(221)ドイツメディアから考える今22・・医療の理想を求めて10・『自宅で亡くなること4−4』・私自身の自宅での母の看取り

今回のフィルムは、母親に満足のできる最期を与えることができなかったマーク・カステンの署名運動が知れ渡り、連邦議会に招かれて発言することから始まる。
彼の主張は、不足しているホスピス施設や自宅での緩和ケアを改正された法案に従って早急に整え、亡くなる人の尊厳を全うさせることである。
そのためには痛みからの解放に加えて、親身な看護を通して家族を支援し、最後に相応しい時が持てることだと述べている。

ケルンの6人の社会参加の医師たちはなかなか進行しない緩和ケーアの実状の中で、遂に緩和ケアチームの会社をスタートさせた。
成り行きに任せるしかないと言いながらも、スタッフの一人一人の表情は輝き、苦しむ患者の所へ赴き生き生きと行動を開始している。
折しもハンナロア・ベーダ―夫人の容態が悪化し、駆けつけたステファニー女医によって痛みが緩和され、穏やかな表情で永眠した。
夫のグナ・ベーダーは愛する人を失くした悲しみにあると言いながらも、彼女の要望通りに自宅で痛みもなく十分看護され、寛いだ表情で永眠できたことに満足そうである。
そして公共放送ARDは、ハンナロアのような自宅で亡くなる尊厳ある最期が何時になったら実現できるかと問いかけている。

なんとか字幕を付けることができたが、私が公共放送ARDの『自宅で亡くなること』を採り上げたのは、現在の医療費に歯止めがかからず、2013年度には39兆円を突破し(11年連続で過去最高を更新)、最早将来は破綻しかない日本の現状と決して無関係ではない。
それについては次回の「医療の理想を求めて最終回」で述べたい。

*下に私自身の「自宅での母の看取り」を載せておきます。

私自身の自宅での母の看取り
既に書いたように父の病院での不条理な最後は、私にとってトラウマとなるほど最悪なものであった。
しかしそうであるからと言って母を自宅で看取ることなど、恐ろしく大変そうで、自信もないことから全く考えていなかった。
今考えれば父の病院で亡くなった際、母は何か月も父の横で寝泊まりし看病していたことから、病院での不条理な夫の死を通して自ら選択したように思う。
現在は母の自宅で亡くなる意思貫徹で、私自身も名古屋から300キロ以上離れた妙高山山麓の住まいで孤独死を理想とするまでに意思を固めているが、当時は自らのそのような死など一片も頭になく、母が亡くなることからも逃げていた。
しかも2000年春から始まり2007年1月1日自宅で亡くなった母の闘病生活は、私の生活を大きく制限し、それでも前へ進まなくてはならないというジレンマで徐々に疲労困憊させていた(注1)。
特に2005年末手術を断念してからの闘病生活は大変であり、2006年7月には下血が布団を真っ赤にするようになった際は私自身限界を感じ、2000年に蜂窩織炎帯状疱疹で入院した小布施のS病院付属のホスピスに相談に行き、入院日程さえ決めて来ていた。
しかし母は既に自宅で亡くなることを決めており、全く聞く耳を持たなかったことから、全てをキャンセルするしかなかった。
明らかに私は只々母の意思に従って介護し、心のなかでは必死に嵐の過ぎることを願っていた。
それ故当時の日々は、どこまでも沈んでいくなかで、必死にもがき苦しんでいたように思われる。
さらに9月には肺水腫から呼吸困難になり(60代より心臓の弁に問題があり、心臓肥大が手術断念の一つの理由でもある)、近くの県立M病院に入院した。
それは私にとって安堵でもあったが、3週間もしない内に譫妄が始まり、自宅へ帰ることをひたすら訴えた。
それ故病院の指示で自宅に酸素吸入器を備えることで、10月に退院した。
しかし11月には腰の痛み、さらには全身の痛みが最早鎮痛薬では治まらない程激しくなり、モルヒネの湿布薬を使用するまでに追い込まれて行った。
もっともモルヒネの使用で痛みを訴えることがなくなり、週末に訪れる子供たちやロスから看病に駆けつけた孫娘の前で子供の頃の炭坑節を歌ったりして、これまでの鬱状態が信じられないほどであった。

同時に眠る時間が多くなり、12月28日には食事もとらなくなり眠り続け、30日に妹や孫たちが駆けつけてきた時には意識ははなく、このまま行ってしまうように思えた。
しかし奇跡は元旦の朝に起きた。
朝食の後10時頃母を見に行くと目を覚まし、皆を呼ぶと嬉しそうに一人一人と手を取って一言二言話したのだった。
その際の母の表情が余りにも明るかったことから、このまま回復するのではないかとさえ思ったが、午後2時半頃皆の手をしっかり握り締め、安らかに亡くなって行った。

