使用、消費者の行動、価値観、健康という6項目のアンケートに回答することが求められている。

このようなベーシックインカムの本格調査がなされるのは、近年ベックの唱えるリスク社会が益々現実化し、救済なき世界の喫緊の救済策として求められているからに他ならない。

実際リスク社会の概念を築いた社会学ウルリッヒ・ベックは、ベーシックインカムを単にリスク社会の救済策として考えているだけでなく、人類をあらゆる束縛から解放する切札と考えていた。

それは、日刊シュピーゲル紙(DER TAGESSPIEGEL)の2006年11月30日の「失業は勝利である」というタイトルで、「社会学ウルリッヒ・ベックは、ベーシックインカムで人類の束縛からの解放を望む」のインタビュー記事で詳しく述べられている(注1)。

そこでベックはベーシックインカムについて、「個人的に私は、月800ユーロが誰にとっても適切だと思います」、「失業は敗北ではなく、勝利です。生産性の向上が、人間の労働を最小限に抑え、最大の繁栄を達成することを可能にします。完全雇用の代わりにベーシックインカムの自由、–それが今日のオルタナティブです」、「最早雇用主から指図される必要がなく、公正な報酬を自分で交渉できるようになるため、多くの人が逆に働きたいと思うでしょう。彼らは基本的な収入を持っているので、危険にさらされせん」、「誰もやりたがらない「安い」仕事は必用不可欠な仕事であり、最早安い賃金で誰も引受ないので、高賃金になります。これは、人の嫌がる仕事する低賃金労働者を起業家にもする、ベーシックインカムの特殊性です」、「少数は怠惰になるでしょう。しかし彼らは既に今日そうしており、因果関係はなく、働きたい者が大多数であり、今日よりもはるかに自由かつ自己決定で行うことができるでしょう」、等々(下の記事翻訳参照)

 こうしたベックのベーシックインカムに対する忌憚なき発言からは、彼がベーシックインカムをリスク社会の切札と考えていたことが伺える。

もしベックが2015年70歳の若さで急死しなかったら、ベーシックインカム論をリスク社会の切札として大成させ、このコロナ禍で導入実現の先頭に立っていたように思える。

もっともドイツでは既に機が熟しており、この数年で支持者が倍増した緑の党、及び政党リンケは概ね導入実現に支持を示しており、来年2021年の連邦選挙の争点になることはほぼ確実視されている。

既に国民は2019年のドイツ経済研究所のアンケート調査で、国民の過半数が賛同していることから、コロナの進展次第で2021年の実現も有り得るシナリオである(注2)。

そして日本においても、今年3月までは国民全てへの10万円給付は全く予想だにされなかったことから見て、9月からコロナ進展次第で日本においてもベーシックインカム導入は有り得ないシナリオではない。

それは、極々最近、日本を危機から救う突破口になり得ると思えて来ている。

もちろん本質的に日本の危機を救うには、繰り返し述べているように、戦後のドイツに学び、司法を国民にガラス張りに開き、行政訴訟を誰もが容易く求めることができる仕組に変え、官僚支配から官僚奉仕に転換して行くことだと確信している。

しかし、福島原発事故の現実が語るように、危機を手段として焼け太りする仕組みが常套化しており、たとえ日本沈没が始まったとしても、その転換を正攻法で望むことは難しいと、極々最近の世の反応を見るにつけても感じている。

そうしたなかで、現在の経済優先のコロナ対応では年を越えない前に逆に行き詰まり、困窮した大半の国民がベーシックインカム導入を大合唱するシナリオも、私には見えて来ている。

確かにそのようなシナリオは本来の意図とは異なるものであるが、その実現によって暮らしの不安が解消され、生きがいある仕事に取り組めるようになれば、それを維持するためにも、開かれた公正な社会が求められるようになることも確かである。

またベーシックインカムで毎月最低限の暮らしを営むお金が、国民一人一人に無条件に支給されれば、生活保障審査などの膨大な仕事だけでなく、福祉、教育、環境といったお上の要の仕事を簡素化でき、殆どお上の裁量を必要とせず、自ずと官僚奉仕の時代が到来する。

財源は国民一人あたり月額7万円を支給するには、国家予算にも匹敵する100兆円の巨額な財源が必要であるが、それはベックが前述のインタビューで述べるように、「(新自由主義を放置すれば)社会の下層3分の1を絶望、犯罪、暴力に追い込みます。これはまた、何かを所有している人にとっても不快でしょう」が解決の鍵を握っている。

特に最近の日本では格差が固定化しており(日本の100万世帯が億万長者)、例えば戦後の分かち合いの時代のように、所得税最高税率を65%戻すとか、或は贅沢品への物品税復活(注3)など、国民の大部分が合意できる方法はいくらでもある筈だ!

