(285)万人の幸せを求める社会(ドイツ子供ニュースによる)第二回戦う民主主義・国谷裕子降板が意味するもの


AfD女性党首の過激な主張に戦う民主主義は機能するのか?



笑さえ溢れるメルケル首相
右派新党AfDの飛躍的躍進が意味するもの
ドイツの子供ニュース「Hallo bei logo!」では、3月13日の3つの州選挙が数日後に迫る中で、事前の世論調査で第3政党に迫る勢いの右派新党AfD「ドイツのための選択肢」を取り上げ、専門家にインタビューを試みていました。
その理由は、AfDが党の綱領で避難民の基本法に定められた庇護権を認めているにもかかわらず、過激な避難民を排斥する発言が目立ち、国境での制限を認めないメルケル首相をイディオット(馬鹿)と激しく罵っているからです。
しかも女性党首は上のフィルムで見るように、非常時(やもうえない場合)は国境での銃器使用も認められなくてはならないと明言しています。
それゆえ基本法に定められた「戦う民主主義(民主主義を守るために、民主主義を破壊・否定するような思想やそのような思想を掲げる団体は認めない)」に違反するという声も高まっており、他の政党の多くの議員がネオナチのように禁止を求める声も少なくはありません。
このフィルムでインタビューを受けるマインツ大学の専門家アルツハイマー教授は「国境での避難民の銃器使用阻止は憲法違反」と明言した上で、最初からAfDを拒否するのではなく、AfDの様々な問題点を議会で徹底的に議論していくことが、より民主主義を深化させていくことだと述べています。

また州選挙翌日14日のメルケル首相演説では、その下のフィルムに見られるように先ず敗北を認め、党内で今回の重い国民の審判を真摯に議論したと述べています。
そこには、避難民問題や避難民政策で明瞭な解決策を与えられなかったことを反省すると同時に、与えられるようにする決意と自信が感じられます。
またAfDの飛躍的躍進に対しては、議会でのAfDの徹底した議論で根本的に取組む姿勢を誓い、記者の質問に対しても絶えず笑がこぼれています。

AfDの綱領を見るかきり、反ユーロ色と通貨ユーロ廃止で各国独自の通貨使用の主張を除き、極右の過激な思想は見られず、自ら「普通の政党」をアッピールしていますが、選挙戦では避難民問題の不安を煽り、ドイツに潜在するナショナリズムを引き出すことで、飛躍的躍進を遂げたことは明白です。
昨年の10月のポランドの選挙でも右派政党「法と正義」(「連帯」右派から生じている)が避難民問題の不安を煽ることで政権を取るや、既にのべたように憲法裁判所の仕組みを議会決議で変え、実質的に機能を奪っています。
何故ならポランド憲法(1997年の改正憲法の第13条)では、ナチズムなどのファシズム共産主義政党を禁止するだけでなく、人種差別や民族的増悪行為が厳しく禁止しているからです。
こうした憲法裁判所の機能不全を激しく批判していたポーランド公共放送は、昨年末の議会決議で国家放送へ改変され、完全なメデイア支配がなされています。
ドイツの新聞や他のメデイアはこうした独裁支配を昨年末から1月中旬までは激しく批判していましたが、ポーランド政府からの強いドイツ政府への抗議で、それ以降は殆ど批判記事が自粛されています。
私見を述べれば、これらの政党のやり方は避難民(かつてはユダヤ人)への憎悪と無能な政府の激しい攻撃で、規制なきグローバル競争で益々拡大する格差不満を発散させ、国民に潜在するナショナリズムを煽り、政権を手にするやナチスもどきの独裁政権へと変貌していると言えるでしょう。
すなわち右派新党「ドイツのための選択肢」も、最早右派ポピュリズム政党といった大衆迎合政党を越えており、来年のドイツ連邦議会選挙でも今回のような飛躍的躍進を許せば、ナチズム再来の可能性も出てきます。
もっともメルケル首相の笑みからも、少なくとも来年の連邦議会選挙までには避難民問題も一定の解決がなされ、AfDの連邦議会への進出はないと私自身は思っています。
何故ならドイツでは、教育の目的として社会への理想が初等教育から求められほどに、戦う民主主義「他人の自由や権利を否定する自由は認められないだけでなく、許されない」が深く浸透しているからです。


国谷裕子降板が意味するもの
私自身、絶えず思いやりのある公正な視点から真摯に報道されて来た国谷裕子のNHK「クローズアップ現代」から学ばせてもらったものは決して少なくありません。
降板の理由は既に世間で言われているように、2014年7月3日、集団的自衛権の行使容認をテーマにした「クローズアップ現代」で官房長官菅義偉への質問が、事前に提出されたものと異なり、官房長官が国民に納得いく返答ができないだけでなく、言葉さえ見つからなかったことへの激怒の報復だと言われています。
具体的には国谷キャスターが筋書きにある質問に交えて、「他国の戦争に巻きこまれるのでは」や「憲法を解釈で変えていいのか」と言った国民の素朴な疑問を、報道担い手の使命として聞いたことにあります。
その背景には、安倍政権では「集団自衛権」の憲法解釈改変に見られるように、これまでの常識ある見識保持を破り、公共放送の会長及び経営役員を安倍色が強いだけでなく、世間からも右派みなされる人たち4名を任命することで経営支配し、少なくとも政治報道に関しては公共放送を国営放送に改変していることにあります。
事実NHK政治部の記者報道は、既に多くの識者が指摘しているように、まるで安倍政権直属機関の記者でもあるかのように、集団自衛権憲法解釈変更では安倍政権の主張が一方的に代弁されています。
そのような中で、国民の夕べに報道される「ドキュメンタリー現代」は絶えず公正な視点で報道しようとする意思が感じられました。
特にそのキャスターである国谷裕子の報道には、国民目線で公正に見ようとする真摯さが感じられ、結果的に政府批判と見なされ、今回の降板になったように思います。
このような当たり前の報道が葬られていく日本は、多くの国民がその真相に気付いていないことからも、私の目にはポーランド以上に深刻に見えます。
事実昨年から、安倍政権が「集団自衛権」の憲法解釈による改変が整合性がないことから当たり前の政府チェック機能の報道に対しても、強い報道圧力をかけられたことは周知の事実です。
すなわち安倍政権では、戦後放送の自由を目的とした「放送法」の第4条「事実を曲げない」という言葉を見つけ出してきて、どのような政府批判もその条項に抵触すると(安倍政権の独自解釈で)真実をねじ曲げ、かつて歩んだ大本営独裁への道を突き進もうと言っても過言ではありません。
それはまさに、日本の民主主義が崖っぷちにあることをことを物語っています。