(33)検証シリーズ5、社会、そして政治に理想を希求する教育を求めて。第4回日本の教育後編『監視社会と克服への道』。

2006年には、新自由主義による教育改革の総括とも言うべき教育基本法案「改正」が安倍政権の下で閣議決定され、新しい教育基本法が12月22日に施行された。

改正前の教育基本法の第一条の教育目的では、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」が、改正後は「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」に変化した。
すなわち「個人の価値をたつとび」「自主的精神に充ちた」が削除され、「必要な資質を備えた」が挿入された。
これは、「個人の価値をたつとび、自主的精神に充ちた健全な市民の育成」から「必要な資質を備えた国家に従順な国民の育成」への転換である。(資料参照 http://www.kyokiren.net/_recture/date060428.pdf
 
第二条の教育の目標では、改正前では敢えて愛国心などには言及されていなかったが、改正後は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という目標が新しく条文化され、戦前のように愛国心が敢えて求められた。 

改正前の第六条の教員規程では、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。
このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」が改正後は、「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」に変化した。
すなわち「全体の奉仕者であって」が削除され、「絶えず研究と修養に励み」が挿入されたことで、「国民の望む全体の奉仕者としての教師」から「絶えず研究と修養が課せられる国家の望む教員」へと変化した。 

また改正後の教育基本法では、第十条に家庭教育の項目と第十三条の学校、家庭及び住民等の相互の連携協力が新設され、第十条では、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」、第十三条では、「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と規定された。
 確かに家庭教育や地域教育は重要であるが、現場の学校や教師が創意工夫で取り組むべきものであり、このように条文化されれば、国家や行政の家庭や地域への介入となる。
特に有事の際は、学校、家庭、地域の相互監視システムとして機能し、翼賛社会を形成することになる。 

さらに改正前の第十条の教育行政では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」が、改正後の第一六条では「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」に変化した。
 教育行政において敢えて、「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」を削除し、不当な支配を判断するのは教育行政としたことは、戦前の教育行政の教育内容への介入を認めたことに他ならない。

事実、前の文部科学大臣河村建夫は「平成の教育勅語を念頭において議論したい」と発言している。(読売新聞1999年8月11日)
 このように教育の国家支配管理が強力に求められた理由は、現在の世界を支配する新自由主義が、弱肉強食の競争を求め、戦前のファシズムが復活しつつあるからだ。
 それを裏ずけるように、既に盗聴法(1998年)、住民基本台帳ネットワーク(2002年)、有事法(2003年)、個人情報保護法(2005年)など、国民の自由を奪う国家支配管理の強化が整って行った。
 そして国家支配管理の完成が、戦後の教育基本法の改正だった。
 すなわち教育基本法の改正は、ジョージオーエルの小説『1984年』におけるような監視社会への移行を、有事に備えて完成させたと言えよう。
 ジョージオーエルの『1984年』は、新自由主義の辿り着く監視社会を先取りしており、新自由主義の「強者が富めば、弱者へ雫が滴り落ちる」、「(国民へのサービスを高めるために)民間で出来るものはすべて民営化」、そして「原発は安くて、クリーンで安全」といった端的なスローガンは、全体主義帝国オセアニアのエセスローガンと瓜二つである。
 すなわち全体主義帝国オセアニアの三つのスローガンは、「戦争は平和である」、「自由は屈従である」、「無知は力である」からなっている。
そして政府は、オセアニアの平和のために半永久的に戦争を継続する平和省、食料や物資を絶えず欠乏状態にして配給と統制を行う豊富省、プロパガンダに携わり、党の言う事を絶対的真理とするために、歴史的事実も改ざんする真理省、そして反体制分子を尋問と拷問で、最終的に党を愛させるようにした後、処刑を行う愛情省から成り立っている。 
それはまさに、現在の新自由主義社会へのジョージオーエルからの皮肉に聞こえる。

