(60)「ドイツから学ぶ99パーセントの幸せ」 第6回 万人の幸せを実現させたドイツ社会が崩壊した理由 後編

シューレダー連立政権が1年後には公約の目標を180度転換し、新自由主義の推進に向かっていた。
それは、シューレダー連立政権が「第3の道」を唱えるイギリスのブレア政権と太いパイプを結び、着々と競争原理を最優先させる「リスボン戦略」の成立に向けて動いていた事からも明らかである。
もっともこの時点では「リスボン戦略」の中身がドイツ市民に十分知らされておらず、シューレダー首相の「雇用を創出することは正義である。雇用を創出するためには、賃金の抑制と社会保障費の企業負担分の軽減は不可欠であり、国民の連帯によって実現しなくてはならない」、「リスボン戦略の成立を通してより多くのより良い雇用を確保し、より大きな社会的結束を築くことを約束する」といった巧みな演説によって、多くの市民が騙されたと言っても過言ではない。
もちろん新自由主義の克服を求める評論家や一部の社会民主党議員は、その意図を見抜き、長年に渡って勝ち取ってきた労働者の権利や市民の権利が根こそぎにされると警告していた。
しかし多くの市民は、シューレダーの「連帯による雇用創出」という巧みな甘言に期待した。
それゆえ2002年の連邦選挙でも、僅差ながらシューレダー連立政権が再選された。
しかしシューレダー連立政権は、国民に信託されたことを逆手に取って、2003年に足枷となっていた労働市場社会保障制度を見直し、競争原理を最優先する「アジェンダ2010」政策を打ち出した。
そして「解雇制限法の緩和」法案の復活をはかり、企業が必要な時に自由に解雇ができるようにした。

また1999年に公約通り開始したエコロジー税制改革も、2003年には実質的に破綻した。
確かに輸送油(ガソリンやディーゼル)0、03072ユーロ/リッター、燃料油0,0205ユーロ/リッター、電力0,0105ユーロ/kwhの環境税導入によって、1999年の年金保険料は収入の20,2パーセントから0,8パーセント引き下げられた。
そして2000年にエコロジー税制改革維持法が可決され、2003年まで毎年輸送油0,0307ユーロ/リッター、燃料油0,0256ユーロ/リッター、電力0,00256ユーロ/kwhの課税が値上げされ、それに応じて年金保険料も毎年下げることを決定した。
しかし実際の年金保険財源は大幅な赤字が蓄積されていたことから、2001年には年金支給額を生涯平均年収の70パーセントから67パーセントへと引き下げた。
また2000年の年金保険料19,4パーセントは毎年0,1パーセント引き下げられ、2003年には19、0パーセントになる筈であったが、企業や高額所得者の税制優遇から財政難に陥り、2002年の19,1パーセントから2003年には19,5パーセントに値上された。
しかもこの間ガソリン価格や電気料金は環境税の課税を遥かに超え、倍増する勢いで値上がりし続けたことから、エコロジー税制改革の続行は停止を余儀なくされた。
ガソリン価格や電気料金の高騰の原因は、当時は国際原油価格の上昇とされていたが、その後も値上がりし続け、日本の半分以下であったガソリン価格や電気料金が現在では日本を上回るほど高くなったことから見ると、これまで規制されていた市場の寡占化が急速に進み、市場支配によって高騰したと言えよう。
このような市場の寡占化による高騰は、新自由主義の常道であり、シューレダー連立政権が新自由主義推進に転換した時から、新自由主義の目標とは相反するエコロジー税制改革の破綻は目に見えていた。

そしてドイツ市民の暮らしを急激に悪化させたのは、2003年1月から順次施行されて行ったハルツ法であった。
ハルツ法では手厚い失業保険の給付が労働意欲を削いでいるとして、32ヶ月の給付から12ヶ月の給付へと大幅に短縮された。
また全国にある雇用局は「ジョブセンター」に改編され、失業の届出を厳しくすると同時に、ジョブセンターで紹介された就労先を専門職でないという理由などで拒否することが難しくなった。
さらに2005年1月に最後に施行されたハルツ第4法によって、それまで失業保険期間を過ぎても専門職が見付からない場合、無制限に前の職場での総収入の57パーセント(保険期間中は子供世帯で67パーセント)が失業扶助されていたが、そのような手厚い扶助がなくなり、「失業扶助」と生活保護にあたる「社会扶助」を「失業給付2」として一本化した。
しかも「失業給付2」は資産査定によって預金などが当局によって自由に調べられるようになった上に、給付額も激減した(住宅手当などを除き旧西ドイツ州では月345ユーロ、旧東ドイツでは月331ユーロ)。
このような恐怖のハルツ第4法によって、ドイツの市民の暮らしは一気に質が低下しただけでなく、ドイツ市民の8人に1人が相対貧困者へと没落した。

このように豊かなドイツ社会を崩壊させた原因は、現在の民主党政権を180度転換させた原因が前の管首相や現在の野田首相の責任であるとするように、シューレーダー元首相や緑の党のフィッシャー元外相の責任であるとする声も未だに高い。
実際シュレーダは、新自由主義に反発する前の社会民主党党首のオスカラフォンテーヌ蔵相の首を切り、社会民主党から追い出した。
またフィッシャーも、緑の党の従来の考えとは異なるセルビア空爆を支持し、理想論者を緑の党から追い出した。
しかも両人は元学生運動の闘士であり、奇しくも98年の政権誕生後4度目の結婚を盛大に披露し、政界引退後シューレーダーがロシアの天然ガス巨大コンツェルンGazpromの企業顧問、そしてフィッシャーがBMWの企業顧問で高額な収入を得ていることから、裏切り者と呼ぶドイツ市民も決して少なくない。
しかしシューレーダやフィッシャーがいなくても、多少の違いがあったとしても、同じようなシナリオを辿ったことは明らかである。
何故なら90年に始まる新自由主義の政治支配やマスメディア支配によって、強い連帯を求めるドイツ労働組合総同盟(DGB)でさえ、91年の組合員1200万人から、2001年の770万人へと退潮が著しかったからだ。
しかも企業の共同決定権を握る従業員代表委員会の選出では、98年までは代表メンバーの3分の2が少なくともDGB傘下の組合メンバーであったが、第二次シュレーダー政権誕生の際は御用組合のメンバーが優勢となっていた。
そして御用組合を母体とした労働党政権は、産業と太い密着パイプを持っていることから、結果的に保守政党よりも、産業利益を優先する新自由主義を過激に推し進めた訳である。