 

(注1)

https://www.tagesspiegel.de/themen/gesundheit/arbeitslosigkeit-ist-ein-sieg/780852.html

 

(注2)

https://www.diw.de/de/diw_01.c.618749.de/publikationen/wochenberichte/2019_15_1/zustimmung_fuer_bedingungsloses_grundeinkommen_eher_bei_jung___ser_gebildeten_menschen_sowie_in_unteren_einkommensschichten.html#section1

 

(注3)89年の消費税導入で無くなった物品税は、例えば普通自動車が23%であったように、裕福者への贅沢品への課税は著しく高く、食料品などの生活必需品への課税は無かった。

 

(注1)のインタビュー記事

ベックさん、CDUも現在、無条件のベーシックインカム、すなわちすべての人のための基本的財政支援に、取り組んでいます。例えば、チューリンゲン州のディーター・アルトハウス首相は、「連帯市民手当」の導入を表明しています。それは市民に何をもたらすでしょうか?

年齢や社会情勢に関係なく、誰もが月に一定額の資金を受け取り、基本的な生活を確保するのに役立ちます。存在の単純な基本的なニーズに関するすべての懸念は、このように一気に排除されます。

この金額はいくらですか?

600から1500ユーロまで、さまざまな概念があります。個人的に私は、月800ユーロが誰にとっても適切だと思います。18歳の誕生日までは、親が子供のベーシックインカムを管理者として管理するでしょう。

この考えはユートピアではありませんか?

いいえ、現実的なもので幻想ではありません。幻想は、私たちの社会がまだ夢見ている完全雇用です。私たちは、誰もが仕事を持ってるように、再び景気の活気づくことだけを思っています。高い失業率に対する20年間の闘争の後、私たちは自分自身に疑問を持たなければなりません:

どのように私たちは仕事なしで有意義な生活を送ることができますか?

まさに、失業は敗北ではなく、勝利です。生産性の向上が、人間の労働を最小限に抑え、最大の繁栄を達成することを可能にします。完全雇用の代わりにベーシックインカムの自由、–それが今日のオルタナティブです。

ベーシックインカムが導入されると仮定して:いったい誰が特に働きたいと思うのでしょうか?

最早雇用主から指図される必要がなく、公正な報酬を自分で交渉できるようになるため、多くの人が逆に働きたいと思うでしょう。彼らは基本的な収入を持っているので、危険にさらされせん

そして、誰もやりたがらない「安い」仕事はどうでしょうか?

誰もやりたがらない「安い」仕事は必用不可欠な仕事であり、最早安い賃金で誰も引受ないので、高賃金になります。これは、人の嫌がる仕事する低賃金労働者を起業家にもする、ベーシックインカムの特殊性です

もう誰もが、働くことを望まないようになるのではないでしょうか?

確かに少数の人はテレビの前に食らい付き怠惰になるでしょう。しかし彼らは既に今日そうしており、因果関係はなく、働きたい者が大多数であり、今日よりもはるかに自由かつ自己決定で行うことができるでしょう。

ハルツIVはベーシックインカムの前段階であると考える人もいますが。

それは間違っています。ハルツのコンセプトは後ろ向きです。それは仕事の管理を拡大し、重要な問いをを回避します。すなわち自動化の巨大な可能性と人々の創造性の中で有益なシステムをどのように創造するかという問いを回避します。

それにもかかわらず、人々は仕事を持っていないと、辛いのではないでしょうか?

問題は失業ではなく、無収入であることです。すなわち仕事と収入の間のリンクです。有給の仕事はほとんど意義を持たず、経済的な安心感もありません。しかし、教育、育成、環境の分野では、多くの人々が自分の存在を確保することを強いられなければ、多くの人々が引き受けたいと思うやるべき仕事がたくさんあります。ベーシックインカムは、強制仕事から有意義な仕事へ、2倍の自由を私たちに与える筈です。

では、なぜ政治家はずっと前にこの方法を採らなかったのですか? 

私たちの存在の唯一の意味の源としての就業労働の話は、支配の道具です。私たちは、1日の時間リズム、トレーニング、思春期から成人への移行などすべてを、に向けています。個人は、主に就業労働によってその地位が決まります。だからこそ、自分自身に適応を強制するのです。この自らの強制がなくなれば、最早自由をコントロールできなくなると、多くが恐れています。仕事がなくなると、雇用社会の男たちの多くは力の基盤を失います。

政治家はそのコントロールを畏怖していますか? 

