(102)オルターナティブな小沢一郎論。(5)デクノボウと呼ばれる女性議院擁立が鍵

三宅雪子福田衣里子江端貴子、中村美恵子、岡本英子山尾志桜里永江孝子青木愛太田和美田中美絵子らの若手女性政治家は、小沢一郎が発掘育成し、メディアは小沢ガールズと呼び2009年の新語・流行語大賞にノミネートされるほどであった。
2009年の衆議院選挙で小沢一郎が全国各地の自民党大物議員の地盤にこれらの女性候補を擁立し、政権交代のムードを高めて行った功績は評価されるべきである。
しかもそのように当選してきた女性議員たちを「目立つな、要職に就くな」などと、厳しく育成してきた。
それは、三宅雪子のインタビューを見れば理解できるだろう(注1)。
日本の政治が病んでいる原因は、戦後も継続されている無責任な大本営官僚支配政府にあることは明白であるが、それを許してきた政治家にも責任がある。
政治家の多くは元官僚であったり、中央に盲従する地域のボスたちであり、欧米先進国では考えられない世襲さえなされており、それが女性議員の発展途上国並に恐ろしく少ないことを物語っている。
それ故官僚支配政治解体と女性議員育成が今日の時代的要請でもあり、それを小沢一郎は的確に見抜いていると言えよう。
もっとも小沢ガールズとメディアが揶揄する若手女性議員たちは、大半が50歳前後で、決して若くない。
ドイツでは、2009年の連邦選挙で11、9パーセントの得票率で76議席獲得という飛躍的躍進を遂げたリンケ(左翼党)は、来年の連邦選挙でのさらなる躍進を目指して、今年6月の党大会で34歳という若い女性議員カチャ・キーピングを圧倒的多数の得票で党首に選んだ(注2)。
またメルケル政権の家族(高齢者、女性、若者)省大臣クリスティーナ・シュレダーも同じ34歳の若い女性議員である。
左や右に関係なく彼女たちに共通することは、特別な才能やコネ、タレント性があったわけではなく、若いデクノボウ女性議員であることだ。
すなわち生活や子育てなどで困っている人があれば、東西南北どこへでも進んで行き、デクノボウとして自分のことより他者のために奉仕してきたからであった。
そのような若いデクノボウ女性議員がドイツで活躍する理由は、労働政権のシュレダー政権に180度裏切られたドイツ国民が、最早巧言令色の経歴ある政治家を信用しておらず、市民に行動的にひたすら奉仕するデクノボウを切に求めているからだ。
私がドイツで暮らしていた2009年には、カチャ・キーピングは既にリンケの副党首という要職にあり、6月のZDF番組「政治家の3日間レポート」で彼女がインビス(ドイツのファーストフード店)で3日間女店員に挑戦する姿を見たが、客の受け答えから手さばきに至るまで、本物顔負けの女店員であった(注3)。
恐らく彼女がこの番組に出た意図は、9月の連邦選挙でリンケが最低保障賃金として時間給10ユーロを掲げていたからであり、番組でもカチャはインビスの女性経営者に、「経営者には大変なことかもしれないけど、市民みんなの時間給がよくなれば、もっとお店も繁盛するわ」と述べていた。
女性経営者は始めは「そんなに出したら、店がつぶれるわよ」と言っていたが、別れに際して「カチャは議員さんであるのが信じられないほどよくやってくれたから、私もカチャの時間給10ユーロを考えて見るわ」と、ポジティブに変わっていた。
それはまさに、カチャが知識や論議だけでなく、絶えずデクノボウとして他者に奉仕してきたからである。
日本でも今必要なのは経歴のある巧言令色の政治家ではなく、若いデクノボウ女性議員である。
それを実現できるのはイーハトーヴォの小沢一郎であり、オーガナイザとして日本新党田中康夫を登用して、全国300小選挙区にデクノボウたちを「オリーブの木」の統一候補として擁立すべきだ。
まだ選挙までには時間があることから(注4)、各小党はまず「オリーブの木」のテーブルに就き、若いデクノボウ女性議員擁立で競い合い、自らもデクノボウとして国民奉仕に徹すべきだ。

(注1)三宅雪子の「この人に訊く!」
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=vSkhyEfV4Jc#!

