(287)万人の幸せを求める社会 第4回万人の幸せを求める「社会的市場経済」は世界を救えるのか?・「万人の不幸せ」を招くアベノミクス

ドイツは、戦前の自由な市場競争が不公正な社会(格差拡大と失業)へと導き、個人の自由を奪うナチズムの統制経済を招いたという反省から、このフィルムが述べるように経済大臣エアハルトが社会的市場経済を導入しました。
社会的市場経済とは、需要と供給で成り立つ市場経済に依っていますが、市場経済だけでは社会的公正が担保できないことから、市場競争の弱者を社会政策によって積極的に保護する「万人の幸せ」を目標とする経済です。
すなわち自由な市場経済では強者の勝利は明らかなことから、様々な規制(ルール)や積極的な支援によって、市民弱者から中小企業や過疎地域と言った弱者にも積極的なチャンスを与え、保護育成が求められて来ました。
例えば母子家庭のような市民弱者に育つ子供でも、学ぶ意欲さえあれば家計に左右されない教育支援で、無理なく大学、大学院教育まで受けられる制度もその一つです。
また労働者は、労働時間や休暇日数の厳しい保護規定や安心できる社会保証制度で保護されて来ました。
また小規模な商店も、1956年に制定された「閉店時間法」(1996年に改正されるまで店舗の営業時間は、平日午前7時から午後6時30分まで、土曜日午前7時から午後2時まで、日曜日は例外を除き営業禁止されていた)や規模規制で手厚く保護されて来ました。
それは市民の労働時間を守るだけでなく、歩いて買物ができるスローライフの信頼あるお店を育てたと言えるでしょう。
また中小企業は、50年代末までに成立された「競争制限法」の大企業のカルテル形成や市場支配力の乱用規制で、企業規模が小さいことから生じる競争上の不利益が改善され、逆に企業の活力が育まれるよう指導されて来ました。
すなわち連邦政府及び州政府は、中小企業を資金助成や経営相談から研究開発や販売指導だけでなく、各地域にくまなく職業訓練所を作り、労働者の技術向上に献身しています。
それゆえに、ドイツの330万社にも上る創意工夫溢れる世界一の中小企業が生み出されたと言えるでしょう。

このようなドイツの「万人の幸せ」を目標とする社会的市場経済も、2000年以降EU拡大を通して急速に競争原理最優先の新自由主義経済に呑み込まれて行きました。
しかし「戦う民主主義」が根付いたドイツでは、既に述べたように2008年の世界金融危機を契機に社会的市場経済が再び蘇りつつあります。

そのような「万人の幸せ」を求める社会的市場経済こそ、破滅へと自ら落ち込んでいく世界の救世主です。
何故なら世界は2008年の金融危機にもかかわらず、その後も市場への投資規模を倍々と益々肥大させ、貴重な地球資源を乱獲で供給過剰にし、世界を未曾有の危機に陥れて行くからです。
すなわち現在の新自由主義市場経済は、世界の人々を困窮させるだけでなく、究極的には終末戦争へ(例えば北朝鮮の暴発は時間の問題と言われるように)、自ら破滅へと突き進んでいるように見えます。

「万人の不幸せ」を招くアベノミクス

日本のアベノミクスを「万人の幸せ」を求めるドイツの社会的市場経済から見れば、金融緩和による円安誘導や法人税減額に見るように、強者のためのアメリカ主導の新自由主義経済以外の何者でもありません。
例えば現在沸き立たせている介護離職問題や待機児童問題では、現場の介護職員や保育職員の慢性的不足原因は賃金が重労働にもかかわらず、将来の生計の目処も立たないほど低い水準に据え置かれていることに他なりません。
山尾志桜里議員の国会での執拗な追求にもかかわらず、具体的賃金の引き上げは明言されていません。
もし本当にアベノミクスが国民の賃金を上げる気があるなら、明らかに問題のある賃金から引き上げて行けば、国民全体の賃金上昇波及も実現可能です。
しかし強者のためのアベノミクスの本当のねらいは、実質賃金降下で世界のボトム競争に勝てる競争力強化にあると言えるでしょう(それゆえに弱者にはまるで見せ金のように、絶えず一時金がばら撒かれるわけです)。
その証拠にアベノミクスの3年半、公約とは裏腹に実質賃金は下がり続けています。

このような詐欺もどきのアベノミクスやり方は、決して日本だけはなく、(現代の植民地主義とも言える)新自由主義に支配される世界の教義と言っても過言ではありません。
例えば原発を推進するために、「原発はクリーン、安い、安全」が少なくとも福島原発事故前まで世界各地で明言されていた事実からも明らかでしょう。
何故このような事実とはアベコベの詐欺もどきが明言されるかは、強者支配の欲望にあり、富への欲望に他なりません。
そのような目論見が隠されているアベノミクスは、未曾有の恐慌を招くだけでなく、過去に繰り返してきた戦争へと導いて行くことは必至であり、「万人の不幸せ」を招く何者でもありません。