残念ながら外見上に過ぎず、政治家は、住民の大半が怠惰で不本意であると思っています。それ故ベーシックインカムは資本主義に合っています。それは巨大な経済的移動性、生産性と創造性を発揮するでしょう。生産プロセスを抑制する多くの障害が排除されます。

新自由主義思想家もそれを望んでいませんか?

ベーシックインカムの支持者の大きな連なりがあります。最近亡くなった「新自由主義の父」ミルトン・フリードマンから社会主義者アンドレ・ゴルツ、アーチリベラルなダーレンドルフ卿、または東ベルリンの社会学者ヴォルフガング・エングラーに至るまで。彼らは、資本主義が社会的になる方法を示しています。すなわち収入に依存しない仕事で、自己決定することで。

ベーシックインカムが経済に与える影響は何でしょうか?

それは経済のための正当性の新しい基礎を作成します。今日の巨大企業は、逆説的な状況に置かれています。経済行動によって、巨大企業は国家と全従業員に対して不誠実に行動しています- そしてその逆もまた同様です。経営者の愛国心を誇るには、ほとんど助けになりません。このためには、まずドイツの国家レベルで、行動する経営者を育成する必要があります。ベーシックインカムは経営者を、国民収入の雇用を安定するための強制から解き放ちます。

ベーシックインカムはどのように賄われるべきですか?

ベネディクタス・ハードープによる贅沢品への物品税モデルが理にかなっています。これは同時に資本主義を促進し、制御するものです。税金はどこで入ってくる可能性があり、商品が販売されている場所だけでありません。このようにして経営者は解き放たれ、公益に寄与しています。一般的には、多くの収入を得ている人が、直接税金を払う必要があります。

起業家ゲッツ・ヴェルナーは、物品税が資金調達のために完全に十分であるという考えに異議を唱えていますが。

私は早い段階でこれについて自ら述べたくありません。私たちは議論の始まりに過ぎません。いずれにせよ、賃金付随コストが下がる可能性があります。それが最初のステップです。

政治はベーシックインカムに対してどのように見ていますか?

緑の党自由民主党に支持の可能高いと思います、もっともFDPは驚くほど完全雇用固執していまが。社会民主党SPDは難しいでしょう。ベーシックインカムが、労働党の権力地位を危険にさらすからです。キリスト教民主同盟CDUには、カート・ビーデンコフのような幾人かの異なる賛同思想指導者がいますが、残念ながらドレスデンの連邦党大会が示したように、ベーシックインカム導入に消極的です。しかし、以前と同じ方法で(現在の新自由主義を)続ければ、社会の下層3分の1を絶望、犯罪、暴力に追い込みます。これはまた、何かを所有している人にとっても不快でしょう。

(397)救済なき世界”をそれでも生きる(19)・ベックのリスク社会(3)・コロナ危機到来の日本を考える(6)日本を危機から救う具体的方法論2

ベックのリスク社会(3)・過去の過ちから学ばない独善的日本

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今回の議論では、ベックはリスクの副作用が政治的障壁を取払い、政治的視座を与え、リスクに対処できる民主政治への転換圧力を生み出すと述べている。

実際福島原発事故直後のドイツの市民新聞「タッツ」のインタビューでベックは(注1)、「原子力産業、規制当局、政治の間の癒着は明らかです・Die Verfilzung  zwischen der Kernindustrie, den Aufsichtsbehörden und der Politik ist augenfällig. 」と民主政治の欠陥を指摘し、「優先事項は、安全性、制御性、透明性でなければなりません。私はさらに一歩進め、間違いを認める可能性に基づいていなければなりません・Die Priorität muss auf Sicherheit, Kontrollierbarkeit und Durchsichtigkeit liegen. Ich würde noch einen Schritt weiter gehen: Sie muss auf der Möglichkeit beruhen, Irrtümer einzugestehen.」と述べている。

そして福島原発事故後の世界に対して、「私たちは、空間的、時間的、または社会的に制限することができない新しいタイプの危険に取り組んでいます。その発生確率は非常に低いとしても、どのような状況でも発生してはなりません・Wir haben es mit neuartigen, weder räumlich noch zeitlich noch sozial eingrenzbaren Gefahren zu tun, deren Eintrittswahrscheinlichkeit sehr gering ist, die aber auf keinen Fall geschehen dürfen.」と明言している。

