(57)「ドイツから学ぶ99パーセントの幸せ」 第3回 万人の幸せを実現する教育

ドイツの戦後教育はナチズムを許した反省からなされたが、日本のように最初から民主教育が実施されたわけではなかった。
ナチズムに関与した多くの教員が大学から追放された後は、ナチス以前のワイマール時代の伝統的なエリート教育に回帰した。
すなわち少数エリートをギムナジウム(高等学校)で教育する3分岐型学校制度が再建されて行った。
この3分岐型学校制度とは、4年間のグルントシューレ(小学校)卒業後、3種類の学校に分かれる制度である。
ドイツの子供達は10歳で、大学進学を目指す9年間のギムナジウムと、マイスター(親方職人)を目指す5年間のハウプトシューレ(基幹学校)、そして中間の専門学校を目指す6年間のレアルシューレ(実科学校)に分かれ、その選択は60年代の教育改革まで成績評価で一方的に学校によって決められていた。
ギムナジウム進学者は全体の6分の1に過ぎず、7割近くの生徒はハウプトシューレへ通い、ギムナジウムがエリート養成の温床となっていた。
しかし「万人の幸せ」を掲げる社会的市場経済の興隆によって、教育の民主化と機会均等の権利が求められて行った。
そして60年から始まった民主教育改革では、「万人の幸せ」を実現する教育が求められ、3つに分岐されていた学校を1つに統合する総合制学校も建設されていき、具体的に教育の民主化が図られた。
また教育が親の経済状態で機会均等の権利が失われないように、小学校から大学に至るまでの全ての教育の無料化が実現されて行った。
さらに貧しい家庭には十分な金銭的支援を施し、71年にはバフェグ奨学金制度を設立した。
事実このような制度の下で、現在3期目を勤めるベルリン市長ボブェライトは、貧しい母子家庭にもかかわらずベルリン自由大学の大学院にまで学ぶことが出来、市民に最も人気のある市長として活躍しているのである。
そして教育の内容は従来の競争一辺倒のやり方が見直され、グループ学習などを通してレベルの高い生徒がレベルの低い生徒に教えることで格差を小さくし、連帯して学び合うことを求めた。
そこには、まさに「万人の幸せ」のために、連帯を通して格差の小さな市民を育成する理念があった。
そのような教育理念は、60年代の教育改革のリーダー的存在であったヘルムート・ベッカー教授の「競争より連帯を育む教育」として幅広く知られている。
このような連帯を求める教育の下では、ドイツの高等学校の生徒は、各学校の裁量に任された卒業試験(アビトゥア)に合格すれば、原則的に志望する大学の志望する学部へ入学できるようになっていた。
具体的な卒業試験の成績は、3分の2は最後の2年間の平常点で評価され、その平常点の評価には教育の理念が関与していた。3分の1は卒業試験の成績であり、その試験も口頭試問が半分近くを占め、決して百科全書的な知識ではなく、総合的な認識による批判力や創造力が求められた。
またドイツの大学は大学自身の選抜試験がなく、生徒は原則的に志望する大学で好きな期間学ぶことが出来た。
しかもドイツの大学は、日本のように大学間の格差もなかった。
これは「万人の幸せ」を掲げるドイツでは、敢えて戦前のフンボルト大学のようなエリート大学をつくらないように様々な工夫がなされていたからだ。
例えば、若い学者が末席の教授に昇格する際は、師事した教授のいる大学への就任は禁じられていたり、昇格する時は必ず他大学へ移らなければならないことが法律で定められていた。
また大学の予算にしても同様であり、人材や財源で格差をつくらない配慮がなされて来たからである。
そしてドイツの学生は、志望する大学で卒業時までほとんど試験もなくゆとりを持って自由に学べた。
もっとも卒業時の国家試験は(人文学部社会学部ではマギスター試験、理工学部、経済学部、教育学部はディブローム試験)非常に難しく、論文作成などで少なくとも2年間の準備が必要であり、ドイツの学生は大学を卒業するまでに平均7年を要した。
しかしこうした「万人の幸せ」を実現した戦後のドイツ教育も、必ずしも順風満帆ではなかった。
例えば教育改革の柱であった総合制高校への転換は、学力差の著しいなかでは難しく、さらに700万人を超える外国労働者の子供たちが殺到し、ドイツ市民の父母の側から反対運動が各地で起きたことから、70年代中頃に普及率が5パーセントに達した後は新たな建設は殆どされなくなり、総合制高校は多様な選択肢の一つとなった。
またドイツが戦後の奇跡の発展を遂げると、ドイツ市民は豊かになることで子供たちの大学進学を求め、選抜を求める産業社会の現実を通して理想との落差が拡大した。
そうした中で、ドイツにおいても学生運動が68年にはクライマックスに達し、そのような落差を社会変革で変えようとした。
具体的には、ドイツの大学では教授の権限が絶対であったことから、この権限を民主化することから着手され、教授だけでなく、助手、学生、職員など大学関係者すべてのグループ参加による共同決定権や運営機構が作られて行った。 
ブレーメン州ヘッセン州では、これらの共同決定権や運営機構を認める法案が70年に制定された。
しかしこのような変革の動きは、73年の連邦憲法裁判所の判決によって、突然停止へと向かった。
すなわち連邦憲法裁判所は、共同決定権や運営機構の合法性に触れることなく、大学教授の運営機構の決定に関する優先権を認めたのであった。
したがってブレーメン州ヘッセン州の共同決定権や運営機構を認める法案は、違憲という判断がなされ州法から取り外された。 
そして連邦政府は76年に大学大綱法を立法化し、大学設立、運営機構、法的監督、財政管理、人事を州政府の権限とした。
このような結果は、豊かになったドイツ国民が過激な社会変革を望まなかったことに他ならない。
こうしてドイツの大学運動は幕を降ろした。
しかし決して日本のように学生運動が衰退し、反動的に保守化が進められていったわけではなかった。
むしろドイツでは学生運動をバネとして、学生運動に参加していた人達によって70年代末には緑の党がつくられ、穏やかな社会変革としてのエコロジー運動を発展させて行った。
それは学生運動による過激な社会変革を望まなかった国民自身が、エコロジー運動による緩やかな社会変革を求めたからでもあった。