(465)理想を追求するドイツの医療(3)多難な医療革命・医療の理想は取戻せるのか

多難な医療革命

 

 1月に入り、フイルムで見るように、ようやく医療改革で州との折衝会議が始まった。

ラウターバッハ保険大臣は、「私たちは、病院部門の必要不可欠な革命の前夜にあります」と革命を今年夏までに断行するつもりである。委員会での専門家は、移行期間に5年間を提案している。

そのように医療革命が最初から長期化が予想されるのは、これまで包括支払い制度の問題が10年以上前から指摘されて来たにもかかわらず、解消されて来なかったことからも頷けるだろう。

包括支払い制度はシュレーダー政権のアジェンダ2010(新自由主義政策)で、2004年に開始されたもので、疾病金庫から診断症例別に病院に定額の支払いがなされることで、患者の入院期間を短縮するインセンティブを働かせ、病院の収益性を高めるねらいがあった。

何故なら包括支払い制度には、治療期間、治療スタッフの数、投薬量などが一切が考慮されていないからである。

だからと言って、戦前のナチズムの反省から患者への奉仕を誓ったドイツの医療が、患者の治療に手を抜いているわけではない。

ナチズムの深い反省から創られた基本法では、「国家が国民に奉仕する」ことを求めて、第一条から第20条までを多数決では変えられない不可侵の法として、国民の幸せを最優先し、第20条1項で社会正義と社会保証の実現を掲げているからである。

そして2003年には、医師、患者、医療及び医療行政に関与する人たち全てで創り上げた「患者のための権利憲章」が出され、患者の自己決定権、医師の説明義務、良質の医療を求める権利、さらには医療訴訟での立証責任軽減など、世界に秀でた医療の理想を求めている。

そのような背景があるからこそ、シュレーダー政権から始まった競争原理優先の経済圧力のなかで、医師たちは苦悩しているのである。

ラウターバッハがこれまでに打ち出している医療革命は、包括支払い制度による支払いを60%に削減し、40%をスタッフなどの人件費や医療の質向上に変え、病院医療現場を救済するだけでなく、医療の理想を実現できるものに変えることである。

そのために病院を、家庭医と緊密な協力して応急治療する近くの病院、重点治療の専門病院、最高レベルの治療ができる大学病院に3つに区分けして、医療革命を実現していくと述べているが、具体的にはよくわからない。

なぜなら、ドイツの医療の基本は家庭医であり、市民の誰もが近くの家庭医を選び持ち、家庭医の手に負えないものは専門病院や大学病院に紹介するシステムであり、既にそのような区分けがあるように私には思えるからである。

ドイツの家庭医(開業医)は受持つ定員が限られていることから、日本のようなビジネス競争もなく、レントゲンなどの機器でさえないのが一般的であるが、受持つ患者の心配や要望親身に聞き、検査の必要性や手に負えない場合は、適切な専門病院や大学病院を紹介してくれることでは定評がある。

確かに患者は一旦家庭医を登録すれば、日本のように自由に医師を選べないが、患者の自己判断で医院を渡り歩き、その度に検査を繰り返す医療は考えものであるし、健康保険費用が枯渇する要因でもある。

尚ドイツの医療保険は日本のように国や市町村によって運営されるのではなく、地域や職種に密着し、弱者救済の社会的連帯を掲げる公益非営利組合の疾病金庫が運営主体であり、新自由主義の波が押し寄せた90年のドイツ統一までは疾病金庫の数は1000を超えていた。

しかし病院の民営化という医療の民営化が進行するなかで、疾病金庫間の競争が激化し、吸収合併を繰り返し、最近では100ほどに減少し、厳しい競争に晒されている(市民の疾病金庫に支払う料金は収入の14%ほどで、半分は雇用者支払いである)。

また病院の経営状態も、ドイツ病院協会(DKG)の調査で良好と答えたのは僅か6%であり、多くの病院が倒産の危機にある。しかしそうした経営危機にある病院が国際的投資会社のターゲットになっているのである。