さらに原子力産業が社会の信頼を破ったことを、以下のように問い正している。

「信頼のカテゴリは、リスク評価に不可欠です。危険な未来への組織的な回避は、信頼なくしては不可能です。この信頼は、制度化された事故処理などの社会契約から生じます。しかし、原子力産業はこの社会契約を破った。これは、合理的な根拠の欠如から明らかであり、これらの大惨事について体験することは許されないという合理基盤に欠けていたことは明らかです・Die Kategorie des Vertrauens ist wesentlich für die Risikoeinschätzung. Ohne Vertrauen ist ein organisierter Umgang mit gefährlichen Zukünften gar nicht möglich. Dieses Vertrauen entsteht aus einem Gesellschaftsvertrag, wie etwa dem institutionalisierten Umgang mit Unfällen. Die Kernenergieindustrie aber hat diesen Gesellschaftsvertrag gebrochen. Das wird deutlich an der fehlenden Rationalitätsgrundlage, dass man eben keine Erfahrungen mit diesen Katastrophen machen darf.」

そして原子力の将来について、「日本の大事故は、世界中の原子力エネルギーを再考することを可能にします。それはこの可能性を強化し、代替エネルギー政策のための行動の機会を開きます。この点で、リスクは別の現代への新しい道の展望も提供します・Die Katastrophe in Japan ermöglicht es, weltweit neu über Kernenergie nachzudenken. Sie erzwingt sogar diese Möglichkeit und eröffnet Handlungschancen für eine alternative Energiepolitik. Insofern bieten Risiken auch Perspektiven für neue Wege in eine andere Moderne.」と結んでいる。

 

実際世界はこの福島原発後、日本以外の先進国は原子力エネルギーを将来のエネルギーとして取り下げ、日本からの原発輸入を決めたいた新興国も全て契約を破棄し、ベックの言う代替エネルギー自然エネルギー)推進に将来的エネルギー政策を転換したと言っても過言でない。

しかし当事国の日本は、事故調査委員会福島原発事故が人災と結論づけたにもかかわらず、原発を将来においても基幹エネルギーと位置づけ、従来通り安全性よりも早急な再稼働をこの10年追求し続けている。

そこには。過去の過ちから謙虚に学ばないだけでなく、過ちを手段として焼け太りさせる、明治以来の独善的官僚支配を感ぜずにはいられない。

 

コロナ危機到来の日本を考える(6)日本を危機から救う具体的方法論2

日本感染症学会理事長の舘田一博がこの19日学術講演で、「第二波の真っただ中にいる」と述べるように、学校などが始まる9月を前にして、迫りくる危機への不安と脅威が拡がっている。

何故ならマスク装着と3蜜回避だけでは、最早感染拡大は避けられず、このまま学校などを通常通り開始していけば、瞬く間に感染が子供たちに拡がり、家族感染で老人施設から最終的には医療機関まで機能しなくなるからである。

確かに国民の動脈とも言える経済が滞れば、コロナ危機が国家危機へと波及しかねないことは理解できるが、5月のように長期的配慮なく目先の解決を求めて全ての規制緩和を断行して行けば、今回のような第二波を招くことは想定できたことであり、現在の第二波は人災である。

もっとも経済の滞りで多くの人が暮らしに困窮していることも確かであり、緊急の救済は絶対的必要であり、そうしたことから給付対象が二転三転して、国民全体の一律10万円給付になったように思える。

これは近年言われ出したベーシックインカム(政府がすべての国民に最低限の生活費を継続的に支給する)の一種であり、富の格差が世界で益々拡がるなかで、欧米では救済解決策として議論が拡がり、日本でもこのコロナ危機で急速に拡がっている(注2)。

今回何故ベーシックインカムの話になったかと言えば、前回述べたようにドイツ市民は、単に2つの公共放送だけでなく、政治経済から暮らしに至る幅広い情報であればドイツ経済研究所(DIW)、エネルギーであればフラウンホーファーエネルギー研究所(IEE)、コロナであればロバート・コッホ研究所(RKI)などあらゆる分野に見られ、そのような情報機関を通してベーシックインカムが市民の話題になっているからである。

具体的にはドイツ経済研究所が、コロナ禍での困窮者救済のため、ベーシックインカムの本格的な調査を開始したことを報道しているからである。

ドイツ経済研究所はブログ(239)で詳しく紹介したように、福島原発事故を受けて世界の原発推進の動きが急速に衰退するなかで、地下にCO2貯蔵(CCS技術)で石炭電力利用推進の動きが活発化した。

しかしドイツ経済研究所のヒルシュハウゼン教授(ベルリン工科大学)は、過去20年間のCCS技術の研究結果報道を通して、CCS技術がフィクションであることを明らかにし、教授自らDIWのインタビュー放送で何故フィクションであるかをわかり易く説明している。

それ故少なくともドイツ市民は、CCS技術が産業界のプロパガンダと認識していた。

すなわちそれは、ドイツ市民が言わば市民のシンクタンクを通して、倫理的民主主義の原理に基づいて啓蒙され、絶えず学んでいると言えるだろう

そして今、ドイツ経済研究所が報道するのは、主にコロナパンデミックの影響と対応であり、特に私が引付けられたのは、ベーシックインカムの本格的調査開始と、ドイツでも増え続ける富豪実態と格差是正のための財産税復活の提言である。

