(286)万人の幸せを求める社会(ドイツ子供ニュースによる幸せ追求)第3回社会に理想を求めるドイツの教育

ドイツの戦後の教育は歴史に目を閉ざさず(学習カリキュラムでホロコーストを学ぶことが義務付けられ)、社会に目を開くことが求められて来ました。
今回のフィルムで紹介された、ドルトムントのハウプトシューレ(基幹学校)での社会科授業はそれを象徴しており、ギリシャマケドニア間の国境に足留めされている避難民を支援する学生たちとの話し合いはリアルな実践と言えるでしょう。
それはドイツの教育では、子供たちが社会に理想を求めることが目標とされているからに他なりません。
すなわち戦後のドイツはナチズムを二度と許してはならないという強い反省と決意に基づいて、初等教育から生徒たちの批判力を養い、健全な市民の育成を目的としたからです。しかもそこでは、ヘルムート・ベッカー教授が提唱する「競争よりも連帯を育む教育」が、小学校から大学まで無料の徹底した機会均等教育で実践されて来ました。
事実シュレーダー前首相やベルリン市長ボーべライト(現在3期目)のように貧しい母子家庭でも、本人に学ぶ意欲さえあれば、大学だけでなく、さらなる高等教育も可能にする仕組みを創り出して来ました。
もっとも大学に進学するためには、4年間の小学校出た後進学教育の9年制のギムナジウムへ入学することが求められ(事実上成績によって振り分けられ)、60年頃においては全体の生徒の3分の1にしか過ぎず、残りの大部分の生徒は職業職業教育のハウプトシューレ(基幹学校)に進み、職業学校を経てマイスターや企業で働く技術専門職が目標とされていました(その中間の実業学校レアルシューレや15歳まで進学教育と職業教育を均等に学ぶ総合制学校も在ります)。
確かにギムナジウムはエリート要請の温床という批判もありましたが、ドイツ社会ではマイスターや技術専門職に高い評価がなされてきたことも事実です。
またギムナジウムの各学校単位で行われる実質的に大学入学を認める卒業試験(アビトゥア)では、口頭試験が半分近くを占め、社会をよりよく変える批判力が求められていました。
しかしドイツにおいても2000年以降シュレーダー政権の競争原理優先の「アジェンダ2010」新自由主義政策が進むなかで、一部の州で大学授業料制度が導入され、ドイツ特有の13年間の初等教育が12年間へと短縮が求められていきました(ターボアビトゥア)。
そこでは私のブログで既に述べたように、競争教育の激化で生徒たちの心と身体を蝕むだけでなく、教育が格差を生み出す原因にさへ変質させて行きました。
すなわち新自由主義規制緩和でマイスターなどの資格制度が実質的に取り払われるなかで、ハウプトシューレがギムナジウムで上級へ進学ができない生徒の受け皿となり、劣等感なしには通えない学校と揶揄されていました。
しかし2008年のドイツの州立銀行を実質的に破綻させた世界金融危機カジノ資本主義と呼ばれる新自由主義が見直されると、大学授業料を導入していた州も州選挙で再び無料化に戻り、競争原理を優先する教育も見直されつつあります。
すなわち大学への進学が小学校入学後12年するか、13年にするか自由な選択が尊重されるようになると、ハウプトシューレも再び見直され、再生可能エネルギー社会の担い手を養成するだけでなく、ドルトムントのハウプトシューレのように社会に理想を求める健全な市民育成へと戻って来ていると言えるでしょう。

競争原理を最優先する日本の目論見

今年から日本においても18歳選挙権導入を機に、これまで実質的には政治的関心を持つことががタブー視され、タブー視されているゆえに若者の間で政治的議論をすることがダサイとさせてきた日本で、逆に積極的政治的議論や参加が求められています。
その背景には、隠されている意図を感ぜずにはいられません。
それはかつての世界が意図したように、「青少年を掌握するものが未来を掌握する」というファシズムの教義が台頭してきたことに他なりません。
競争原理を最優先する新自由主義世界では、格差拡大が一部の若者を体制批判へと向かわせることも確かですが、教義である「自己責任」洗脳された大部分をナショナリズム、さらにはファシズムへ向かわせることが鮮明になってきています。
それは最近のハンガリーポーランドの独裁政治へ向かいつつある現実や、EU諸国の極右勢力の台頭が実証しています。
そうしたなかで安倍政権の憲法第九条改正への思いは強く、今年の年頭には夏の選挙の国会議員数3分2獲得で意を同じくする政党と共に、憲法改正を目指して行くことを国会で明言しています。
しかし日本の国民は集団自衛権容認後も過半数を超える多くの人たちが憲法第九条の改正を望んでおらず、たとえ衆参議会の3分の2で改正決議ができたとしても、過半数の国民合意を得ることは容易ではありません。
憲法改正がなければ、日本の海外進出での護衛やアメリカの世界のポリスの役割を一部担うことで攻撃されれば、最低限の反撃は有り得るとしても、普通の軍隊を持つ国のように機能させることは殆ど不可能です。
それ故、憲法改正の突破口として18歳選挙権導入の目論見が見えてくるわけです。
すなわち新自由主義の格差拡大は、世界の若者の抗議が拡がるなかで、同時に多くの若者を異質敵視へと向かわせることに着目し、18歳選挙権導入で若者全体に熱狂的なナショナリズムを湧き上がらせ、憲法改正の突破口とする目論見が見えて来ます。
何故なら不公正がまかり通り、圧倒的支配で政治がタブー視されている生き難い社会では、引き金さえ引かれれば、ポーランドなどで見るように正義を求めるナショナリズムが爆発的に拡大するからです。

しかしそのような憲法改正を許せば、再び日本を戦争へと駆り立て、日本を破滅へと導くだけでなく、愚かな人類を核戦争で破滅へ導き兼ねません。
それ故に18歳選挙権導入による若者の政治参加を求める機運を逆手に取って、社会の不公正を異国へのハラスで解消するのではなく、本質的なものを自ら考える機運を高めて行くことです。
それは何故日本では、ドイツのように進学教育や職業教育が無償で提供されないだけでなく、母子家庭のような貧困家庭からはドイツのように首相やベルリン市長を生み出す高等教育を受けることが不可能であり、有償奨学金頼みの日本のエセ均等教育を考えることでもあります。
それを考えることは、日本の教育にも戦後の社会に理想を求める教育を蘇らせることにも繋がります。

もっとも現実的には今年7月選挙で平和憲法を守り、公正な社会、国民の幸せを問い直すことが先決でしょう。
憲法改正を希求する安倍政権は「希望を生み出す強い経済」として名目GDP600兆円達成、「夢を紡ぐ子育て支援」として希望出生率1,8の実現、「安心につながる社会保障」として介護離職ゼロを目標として打ち上げています。
どれも達成不可能であることはマスメディアさえ指摘しています。
何故なら達成を不可能にしている最大の原因は、競争原理を最優先する新自由主義政策にあるからです。
かなわない国民の願望を達成目標に掲げることで、国民の議会政治への不満を意図的に高め、大変革を目論んでいるように私には見えます。
しかし法人税減税を据え置き、現在の大企業及びひと握りの人たちだけ配慮された大減税を90年代当初に戻して行けば(現在のような産業への財政支援を創意工夫に任せて行けば)、国民の願望も、教育の無償化も、全てが達成されるだけでなく、エネルギー転換を通してドイツのように健全な均衡財政が実現し、万人の幸せを求める日本に変わることも可能です。