(88)脱原発を求めて。(18)責任ある社会の構築

ストレステストの安全評価、政府首脳の再稼動しない場合の集団自殺発言、政府首脳のゴーサイン、電力不足の国民への恫喝にもかかわらず「原発ゼロ」が実現した。
それは多くの保守支持の人たちも、政府のやり方に不信感を募らせ、大部分の国民が望んだからに他ならない。

すなわちこれまで原発の絶対安全であると言う神話を作ってきた原子力ムラの原子力安全・保安院原子力安全委員会がストレステストで安全宣言をしても、これまで原発推進に加担してきた県知事や地方自治体首長からも異議が相次ぎ、原子力ムラの関係者以外は誰も安全宣言を信じていないからだ。
たとえコンピューターのシュミレーションによる想定される地震津波で安全のお墨付きが得られたとしても、それは最初からわかりきった筋書きであり、巨大地震が近づくなかで原発配管破断などの原発事故の全体像の検証もなく、再稼動強行に危険を感ぜずにはいられないからである。
また電力不足による集団自殺発言も、解消努力もなしに原発事故など恰もなかったかのように再稼動を求める三文芝居を、国民がTVタックル(注1)などのメディアを通して見透かしているからに他ならない。
しかも日本の電力は、企業の3249ヶ所の自家発電施設では6034,9万kwの発電が可能であり(原発60基に相当)、その稼働率は50パーセントほどであることから、これらの余剰電力が利用できれば電力不足になることはない(注2)。
しかし送電網を支配している電力会社はこれらの電力の利用を阻んでおり、政府も深刻な電力不足を予想するだけで、全くこうした不合理を正そうとしない。
不合理が正されないのは、日本社会全体が利権支配されているからに他ならない。
すなわち電力における利権支配の本質は、電気料金が「総括原価方式」(電力会社の利潤=総資産×報酬率)で決められており、必ず一定割合の利益が得られ、原発を建設すればするほど総資産が増えることから、利潤が増える仕組みにある。
そのような原子力ムラに関与する人たちだけが潤う利権支配構造が、今回の大震災でも食物などの放射能安全基準から除洗や瓦礫処理に至るまで、国民利益、そして国民の命よりも優先されている。
しかしながら明日にも未曾有の巨大地震の起きる可能性が示唆されるる中で、利権支配構造の容認を通して再稼動することは、日本の終わりだけでなく、自らの命の終わりを意味するに等しい。
そのような終わりを避けるためには、責任ある社会の構築が不可欠である。現在のような政治不信だけでなく、日本社会全体が不信の連鎖にある中で責任ある社会の構築など所詮絵に描いた餅と思うかもしれないが、以下の2項目を実践していけば必ずやドイツのような責任ある社会の構築は可能である。

1)日本の政治をつくりだす審議会の委員選出及び運営では、中立で公正な審議を実現するために担当職員(下級官僚)が自らの名前を筆記して、重い責任を担保して実施する。
(これまでの審議会は、結論が最初から官僚組織及び利権支配に関与する人たちの意向で決められており、担当職員は歯車の一部にしか過ぎず、審議委員の決定は係長、課長、局長、事務次官、大臣の承認で、最終的に首相が決定する稟議制で決定し、誰も責任を取らなくてもよい無責任制度である。ドイツの戦後の民主的刷新のように下級官僚に裁量権を移譲することで、責任ある社会の第一歩が始まる)

2)無作為に選ばれた国民が審議会に監視者として参加し、公正な責任ある政治を実現するために判定者としての役割を果す。
(健全に機能している国民参加の裁判制度のように、無作為に選ばれた国民が審議会に監視者として参加すれば、審議会がガラス張りに開かれだけでなく、半数のレッドカード判定で審議会自体の責任が問われるシステムにすれば、万一審議会に不正があったとしても、公正と責任ある社会を構築することは可能である)

このような審議会を原発再稼動だけでなく、これからの原発政策、そして最終処分場の問題においても実現することが重要であり、それを実現できるのは、国民の多くが「今度原発事故が起きれば、日本が終わる」と感じている今しかない。
そして国民の参加する審議会が実現すれば、日本もドイツのように責任ある社会となり、脱原発を選択する希望膨らむ社会に生まれ変わろう。


(注1)なぜ官僚主導になってしまうのか?
http://www.youtube.com/watch?v=QAt7RpYJfPA&feature=relmfu

(注2)緊急レポート 電力会社の利権を奪えば「脱原発できる!」「ニッポンの自家発電」はすでに原発60基分!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/7655