詳しくは次回に述べようと思うが、ドイツのように日本を官僚支配から官僚奉仕に転換するためには、真理と平和を希求する人間の育成(改正前教育基本法前文)が必要であり、日本においてもドイツのような市民のためのシンクタンクを創らなければならないだろう。

 

(注1)https://taz.de/Ulrich-Beck-ueber-Atomrisiken/!5123617/

市民の寄付で成立っているので、寄付を求めて来ますが強制ではないので、取り止めで(abbrechen)で読めます。

 

(注2)コロナ禍で注目のベーシックインカム 日本でできることを考える

https://globe.asahi.com/article/13605674

コロナ危機とベーシック・インカム

http://www.jsri.or.jp/publish/review/pdf/6007/01.pdf

 

 

(396)“救済なき世界”をそれでも生きる(18)・ベックのリスク社会(2)・コロナ危機到来の日本を考える(5)日本を危機から救う具体的方法論

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今回のベックインタビューでは、近代産業社会は想定外のリスクが潜んでおり、そうした中で進歩を可能にしたのが保険原理だと述べている。

すなわちリスクが現実化した場合お金で保証して、突き進んで来たのである。

それ故ベックは、専門家が安全とお墨付きを与えたとしても懐疑的だと明言している。

実際このインタビューの2年も経ない内に、福島原発事故が起き、その際ベックは「原子力事故では被害が大き過ぎ、引き受ける保険会社もないことから保険原理は適用できず、その損害を国や市民が負担するなら、恐ろしく不当だ」と、ドイツメディアだけでなく世界に発信している。

それ故倫理委員会では、ベックは原子力事故の不当性を訴え、「原子力のような恐ろしい技術は廃棄し、自然エネルギーに転換すべきである」と明言している。

次回は福島原発事故直後のベックのメディアへの、ドイツでの具体的発言も載せ、日本がその後も原発を再稼働することがいかにリスクがあり、許されないことであるかも検証したい。

コロナ危機到来の日本を考える(5)日本を危機から救う具体的方法論

コロナ危機は最悪のシナリオで内外で増え続けており、政府の無策と怠惰には、誰もが呆れているのではないだろうか?

前回も述べたように公共放送NHKから、まるで集団自衛権や現代の治安維持法共謀罪)の際の反動であるかのように、森友問題以降は現在の政権批判が溢れ出しており、NHK政治マガジンを見れば明らかである。

それは公文書改ざんが日常茶飯事となり、このまま憲法改正によって公然と軍事大国への道が採られて行けば、戦前の過ちを繰り返すという危機感からでもある。

そうした危機感は、これまで安倍政権支持が圧倒的に不支持を上回って来たが、人災と言うべきコロナ第2波が増大するに連れて、逆に不支持が支持を大きく上回るようになって来ている。

しかし国民の支持政党は、野党が無政府状態と非難しても、圧倒的与党支持は揺るがない。

何故なら、あれだけ国民から支持を受けた民主党政権が、既得権益圧力により自ら崩れ、公約放棄となし崩し的消費税値上げによって、その反動とも言うべき安倍政権を誕生させた罪は余りに重いからである。

労働側は、3つに分かれた立憲民主党、国民民主党社会民主党を一つにまとめ、政権転換の受け皿をつくろうとしているが、そのような統一野党政党が国民にどのようなバラ色の公約を並べても、国民は現在のコロナ危機の時代に一度裏切られた不安定な政権を望むとは思えない。

唯一出来ることは、公正で、国民にガラス張りに開かれた政権を誕生させることだ。

すなわち野党の統一ができることは、国会(立法の中心)から官僚(行政の担い手)を排除し、国会を国民と共に政治を学ぶ場に変えるくらいの覚悟で、国民に謙虚に仕える心の転換が必要である。

もっとも専門家の著しく少ない現在の政治家では、官僚の答弁書なしには議会運営さえできないことから、これまでの国会運営では不可能である。

しかし各省庁(行政)に対応した専門委員会を立ち上げ、委員は各政党の得票率に応じた各政党推薦の専門家で決めて行くことは可能である。

例えば政権誕生の際の選挙で、仮に統一民主党40%、共産党10%、その他の政権党5%、自民党30%、維新10%、公明5%であれば、20人の専門家委員は統一民主党8人、共産党2名、政権その他1名、自民党6名、維新2名、公明1名である。

そのような専門家委員会は、コロナ対応や財政問題から原発廃止のエネルギー問題、さらに行政訴訟問題や司法改革、そして各省庁に対応して約30ほどの専門家委員会がつくられ、国民にガラス張りに開かれたなかで決議できるだろう。