もちろんその後落ち込んだことも事実であり、悲しみを振り切るためにもやっとのことでドイツへ出発したと言えよう。
しかし最期まで母の意思に従い自宅で看取れたことは、時が経つにつれて輝き始めており、私の年齢も日々進み、社会情勢も益々悪化しているにもかかわらず、看取る以前とは異なって、風のような心の軽さで前に進んで行ける気がしている。

(注1)大腸がん手術断念までの経過
2002年1月初めて母の腰に激しい痛みが数時間あり、2月にも再び繰り返し、その際血便も出ていたことから大腸がんを疑い、上越市のT病院で精密検査した。
大腸の内視鏡検査を要望したが、母は50歳末より手の震えが始まり、その頃には震顫が激しくなり2リットルの腸洗浄液を飲むことができず(もっとも下血が頻繁になった2005年10月には入院して、肛門から大腸内を洗浄することで内視鏡検査を実施し、腸管を塞ぐほどの癌が見つかったことから、そのような選択肢があることが説明されていれば実施していた)、超音波検査、CTスキャナー検査、さらには大腸バリウム検査が実施されたが何れも異常が検出されなかった。
そのためF医師からは大腸潰瘍の可能性が示唆された。
病院の大腸潰瘍処方箋の薬を飲み続けることには抵抗があり、その後は小布施のS病院で震顫も含めて漢方処方を継続した。
その後2004年までは腰の激しい痛みもなく、軽い下血はあったが大腸潰瘍から来るものと考えた。
2004年秋首や肩に痛みが出てきたことから、T病院で精密検査を受けるが原因はわからず、震顫から来るものと示唆され、それ以来継続して鎮痛薬を使用するようになった。
2005年3月母の下血が少量ではあるが頻繁に起こるようになり、再度T病院でCTスキャナーや大腸抗体検査をする。
何れも異常は検出されなかったが、私自身不安であったことからF医師に執拗に尋ねると、5ミリ以上の腫瘍があればCTスキャナーで検知される筈と相手にされなかった。
しかし下血は少しづつ頻繁に多くなり、11月4日に検査した際はF医師も診察で下血を確認したことから、急遽入院して大腸内視鏡検査を7日に行った。
内視鏡検査では5センチもある腫瘍が肛門から30センチ上のS字結腸を塞ぐようにあったと、少し取り乱した表情のF医師がその場で告げた。
そのため早急の手術を決断し、手術に向けて検査などが始まって行った。
しかし病院で処方された下血剤の副作用で11日全身に発疹が出、12日早朝病院に行くと夜通し掻いていたこともあって母は虫の幻覚を見たと訴えた。朝は少し治まりかけていたが、再び処方された抗ヒスタミン薬で発疹と痒みが激しくなったので、薬による副作用(アレルギー)と思い、昼からの処方の出ていた抗ヒスタミン薬や注射をキャンセルした。そのため婦長が説得にくるほど一悶着し、結局夜遅くF医師が来て薬を変えることで落着した。
母も薬を変えることで痒みが徐々に治まって行ったが、私の病院への不信感は大きくなり、病院側も一旦13日退院し、21日に再入院して検査を始めることを急遽提案したことから、それに従った。
21日から再入院して検査が始まったが、1時間ごとの24時間尿採集検査では母の個室に付き添ったが、深夜に眠りに就くと起こされ母だけでなく私自身も寝不足で疲れ、こうまでして検査、検査を貫徹することに疑問を感ぜずにはいられなかった。
何故なら心臓検査(レントゲン、心電図、エコー検査)で以前から指摘されていた心臓肥大が進行しており、最初専門医は手術に難色を示したが、手術の方向で進んでいることから後日手術にリスクがあるとの説明で結局手術を容認したからだ。
そして手術が12月14日に決定し、11月29日に再び退院して12月9日まで自宅待機となった。
待機中はこれまでの病気経過から推測される癌転移や心臓肥大による手術リスクを考えずにはいられなかったが、結局手術する決意で9日に入院した。
しかし麻酔医の心臓肥大の状況から手術中に亡くなる可能性の説明、外科医から人工肛門になる可能性などの説明を受けると、決意が大きく揺らいだ。
さらに母に話すと、病院に入院する度に様態が悪くなることもあって自宅へ帰ることを望み、12日に駆けつけた妹とも相談の末、手術前日に断念して退院した。