(166)ハネケ映画を通して現代を考える(14)セブンス・コンチネント後編・・・考えないことを強いる社会で今求められているもの(特定秘密保護法案)

ミヒャエル・ハネケが水槽破壊を娘エヴァの生への暴力として描き、ラストシーンの夫ゲオルクのフラシュバックで後悔を表現していたが、ハネケ自身の第七大陸を否定するものではない。
『セブンス・コンチネント』のファーストシーンのラジオから湾岸戦争のニュースが流れ、車内から交通事故目撃の際もテルアビブ空港のハイジャックニュースが流れ、人類を破滅へ導きかねない世界戦争、もしくは全体主義に急速に傾斜していく現代事象で描かれている。
そのような映画では、考えることなしには見られないと言えよう。
それは意図的であり、インタビューでも次のように明言している。
「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するならば、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら、後味の悪さを残すだけです」
「私の映画を嫌う人々は、なぜ嫌うのかを自問しなければなりません。嫌うのは、痛いところを衝かれているからではないでしょうか。痛いところを衝かれたくない、面と向き合いたくないというのが理由ではないでしょうか。面と向き合いたくないものと向き合わされるのはいいことだと私は思います」
まさにハネケの映画では、最初の映画制作から観る側に現代事象で考える事が求められていると言えよう。
何故なら新自由主義という悪魔のルーレット(ギャンブル資本主義)によって全体主義に傾斜する世界では、テレビ、ラジオ、映画など全てのメディアが産業側の監視圧力によって、観る側に考えないことが求められているからである。
それは日本で特に顕著であり、例えば2011年12月28日NHK放映の「「低線量被ばく揺らぐ国際基準」追跡!真相ファイル」では、1ミリシーベルト以下の極めて低い被ばくでも発ガンリスクが激増することを取材を通して描き、国が安全指針として採用している国際放射防護委員会(ICRP)の基準値に科学的根拠がないことを立証した。
さらにICRPの予算はアメリ原子力委員会日本原子力研究開発機構などの寄付で成り立っており、原発推進を求める側の委員会であることを検証していた。
これに対して考えないことを求める側は、「ICRP が採用している低線量の被ばくによるガンのリスクは、広島・長崎での被爆者(LSS 集団)の追跡調査の結果から得られたリスクの約半分だ」と、あくまでもICRP基準を絶対視し、「・・番組制作者は犯罪的なまでの知識不足・準備不足ということになる」と述べ、“BPONHKの捏造を調査せよ”と、明らかな魔女狩りを公然と行っている。
すなわち産業側を支える権威ある機関の報告は絶対であり、それを考えたり異議を挟むものは、国賊と呼ばれかねないほど全体主義への傾斜が強いと言えよう。
そうした中で現在国会に提出されている「特定秘密保護法案」は、官僚支配による全体主義の完成をもくろむ以外のなにものでもない。
鳩山政権誕生時に情報公開された憲法に違反する1960年の「核の持ち込み」の密約や1970年の「核保有を求めた西ドイツとの極秘協議」が全く追求されないで、鳩山首相の政治献金違反が連日のように激しく攻撃されたのは、今から見れば誰の目にも異常に見える筈だ。
すなわち「秘密保護法案」では、違憲さえ追求されない官僚支配国家の隠蔽をさらに強化し、“デフォルト対処”や“戦争のできる国へと導く”などの戦略が内部告発や国会追求されないように、一切の封印が狙われているように思う。
そうした視点からハネケを見れば、この映画は現代事象で考えを求める映画の金字塔であり、考えを求めない全体主義のアンチテーゼと言えよう。
まさにそうした映画制作こそが、ハネケにとって第七大陸であり、『アムール、愛』で見せたように、そのような姿勢で自らの死にも果敢に突き進んで行くことが究極の第七大陸であるように思う。
また私にとっても、そうした姿勢で自らの死にも果敢に向かって行くことは、矢川さんのような勇気はなくても、究極の第七大陸である。