民主党政権の「事業仕分け」は決定機関でもないにも関わらず、最初国民の殆どを政治に巻き込んで行ったことも事実であり、各専門家委員会が各項目での実質的決定機関として、生中継と録画で国民にガラス張りに開かれれば、国民の誰もが再び政治に引き込まれよう。

もちろん専門家会議は民主的議論で営まれ、委員も専門家ゆえに論証を尊重することから、自ずと少数意見も尊重されよう。

例えば行政訴訟問題委員会では、現在の行政訴訟は戦前の役人の無謬神話を継続していることから、議論を進めて行けば必ず不当性が明らかにされ、日本でもドイツのように行政処分の取消を求める者が、職権探知主義・職権証拠調べ採用で(口頭やメモの殴り書きでも訴えの提起とされる)容易に提起でき、訴訟要件に関しても原告適格や処分性といったあまりに高い壁を取り払い、裁判においても裁判所が行政から全ての資料を提出させ、審理開始前に主任裁判官の調査が為されているというやり方に改められる筈である。

そのようなやり方に変われば行政の過ちは正され、日本もドイツのように官僚支配から官僚奉仕に刷新され、公文書改ざんや情報公開での黒塗り報告書もなくなるだろう。

そして日本の政治が実質的に30程の専門家委員会の会議に委ねられるようになれば、政治家の仕事は、先ず政党の各専門家委員会の推薦専門家委員の選定業務、そして各委員会の委員とコンセンサス仲介業務、国会で各委員会の政党の対応報告と形式的決議業務などに単純化される。

そのように業務がガラス張りになれば、国会開催の期日からしても現在のような平均年収が1億円を超える( 

(27)検証シリーズ3 何故日本の国会議員報酬はドイツの連邦議員よりも10倍以上も高いのか。 - ドイツから学ぼう  )ことは自ずと是正され、民間平均年収に近づき、政治家世襲制が問題化される悪しき慣行もなくなろう。

しかもそのような報酬では国民への奉仕精神なくしては務まらないことから、また政治が公正さ追求で利権を求めることができなくなることから、選挙は自ずとドイツのように小選挙区比例代表併用制へと変化していくだろう。

このようにして日本の政治は、国民に仕える官僚、政治家、専門家によって、国民のための公正でガラス張りに開かれた民主政治の筋道が創られよう。

しかしだからと言って、政治は実質的に専門家に任せればよいというものではない。

国民の問題視する各専門家委員会の議論は、たんにガラス張りに開かれるだけではなく、公共放送が国民に判断材料を提供する以外に、市民のための各分野の公共シンクタウンが創られ、市民側に立った正しい情報が提供されなければならない。

ドイツでは公共放送として第一ドイツテレビ放送(ARD)と第二ドイツテレビ放送(ZDF)公正さを競って提供しており、市民のための公共シンクタンクとして、政治経済から暮らしに至る幅広い情報はドイツ経済研究所(DIW)、エネルギーであればフラウンホーファーエネルギー研究所(IEE)、コロナであればロバート・コッホ研究所(RKI)などあらゆる分野に見られ、日々ネットや放送で公正な情報を提供している(次回に具体的に述べたい)。

しかもその情報を市民がどのように受止めているかは、公共放送が絶えず毎週世論調査を実施しているだけでなく、幾つもの世論調査機関が機能していることから、その世論調査はすぐさま政治に反映し、ドイツでは市民参加の倫理的民主主義が機能していると言っても過言ではない。

(395)“救済なき世界”をそれでも生きる(17)・ベックのリスク社会(1)・コロナ危機到来の日本を考える(4)現在の危機を克服する唯一の術

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上に載せた動画は2009年5月30日にスイスの主要メディア新チューリヒ新聞(NZZ)が放映した番組で、リスク社会の発案者であり、世界的権威であるウルリッヒ・ベックが質問に答えて、わかり易くリスク社会を述べた貴重なフィルムである。

ベックは2015年1月1日心筋梗塞で70歳で急死したことから、フィルムを世に出すことをメディアの使命と感じたかは定かでないが、NZZが2016年に世界に公開したフイルムである。

この番組の冒頭でも述べられているが、2009年の放送時は豚インフルエンザが世界を襲い、一時的に脅威のパンデミック襲来と世界を震撼させた直後である。

何故なら、2003年のコウモリ由来のサーズコロナウィルス襲来以来ドイツやスイスでは、動物由来のウイルス感染症パンデミックが警戒されていたからであり、当時ベルリンに暮らしていた私自身も、日々の豚インフルエンザ報道の異常さには驚いたものである。

