(370)司法官僚支配を正せ・ドイツから学ぶ未来(13)ワイマール共和国(官僚支配)からドイツ連邦共和国(官僚奉仕)への民主的革命(5)

あせ

 

変えなくてはならないのは司法官僚支配

 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。
上の憲法九条第二項で、憲法自衛戦争も認めていないことは明白である。
それは戦後1946年当時の首相吉田茂が、「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と6月26日の衆議院本会議で述べ、28日の答弁で「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実であります。ゆえに正当防衛権を認むることが遇々戦争を誘発する所以であると思うのであります。...正当防衛権を認むるということそれ自身が有害であると思うのであります」と明言していることから、自衛戦争を否定していることは明らかである。
もっとも政治家が風見鶏になるのは中曾根康弘が元祖ではなく、吉田も時局が大きく変化するなかで50年警察予備隊発足に際して、「戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するのではないのであります」と意見を大きく変え、さらに52年の吉田内閣は、『憲法で禁じられた戦力とは、近代戦争遂行能力だ』という180度転換した解釈を打ち出し、警察予備隊を軍隊としての能力を備える保安隊に変え、現在の自衛隊の基盤を固めていったのである。
そして現在の政府は、これまでの歴代の政府が自衛隊を合憲とするも、集団自衛権の行使認めてこなかったが、恐るべき憲法解釈の変更で集団自衛権行使のできる安全保障関連法を、多数決の横暴さを示すかのように強行採決したのであった。
もし日本の司法がドイツのように政府から完全に独立したものであるなら、上のZDFフィルムに見るように、旅客機ハイジャックの際その旅客船撃墜を可能にする政府の法案決議(2004年)に、2006年基本法第1条「人間の尊厳は不可侵}などを理由に違憲判決を出し、ドイツ政府に法を無効にさせたように、集団自衛権行使可能だけでなく、イージス艦だけでなくイージス基地などあらゆる近代戦争遂行能力の装備は違憲であり、即座に政府に変更を強いると確信できる。
何故日本でそのような違憲判決が出されないかと言えば、司法が政府から独立していないからである。
それは司法が法務省に絡め取られていると言うより、戦後も司法は国民ために機能せず、国民に開かれず、司法官僚によって官僚支配も巧妙化され、政府自体も支配されて来たと言えるだろう。
その明かな証拠は、

私の見た動画46『日本人と憲法』 - YouTube

を見れば一目瞭然であり、改正草案の黒幕は大本営を支配していた内務省司法官僚の佐藤達夫(戦後の法制局長官)、林修三(内閣法制局長官)、高辻正巳(内閣法制局長官)であることは類推できよう。
前回第一次安部内閣法務大臣長勢 甚遠は「国民主権基本的人権、平和主義、この三つをなくさなければ自主憲法でない」との発言は、恐るべき発言に聞こえるが、戦後の司法官僚が作った憲法改正草案を見れば、単に脈々と受け継がれて来た法務局の本音を踏襲しているに過ぎないことが理解できる。
すなわち日本の戦後民主主義日本国憲法を通して、あらゆる分野で国民のために国家の奉仕を求めたにもかかわらず、それを追及することを怠るだけでなく、違憲状態に放置し、皆で渡れば怖くない方式で違憲を問わないように支配して来たと言えよう(政府、行政機関の行為を統治行為論などという不可解な論理で判断を避けて来た)。
それは憲法九条の平和政策だけでなく、教育では教育委員会の公選制を任命制に変えることで戦後の民主教育をエリート養成のための競争教育に変え、広島長崎の核廃絶の強い訴えを原発による核平和利用に180度転換させ、現在ではあらゆる分野で戦前のように利権を身動きできない程に蔓延させ、最早憲法解釈の変更だけでは前に進めない限界まで辿り着いたと言えよう。
それ故に憲法改正が求められているのであって、本質的な国益最優先の司法官僚支配をそのままにして、維新などが求める教育の無償化や本質を問うことなしに憲法裁判所創設の甘い誘惑を付足し、公明党支持が得られる自衛隊の九条加憲で国民投票が問われ、無制限なメディア宣伝で改正の第一歩が為されるなら、戦前のお国のため尽くす国民義務が、自衛戦争のためだけでなく、あらゆるところで求められて行くことは必至である。
ドイツでは上のフィルムで見るように、そのような日本とは180度異なり、基本法が国民のために機能するよう仕組まれ、基本法の番人である憲法裁判所が国民にガラス張りに開かれ(憲法裁判所長官が「裁判所は国民のサービス機関でなくてはならない」と明言する程に)、時の政府に厳しく是正を求めることから、新自由主義の襲来を受けて一時的に道を踏み外すことはあっても、政治さえ国益より国民のためを求めて来たといえよう。
すなわち政治はともすれば国益優先が国民のためになると誤った道を採ろうとするが、国民のために機能するよう創られた憲法裁判所が絶えず監視し、是正を強いることから、与野党も国民ためという一点で妥協せざるを得ないのである。
それが、憲法改正には連邦議会連邦参議院の議員の三分の二以上を必要とする高いハードルにもかかわらず(但し国民投票は不要)、六〇回以上も憲法改正が為されてきた理由である。

尚司法官僚については、進藤宗幸『司法官僚 裁判所の権力者たち』参照。