このよう日本の教育が蟻の隙間さえなく新自由主義に支配されているなかでは、正攻法で戦後の「教育基本法」の復活を求めても、政治権力と財力を握る新自由主義に太刀打ちすることは不可能だろう。
もちろん理念としての教育の枠組みを、絶えず求めていくことは必要であるが。
したがって可能性があることから実行に移していくことが重要である。
先ずは文部科学省からの大学への天下りを止めさせることが第一歩であろう。
私が4年前から住民票を復帰させた名古屋市の河村市長は、議員報酬を半減させただけでなく、市の外郭機関の天下りを一掃し、ボランティアなら採用すると言明したことは快挙であった。
もっともこうした勇気ある政治家の行動を、議員も含めて既得権益者は、「やらせメール」のような巧妙な手口でマスメディアも巻き込み、専制主義者のレッテルを貼り葬ろうとした。
しかしそのような権力、財力、そしてマスメディア支配にもかかわらず、河村市長は勝利した。
それは民意が議員報酬が余りにも高いことに怒りを感じていることと、官僚の天下りによって中央支配されることにレッドカードを出しているからに他ならない。
このような民意は、名古屋だけでなく、大阪、新潟などあらゆる地域で湧き上がってきていると言っても過言ではない。
官僚の大学への天下りを止めさせる意義は、教育の中央支配を打破するだけでなく、教育を地域に取り戻す第一歩だからである。
現在の地域利益を求める地域主権の流れにのれば、教育の中央支配を締め出し、地域独自の民主教育を創り出すことも決して難しいことではない。
その場合は、ひたすら地域利益を求めていけば、新自由主義側も反論できないからだ。
例えば地域の奨学金を年間国公立大学授業料の2倍ほどとして、地域で10年間就業する者に対しては、返済免除とすれば地域に若者が集まる筈である。
日本の大学の授業料は世界一高く、国公立大学さえ年間60万円近くするのは、北欧やドイツの無料教育を知る者には考えられないことであり、教育の機会均等に違反しており、そのような地域独自の取り組みには反対できないからだ。
そのようにすれば地域に人材が集い、地域の大学は地域産業振興の中核ともなり得よう。
現在のようなハローワークを通して、中央のプログラムで月10万円も支払って古びた資格の職業教育をしても、それ自体が利権に絡め取られており、お金を溝に捨てるようなものである。
本質的には地域の大学が地域産業の司令室となって、地域に相応しい産業を(例えば太陽光発電風力発電、そして天然ガスの熱併給発電)を振興するなかで、産業の担い手を育成していくことが重要であろう。

また地域では福祉財源が現在でも枯渇して来ており、これからは益々枯渇し、住民サービスが過激に切り捨てられていくことは目に見えている。
したがって大学入学の選別で、1年間の福祉関係での研修ワーク(生活支給付)に、きわめて有利なインセンティブを与えるように変えていけば、少ない費用で行き届いたサービスを提供することも可能である。
例えばドイツでは、これまで徴兵制義務のある若者の8割が、すなわち20万人を超える若者が福祉関係などの代替役務を選択し、重度の障害者の住まいで1年間長期滞在して、トイレのお世話から会社などへの送迎をしてきた。
そのような弱者への手厚い福祉サービスで、ドイツでは重度の障害者の人でも自立した暮らしが可能だ。
まさにそれが、ドイツの素晴らしい豊かさだ。
(但しドイツの徴兵制は今年7月に、既に事実上徴兵の意味を失っていたことから、また軍備予算の削減とエリート教育の障害となるという産業側の要請で廃止された。当局は若者の福祉への寄与はボランティアで継続できるとしているが、新自由主義教育で育つドイツの若者も日本と同じように実利的で、それを満たすインセンティブなくしては難しいだろう。)
具体的には、3割ほどの加点方式にすれば、現在のように数学が高得点であるから医学部に進学できるとか、高得点ゆえ東大の法科入学で官僚になるという悪しき教育制度も、そのような安易な動機では弱者の長期滞在によるお世話は難しいことから、自ずと是正されていくだろう。

このような地域利益に密着した大学の変革を一歩一歩実践していくなかでは、教育の本質を求めていくことも可能である。
現在の子供たちは、学ぶことへの楽しさや喜びが全く失われているだけでなく、義務的ゆえの関心のなさ、意欲のなさは明白な事実である。
そうした関心や意欲を喚起するため文部科学省でさえ、北欧諸国の国際競争力を高めるグループ授業に着目しており、打開策として取り組もうとしている。
幸いこのグループ授業には、新自由主義支配側にとって死角がある。
すなわち教育指導マニュアルだけでは不十分で、教師の現場での創意工夫が求められることから、教師が本来抱いている理想を発揮することも可能である。
既に第二回のドイツのイェーナプラン学校で述べたように、自主性が尊重され、自由に相互の学び合いと教え合いによって楽しく学ぶことは、関心や意欲を喚起するだけでなく、生徒間の格差を小さくし連帯感を育むこともできる。
そうしたグループ授業のなかでは、どのように新自由主義支配側が国家と産業に奉仕する従順な生徒を育成しようとしても、自ずと理想を求める意見が生徒自身のなかから発せられ、社会、そして政治に理想を希求する教育が沸き上がってくるだろう。