先ずこの番組でなされたのは、NZZ質問者の「現代はリスク増大に反して死者数は減っている」という指摘に、ベックは「量的大きさではなく、リスク概念を見るべきだ」と主張している。

そしてリスク概念については、「それは人を引付けるもので、崩壊ではなく、言わばその際生じ死者数ではなく、リスクが本質的に知らない未来を語り、未来の予見を求めるものでなくてはならない」と述べている。

またリスク段階を3段階に分け、第一段階はリスクが自然や神々によって決められていた時代で、その原因は人に属していないとしている。

第2段階は近代であり、産業社会がリスクを造り出しており、その原因は人にあるとしている。

そして第3段階は最先端の現代であり、リスク予見は正確に把握できないと述べている。

「それではリスク概念は未来の懸念に過ぎないのではないか」という質問者の指摘に対して、「未来の懸念ではなく備えである」と明言している。

そして今回の最後では、大きなリスクは経済と技術の進歩と平和維持(抑止力としての核武装や平和を守る軍備拡張)から生じており、福祉国家格差是正)で法治国家(民主主義の法順守)を基盤とするヨーロッパの国では、二つの基盤がリスク回避を提供してきたと述べている。

しかしそのような基盤のない韓国、日本、中国は、リスクが高いと警鐘している。

実際この約2年後日本で福島原発事故が起きると、ベックはメルケルの招集した倫理委員会の中心メンバーとして働き、ドイツの脱原発を実現させている。

日本は法治国家であり、富の再配分で生活保護を実施して福祉国家に近いと思われる人もあるかもしれないが、ドイツから見れば経済至上主義で、憲法の重要な法は理念にしか過ぎず、格差拡大を容認する国である。

それ故福島原発事故の際日本の報道を全く信用せず、炉心爆発のリスクを予見して、東京の大使館職員などをすぐさま関西へ避難させたのであった。

 

コロナ危機到来の日本を考える(4)現在の危機を克服する唯一の術

日本が如何に建前だけの官僚支配の国であるかは、報道に関わる者なら明らかである。

2020年の世界報道自由度ランキングでは66位で、右派政権が議会多数決独裁で民主的憲法裁判所と公共放送を公然と政府支配し、多くのジャーナリストが独裁国家と呼ぶポーランドさえ62位であり、64位アルゼンチン、65位ギリシャに次いでおり、報道の自由度が著しく低く、とても民主国家とは言えない。

何故そのように報道の自由度が低いかは、長年外国記者団が指摘してきたように、他の国には例がない報道の仕組み「記者クラブ」があり、原則的に外国記者団やフリージャーナリスト、政府報道をそのまま代弁しないメディアが排除されるからである。

日本歴20年以上の「ニューヨークタイムズ」東京支局長マーティン・ファクラーが、自らの福島原発事故事故直後の現地取材を通して、世に出した『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書 2012年)では、現場の悪しき実態を情報寡占組織と指摘して、悪しき「記者クラブ」組織を抉り出している。

筆者は「記者クラブ」を“官僚制度の番犬”だと書き、そのようにさせている仕組は明治政府誕生以来続くものだと述べている。

すなわち「記者クラブ」創設は1890年で、明治政府の支配の道具としてつくられ、「“権力の犬”であることが、明治以来の伝統的な日本のジャーナリズムの姿なのである」と厳しく指摘している。

そして最後の言及で、ジャーナリズムの使命である「権力監視」という権力への正しい批判ができていないと断言している。

そのような断言が本当であるかどうかは、7月15日から始まっている“森友問題”裁判での報道を見れば一目瞭然である。

新聞各紙はその裁判を“森友”国賠訴訟と報じて、前日もしくは当日に一回だけ苦心して大きく伝えているが、記者クラブの足枷から、「権力監視」という視点では余りにも腰が引け過ぎている。

これが医師2人が筋萎縮性側索硬化症(ALS)女性患者の嘱託殺人では全く異なり、新聞各紙は事件を追求している。

すなわち日々あらゆる関係者含めて徹底取材し、競って真相を追求している。

しかし政府の関与する事件に対しては、横並びで、踏み込んで真相を追求する姿勢が見られない。

例えば朝日新聞では、裁判前日の14日朝刊1面で“改ざん「僕がやらされた」”の大見出しで大きく扱い、改ざんを強いられ自殺した財務省職員赤城俊夫さんの無念、そして31面“「私はひかない」実名の覚悟“の妻雅子さんの無念を通して真相に迫ろうとしているが、真相に迫る使命からは余りにも腰が引けている。

しかもそれ以後は、27日現在に至るまで殆ど“森友”国賠訴訟記事さえなく、辛うじて16日の社説「“森友”国賠訴訟 政権に良心はあるか」で書いているが、300か所公文書を改ざんした政権に良心を何度問い直しても無駄である。