公共放送ARDの調査では、既に数千の小さな病院が買収されており、眼科では500以上に上り、歯科、整形外科、婦人科、腎臓専門、内科などでも投機買収が為されている。

買収された病院は利益追求に特化され、例えば眼科では白内障手術を急増させて、より多く稼いでいる実態を明らかにしている。

しかもこうした病院の投機買収は過去3年で3倍に増加しており、益々増加することが予期されている。

このような状況にあることから、ラウターバッハは既に述べたように、病院の投機買収禁止を今年4月までに法案化することを約束している。

もしこれが実現すれば画期的で、新自由主義の金融自由化を崩すものであり、まさに医療からの革命と呼び得るものであり、そのような大きな視点でラウターバッハが医療革命の前夜と呼ぶことに期待したい。

 

スイスへ出た医師が蘇るわけ

(『ドイツの医療・理想が燃え尽きる理由3-3)』


 最終回は毎年凡そ2600人のドイツ医師が海外に出て行くが、その多くはスイスであるというナレーションから始まる。

ZDFは、スイスのアルプス温泉スキー保養地シュクオールの病院で院長として2007年から従事しているドイツ医師ヨアヒム・コペンベルクを取材し、ドイツとの違いを聞いている。

ヨアヒム院長は、「患者が今も尚最優先され引き続き第一の権利があることです。医師と介護する人が患者のための時間が持てることは非常に重要です。そしてここスイスでは、人は公正で理性あると思われる医療に置き換えるためにもう一つ別の価値観、可能性を事実持っています」と述べている。

具体的には、例えば頭痛と目まいを訴えて来た患者は少なくとも2日間入院してもらい、経過を観察する方法を採っていると明かす(すなわちドイツのように精密検査で疑わしい場合は、手術というような方法を採っていないということである)。

医師が経過を観察し、当面は大丈夫と判断すれば退院できるやり方では、医師も真剣にならざるを得ず、そこには患者とのふれあいがある。

経過観察の間は対症療法的に投薬や栄養補給などの処置が、医師の裁量によって施されることから、保険支払いを超える場合は助成金申請ができると満足そうである。

そこには、医師が経済圧力を受けることなく、患者に存分に尽くすことができ、生きがいが感じられる。

そうしたスイスでの噂を聞き、ドイツから抜け出してくる医師も少なくなく、4人の医長は給料的には期待できないにもかかわらず、自ら進んで応募して来たとヨアヒム院長は述べている。

こうしたスイスのやり方を調べてみると、ドイツのように過度に手術をしないことから人口当たりのベッド数は半分ほどであり、心筋梗塞で亡くなる患者が心臓手術で世界一の技術を持つドイツの半分というデータも出ている。

もっともこうしたスイスのやり方は、医療に経済的競争原理導入前のドイツの医療でもあり、医療革命では、これ抜きには成功しないだろう。

尚ドイツの医師の所得は、OECDの調査によれば平均で年間8万ユーロほどで、アメリカ、英国、スウェーデンなどに比較して、もちろん日本に比較しても著しく低い。

それにもかかわらず、むしろ給料が下がるスイスに出て行く医師が多いのは、医学生が卒業式で真摯に誓う「ピポクラテスの誓い」、「私の生涯を人の奉仕に捧げます。・・・私の患者の健康が、私の治療の最上の規律となるようにします」が心に育まれているからだろう。

そのようなことは日本では想像もできないことかもしれないが、大学受験や授業料のないドイツでは、幼少教育で自立と批判力の育成が最優先され、大学受験に替わる卒業試験(アビトゥア)では、百科全書的知識を求めるものではなく、考え方(論理性)が求められているからでもあろう。

そうした教育のなかで医学生は確かに成績優秀者であるが、自らの信念なくして医師を選択しないだろうし、それなくして務まらない大変な職業であるからだ。