(注2)リンケ(日本では左翼党と訳されているが、ドイツ人はリンケと呼ぶ。Die Linke.PDS リンケ民主社会党)はドイツ統一後に設立された民主主義を基調とするPDS(民主社会党)を母体としている。PDSの前身は東ドイツの独裁政党のドイツ社会主義統一党(SED)であったことから、綱領に開かれた民主主義を掲げているにもかかわらず、連邦選挙では長い間低迷した。その理由は、絶えずメディアが党幹部のシュタージ(東ドイツの秘密警察)との関係を掘り起こし、恐怖の念を呼び覚ますからでもあった。そのため2003年の党大会では、「かつての共産主義の名において行われた犯罪と正面から対決し、独裁によって進歩を達成しようとする試みを拒否する」、「SEDはソ連への忠誠に固執し、社会主義を民主主義や自由に結びつける能力もなく、その路線は意見の異なる人間の迫害など文明への犯罪であった」(ウィキペディア抜粋)と自己批判した。また2005年の連邦選挙前にシュレダ新自由主義政権に追い出された元社会民主党SPD党首オスカー・ラフォンテーヌが率いるWASG「労働と社会公正のための選挙オルターナティブ」と連合し、8,7パーセントの得票率で54議席へと躍進した。そして2007年にWASGと合併し現在のリンケとなり、2009年には反新自由主義政策を全面に打ち出して、11,9パーセントの得票率で76議席へとさらなる躍進をした。しかし2012年5月のノルトライン・ウェストファレン州選挙では、路線対立などがメディアから攻撃され惨敗した。そうした背景もあり、6月の党大会では2013年連邦選挙のさらなる躍進を求めて、デクノボウのカチャ・キーピングを圧倒的多数で党首に選出したのである(実際は男性党首との共同党首制であるが、党もメデイアもカチャを党首として起用している)。

(注3)動画http://www.youtube.com/watch?v=qvAPXefP4S4
カチャの人物像を7月8日の日刊シュピーゲルから抜粋。

Wer ist Katja Kipping?
カチャ・キーピングはどのような人なのか?
Die Pionierin ピオニール(旧東ドイツの子供組織)所属
Katja Kipping wurde am 18. Januar 1978 in Dresden geboren. Die Mutter war Lehrerin, der Vater Ökonom bei Robotron. Als Schülerin war sie bei den Jungen Pionieren. Sie stand an der Schwelle zur Pubertät, als 1989 die Mauer fiel.
カチャ・キーピングは1978年1月18日にドレスデンで生まれた。母は教師であり、父はロボトロン社の管理者。生徒時代は彼女はピオニール青年団に属していた。1989年壁が崩壊した時、彼女は思春期の始まりに差し掛かっていた。
Die Engagierte 政治参加
Nach der Wende engagierte sich die Schülerin Kipping politisch: Jugendverein Roter Baum, Umweltgruppe Platsch, Schülersprecherin. Mit 20 trat sie in die PDS ein, ein Jahr später wurde sie in den sächsischen Landtag gewählt, mit 27 Bundestagsabgeordnete, mit 29 Vizevorsitzende der Linkspartei.
統一後女子生徒キーピングは、若者協会赤い樹、環境グルプPlatsch、そして学生スポークスマンとして政治的に参加した。20歳で民主社会党PDSに入党した。一年後ザクセン州議会議員に選出され、27歳で連邦議員、そして29歳でリンケ民主社会党の副党首となった。
Die Mutter 母
Im November kam ihr Töchterchen Natalja zur Welt. Die Erziehung will sie sich fifty-fifty teilen mit ihrem Mann, einem Politikwissenschaftler an der Universität Bremen.
昨年2011年11月に娘ナタリャが産まれ、養育はブレーメン大学の政治学者である夫と平等に分担している(結婚も昨年3月)。

(注4)本当は岡田副総理が漏らしたように選挙は2013年1月を予定していた筈だ。それまでに国民支持を回復するために、2030年までの脱原発宣言など、また玉虫色のマニュフェストを作らないといけないからである。今回の「近いうち」発言で、選挙は秋になるといわれている。しかし民主党議員の大半は任期までやりたいのが本音であることから、党首も9月に前原に挿げ替えて最初の予定の1月となる公算が大きいように思う。