その点コロナで政権の足枷が弱まっていることもあり、NHKの15日クローズアップ現代+「“森友問題” 裁判はじまる~疑問は明らかになるのか~」は、驚くほど真相に迫ろうとしていた(注1)。

しかしNHKもつい最近まで「政治部の報道は、安倍政権直属機関の報道である」と批判されるまでに変質していたことも確かで、私自身もブログ(206)“NHKは国家放送になるのか”で、番組を検証したほど変質していた。

それがコロナを契機に、公共放送の使命を果たしていると感じられる番組が多々見られるようになった。

しかし「記者クラブ」の重い足枷で縛られた新聞各紙の報道は、逆にコロナを契機に余りにも酷い。

もっともそうした足枷に縛られている記者たちも無念であり、福島原発事故7年後に日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)が行った「3つの原発事故調・元委員長らにインタビュー」では、その無念が滲み出ていた(注2)。

特にそれは国会事故調査委員会の元委員長黒川清(医学博士、東大名誉教授)のインタビューでは、その思いが強く感じられた。

国会事故調査委員会の2012年7月5日提出された報告書では、事故を「人 災」と断言し、その根本的な原因は政・官・財の一体化から生まれた「規制の 虜」にあるとして、国民の命を守ることより“原子力ムラ ”の利益を優先して安全対策を先送りにしたと明言している。

そして二度と事故を起こさないために、「規制 当局に対する監視」「危機管理態勢の見直し」 「被災住民への対応」「電気事業者の監視」 「新しい規制機関のあり方」「法規制の見直 し」「独立調査委員会の活用」という7項目の提言をした。

しかし7年後、何も変わらない体制、どれ一つ実現されない提言というなかで何も書けない記者たちは、画期的報告書作成を指導した黒川元委員長の意見に期待したのである。

すなわち記者クラブの重い足枷ゆえに、黒川元委員長の意見として書くことで、そのような現状を突破しようとした。

その様な思いは、以下に見るように記者団の最初の質問から滲み出していた。

(記者団の質問)国会事故調の報告書は原発事故の原因 を「規制の虜」とし、人災であると記しま した。こうした指摘は国の政策に反映されたと思いますか。

(黒川)それはジャーナリズムや報道関係者が取り組むべき問題ではないか。国会に頼まれた私の役割は、両院議長に報告書を提出したところで終わりだ。その後の動きを 監視、国民と共有するのは皆さんの役目だろう。・・・

また「権力を監視するのは誰か」という項目で

(記者団)国会による継続監視は法律で縛らない限り、日本ではどうも駄目だろうというお考えのようですが。

(黒川)皆さんはどれくらい知っていますか。 国会議員は、皆さん多くの案件を抱えている。それに対して、どれくらいの能力と理解力があって仕事しているのか。能力のある人もいるが、国民が選挙するときに誰がそれを問うんですか? それはメディアの責任です。ジャーナリズムは、権力に対するウォッチドッグです。そこがあまり機能 していない。それが一番の問題だ。 政府は、何か問題があっても、それは国民が選んだ国会議員の先生が言っていることだからと、必ず霞が関は言い訳をします。 記者クラブなど、メディアをなめているんです。メディアがきちんと伝えないと、有権者にはわからない。 国会事故調では、委員会の議事もすべて公開してきたのに、記者会見では「委員会 の意見は‥」と何回も質問された。記者が 自分で見たとおりに書けばいいのに、無意識のうちに「責任を負いたくない」という 気持ちが働いている。私の口から言わせて、報告としたいわけだ。

 

このように日本のジャーナリズムは権力に対して何も書けず、結果的に権力の代弁者として利用されており、そうした状況で権力側に良心を求めることで、国民そして日本を変えようと努力していることは理解できるとしても、それでは真相が国民に全く届かないのである。

もっともそのようにさせているのは明治以来の官僚支配であり、そこを崩すことなしには何も変わらない。

それを崩す唯一の術は、このブログ繰り返し述べているように戦後のドイツに学び、司法を国民にガラス張りに開き、行政訴訟を誰もが容易く求めることができる仕組に変え、官僚支配から官僚奉仕に転換して行くことである。

それなしには何も変わらず、唯々壊れゆく日本を傍観するしかないだろう。

 

(注1)https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4442/index.html

NHK7月15日放送『“森友問題” 裁判はじまる~疑問は明らかになるのか~』

 

(注2)https://jastj.jp/valid/valid_06/top/

3人の元事故調委員長インタビューが映像と記事で載せられており、国民一人一人に真相が伝わっていれば、日本も変わったろうにと思えてくる。