(175)ハネケ映画を通して現代を考える(18)べニーズ・ビデオ後編・・古き竜に抗いて永山則夫裁判を考える

この映画の初めと終わりで少年たちが二度も歌う、「彼の古き竜に抗いて、死の口に抗いて、彼の恐怖に怯えることもなく、猛れ、猛れ、世界よ猛り立て。私はここに立ち、それを歌う」という合唱は、この救いのない物語のテーゼであり、私にはミヒャエル・ハネケのメッセージに聞こえてくる。
何故ならベニーの両親の家庭を守るという選択は、現代の新自由主義に生きる人々の勝者への選択肢であり、国益のために過ちも厭わないことが世界の国々の選択肢でもあるからだ。
この映画の父親ゲオルクは息子ベニーの少女殺シを冷静に分析し、極めて現実的に打開する道を求める。
母親アンナは社会的にも許されない息子の殺人で気が動転しているが、結局ゲオルクの考えに引き込まれていく。
すなわち、ベニーは何度も撃っていることから事故ではなく殺人であること、親に咎めがなくともベニーの一生が滅茶苦茶になること、親の仕事への影響も大きいこと、ベニーは少女殺シのことを誰にも話しておらず、誰にも見られていないことから死体さえ処理すれば、息子を守れるし、自分たちの仕事を含めた家庭も守れという選択である。
このような両親の選択は、映画に挿入されているコソボ紛争ネズミ講での国家や世界の選択でもある。
それは、セルビアが証拠を隠滅するために民族浄化を敢行し、世界がサブプライムという巨大なネズミ講を容認した選択であり、そのような国家や世界の選択は現在も継続し、世界の大部分の人たちは困窮を余儀なくされている。
それゆえハネケは、(植民地主義の)古き竜に抗いて世界よ猛り立て、と叫んでいるのだ。
そしてこの物語では、競争社会のなかで罪の意識さえ持つ余裕のない両親が、そうした社会が生み出した現実感のないモンスターとも言うべき息子の訴えで、逆に解き放たれ救われている。
それはまさにハネケの姿勢であり、世界の人々が現在の社会に抗いて猛り立つ姿勢を持てば、新自由主義の生み出したモンスター自身によって悪しき社会が崩壊し、生き易い世界を手にできるというポジティブな姿勢である。

そして敢えてこの物語の続きを考えれば、両親は執行猶予となるとしても、最早表社会では生きる場所がないことから、閉鎖していた農場を再開するストーリーが見えて来るだろう。
ベニーも10年程の少年刑を終えて両親の下へ戻り、競争原理の呪縛から解き放たれた両親の愛情で育つことで、犯した罪の重さと向かい合い、少女の両親への謝罪と贖罪を全うすることができよう。

そうしたことがドイツやオーストリア社会からイメージできるが、日本社会は殺人に対しては報復的であり、死刑制度を継続することで見せしめを求めており、一生を通して贖罪を全うすることさえ許されていない。
既に世界の140カ国では死刑制度を廃止しており、死刑制度に固守するのは中国を筆頭に58カ国である。
アメリカは欧米先進国では唯一死刑制度を保有しているが、半分の州では死刑制度を既に廃止しており、国としての廃止も時間の問題である。
日本においても死刑制度廃止を求める声は強いが、世論調査で国民の8割が死刑制度を容認していることを持って、廃止への道程が未だに見えてきていない。
しかし私自身は8割容認の実態こそが、それを望む人たちの作為を感じないではいられない(例えば死刑制度を廃止すれば、社会は益々凶悪化するといった宣伝で)。
昨年の10月に放映されたETV特集永山則夫100時間の告白・・封印された精神鑑定の真実」(動画)で、一審死刑判決を担当した裁判官豊吉彬は33年間の封印を解いて、4人を殺した人間を死刑にしなければ死刑制度が揺らぎかねないという意見が司法界に強く、精神鑑定を採用すれば極刑は無理であることから、最初から鑑定を採用しないことが決められていた、と勇気ある発言をしている。
この発言は司法の独立性に疑問符を投げかけるだけでなく、死刑制度の根幹に関わる永山則夫裁判から違憲裁判に至るまで最初から決まっており、このような裁判は形式に過ぎない疑惑を投げかけている。
すなわちドイツとは異なり政府が裁判官の人事権を全面的に持ち、法務局の出向を強いるなかで、明治政府以来司法が政府のお墨付き機関として利用されてきた疑惑である。

結局日本では報復としての見せしめだけが求められているのであり、罪を犯した人間が罪の重さと向かい合い、被害者側への謝罪と贖罪を全うすることが求められていないと言っても過言ではない。

*尚11月26日(火)の「大貫康夫の伝える世界」で、永山則夫の主任弁護士であった大谷恭子弁護士がVTRで出演し、永山則夫裁判の実態を語られます。