(464)理想を追求するドイツの医療(2)患者に奉仕する医療を取戻すことができるか?

なぜドイツの医療に理想を感じるか

 

 前回のフィルムに見るようにドイツの医学部卒業生が、「患者への奉仕」を誓うピポクラテスの誓いは、戦後の教育の民主化で「競争より連帯を求める」理念が育まれているからであろう。

しかし私自身がドイツの医療に理想を感じるのは、身をもって体験したからでもある。

1992年の春、酸性雨による被害を探索するためシュヴァルツヴァルトの黒い森を何日も歩き回った。

そのため足が痛くなるだけでなく、疲労困憊した時、知り合った人から聞いたのが、バットヴァルトゼー(Bad Waldsee)のクワクリニック(温泉病院)であった。

紹介なし、予約なしの飛び込みであったが、病院は全く手続きなしで、温かく迎えてくれた。

医師の診断際40歳前後の愛想の良い男性医師が、症状だけでなく、私の要望を何でも遠慮なく言ってくれというので、日本では考えられないことであるが、「内服薬は余り飲みたくない、費用が余りかからないようにして欲しい」と、要望をすんなり言えたのも不思議であった。

医師は私の要望を汲み、3日間300マルク(現在の150ユーロ程)ほどの治療スケジュールを作ってくれ、毎日足だけでなく、首から下を温かい泥で包むクナイプス療法に加えてマッサージしてもらい、さらには泥風呂と水浴を繰り返した。

特に温かい泥で包むクナイプス療法は心地よく、3日間で単に足の痛みが取れただけでなく、体全体がリフレッシュできた。

そこでのクワクリニックで治療を受けている人は中高年者が殆どであり、プールで泳いだり、森の小道のワンゲルを楽しみ、さらにはビールを飲みながら談笑を楽しんでおり、病人という感じはまったくなかった。

ドイツの医療では、腰痛や高血圧などの慢性疾患に対して保養地のクワクリニックでの治療が推奨されており、医師の診断書さえあれば4週間の治療休暇が有休を使って与えられ、費用は健康保険で100%賄われると言うことであり、そこでの雰囲気には、医療の理想を感ぜずにはいられなかった。

そのような理想的医療が、アメリカ及びイギリスの凋落を受けてレーガンサッチャーの競争原理最優先の新自由主義に呑み込まれて行き、2004年から始まった包括支払い制度によってドイツの多くの医師が燃え尽きており、長年この医療制度と向き合ってきた保険大臣ラウターバッハが、昨年12月6日に医療革命を宣言したのであった。

それを単なる医療改革と呼ばずに、医療革命と保険大臣が言うのは、下の昨年10月25日のZDFフロンターレが描く『病院医師は限界』を見れば明らかだろう。

 

どうすればドイツの医師たちは救われるか?

 

 なぜドイツの病院医師が限界なのかと言えば、上に載せたZDFフロンターレが昨年の10月25日に放送した『病院医師は限界』がその実態に迫っており、チム・アルドナルドのような集中治療室専門医が16時間連続勤務に加えて、週65時間という過剰労働を強いられているからである。

過剰労働が強いられる理由は、医療に利益追求を求める包括支払い(報酬)制度が2004年から導入され、小児科などの病棟は労力と多数の手がかかるにもかかわらず、包括して支払わる額が少ないことから、支払われる額の多い手術主体の病院になって行くからである。

すなわち病院に利益を生む内科や外科などの手術数が増やされ、必ずしも必要としない患者まで手術をすることで、全体でベッド数が2倍に増え、入院患者倍増によって労働も倍増したからである。

また包括報酬制度で支払を受けるために、医師が翌日患者に使用する薬に対して、副作用やこれまでの効果について書き込んでいくという官僚的事務作業が必要となり、毎日3時間も費やさなくてはならないからである。

そうした医師を限界にする理由は、下に載せた『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-2』でも強調されていることであり、その理由が明きらかでも、解決方法となると見つからないのである。

例えばこのフィルムでも描かれているように、信号機連立政権の協定では医師の官僚的(事務作業)撤去法案が合意されているにもかかわらず、具体的にどうするかでは、現在の経済利益を求める医療の枠組では見つからないのである。

それ故現在の経済利益を求める医療を患者利益を求める医療に大転換する必要があり、転換することさえできれば官僚的事務作業は不必要となり、すぐさま撤去できるだろう。

しかし既に利益を追求する経済構造が出来上がっているからこそ、保険大臣が医療革命を宣言しても、その達成を疑問視する人たちは決して少なくない。

 

医師の使命が人間の商品化によって損なわれている

(『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-2』)

 

 今回のフィルムは、アンケート調査でドイツの医師の71%が過重労働による睡眠不足と疲労から健康を害している実態を問い正すことから始まっている。。

医師連盟のマールブルグ連盟の代表は、医師たちが経済圧力によって「仕事へのモチベーションが弱まり、医師の健康は過重な労働時間構成で損なわれ、患者への集中力が低下し、病院の経営に甘受し、医師は消耗していきます」と語ってくれた。

それゆえ取材班は、なぜ病院は医師たちに経済圧力強いなければならないかを、レマーゲン市(ケルン近郊の都市)のマリア・ステルン病院で問い正している。

その病院は人々への奉仕を理念としたカトリック病院であり、病院自体が経済圧力の犠牲者であることから、病院代表は積極的に説明してくれる。

その説明によれば、現在の包括報酬制度では関節骨折の手術の6日間の入院治療で3200ユーロに対して、病院が費用のかかる緩和病棟の6日間の入院治療では2300ユーロしか支払がなく、病院の運営自体が危うくなっているという。

その病院の緩和病棟医局長のロウエン医師は、「瀕死者が静かに横たわり、全く和らいでいることは素晴らしいことです。本質的にはそれが医師として奉する本来のやり方です。人間は苦しみにあり、この苦しみをできるだけ和らげるべきです」と慈愛に満ち溢れた表情で語っている。

しかし現在の包括報償制度に対し一転して、「私たちを明らかに駆り立て、憤慨させるものは包括化であり、人生の最後の道のりでの人間の商品化です」と怒りを露わにしている。

そして、人間の尊厳を守る最後の砦である緩和病棟が経済的採算が取れないという理由で、多くの病院で廃止を余儀なくされている愚かな現状を嘆き、訴えている。

もっともドイツの緩和ケアは日本から見れば、驚くほど進んでおり、国民の殆どが自宅(老人ホームを含め)での死を望んでいることから、終末期の患者は自宅での看取りが基本となっている。

しかし自宅での看護が難しくなると、ホスピス(注1)に移り最後の時を過ごすのであるが、さらに痛みが激化して瀕死の状態となると、病院の緩和病棟への入院で痛みの和らぐ医療処置をし、痛みが和らいだ患者は再び自宅やホスピスに戻り、痛みに苦しむことなく尊厳ある最後を迎えれる配慮がなされている。

そのような仕組が、ドイツでは既に十数年前からできあがっている。

地域の病院の緩和病棟がなくなっても、緩和ケアの専門医師と看護師からなる

専門チームが自宅やホスピスを訪問することで、基本的に「自宅での見取」が守られいると聞く。

しかし、近くに病院の緩和病棟がなくなれば、瀕死の状態に陥っても四六時中の看護ができないことから、穏やかな死を望めないことも確かである。

話をフイルムに戻せば、患者は十分治癒していない状態で早期退院が経済的利益追求で為されるにもかかわらず、ドイツの病院は半数が赤字で危機にあることが見えてくる。

それに対してドイツ病院組合(DKG)の代表は、包括支払いをする疾病金庫と補足する連邦金庫からくる病院の財源が本質的に足りないからだと強調する。

そのため病院は利益追求に邁進せざるを得ず、その圧力が医師に回されているのである。

それ故ドイツは医師不足にもかかわらず、毎年凡そ2600人の医師が外国へ逃げるように出て行くのであり、取材チームはスウェーデンに移住した元病院医長アンドレアス・ヴェスコット医師を取材している。

そこでは、病院側の利益追求のため手術を前年の3%増やす補足契約を強いられ、それを非人道的で倫理的に許されないと思いつつ、為さざるを得なかった苦しい実状が語られる。

そのような苦しい思いの吐露にもかかわらず、ZDFレポーターは容赦なく、「しかしあなたは、契約に同意署名しましたね。何故ですか?」と厳しく問い正しており、まさに日本にないドイツだと感じた。

それに対してヴェスコット医師が、「全く交渉余地がないなかで、やりませんとは殆ど言えないでしょう。何故なら私のように出ていかねばならないからです」と真摯に答えるのも、まさにドイツである。

 

(注1)ドイツのホスピスは、日本のように高価で医師のいる病院ではなく、医師抜きの看護師や介護士中心に運営され、周辺に暮らす会社員から裁判官に至る幅広い層の休日を利用した市民のボランティアから成り立っており、保険で賄われていることから、終末期にある者が望めば誰でも利用可能である。

ボランティアの主な役割は、身寄りが近くにいない亡くなる人たちの聞き手となって、看取りに奉仕しすることであり、既にブログに詳しく述べているので参照して欲しい。

https://msehi.hatenadiary.org/entry/20141023/1414054895