(194))地域分散型自給社会が創る理想世界への道11・・『第三次産業革命』(3、遊ぶために生きる)


フランスの哲学者サルトルは、自由に向けた人間の活動が究極的に遊びとなり得ることを見抜いた

リフキンの新しい未来・・・サルトルの“遊ぶために生きる”が実証される時代

リフキンは再生可能エネルギーがタダ同然の安さで地域に溢れることも想定しながら、近未来の産業構造の劇的変化に目を開こうとしていない。
それはリフキン自身が現在の政財界のリーダーたちに長年に渡って提言してきたからであり、1985年に執筆した『エントロピーの法則』では、「現在の産業構造は太陽エネルギー時代には、まったくそぐわないことがよくわかるはずである。というのも、現在の社会や政治体系を維持していくためには、現代社会のシステムにおけるエネルギーの流れを、高度に集中させておかなくてはならない(246ページ)」と述べている。

しかしこの30年でリフキンのなかでも大きな変化が起き、嘗てように太陽エネルギー時代を困難な避けられない道として見るのではなく、現在の危機を救う希望への道として見ている。

特に文明転換期の鋭い考察には目を見張るものがあり、「再生可能エネルギーは分散しているので、階層的ではなく協働的な指揮管理メカニズムが必要となる。この新しい水平型のエネルギー体制は、そこから生じる無数の経済活動に適用する組織モデルを構築する。そして確実に、より分散・協働型の産業革命によって、創出された富がもっとも分散的に共有されるようになる(174ページ)」と述べている。
さらに「質の高い生活」という夢の実現を、「第三次産業革命は、人類という仲間に対する関係や責任のとらえ方を変える。私たちは共通の運命を認識するようになる。大陸全体に広がる協働空間で地球の再生可能エネルギーを共有すれば、種としてのアイデンティティーについての新たな認識が生まれる。・・・これらの意識が“質の高い生活”を送るという新たな夢を、特に世界中の若者のあいだにすでに生み出している(323ページ)。」
すなわち従来の物質的な利己利益、自律、独立の追及ではなく、共通の利益、結びつき、相互依存を追及する“質の高い生活”へ進むと確信している。
そして第三次産業革命が生み出す科学について、「新しい科学は、自然を略奪し隷属されるべき敵と見なす植民地的な見方から、自然を育むべきコミュニティーと見なす見方へと、私たちを導く。自然を財産として搾取し、利用し、所有する権利は、自然を守り、尊び敬う義務によって抑えられる。自然の価値は、利用価値から本質的な価値へゆっくりと変わっている(327)」と述べている。
それは、人類がこれまでの自然に対する功利的生きかたから、生態系を尊重した規範的生きかたへの転換でもある。
具体的には「第9章協働の時代へ」で、企業利益を最優先する現在の形態から市民社会部門(非営利組織)での市民利益を最優先する形態への移行を示唆し、「協働時代は大量の賃金労働を終わらせるだろう(380ページ1行目)」と述べ、“深遠なる遊び”としての労働への転換を説いている。
すなわち、「何世紀にもわたって、人間は物質的な冨のあくなき探求のなかで機械となっていた。“働くために生きる”という人生だったのだ。第三次産業革命と協働時代は、人類に功利主義的世界の内側で送る機械化された生活から解放されて自由の爽快さを味わう機会をもたらす。“遊ぶために生きるのだ”(387ページ2行目)」(注1)と主張している。

私の考える“遊ぶために生きる”時代

再生可能エネルギーが過剰に溢れる地域自給分散型社会では、現在の石油化学製品が植物化学製品に置き換わって行く事から、麻やススキなどの植物原料が地域で自給栽培される。
それは一見第一次産業を蘇らせ、嘗てのように多くの人々が農業や林業で汗を流すかのように思われる。
しかし再生可能エネルギーが溢れる地域分散型社会では、現在北米の大規模農業生産地でGPS搭載の無人大型トラクターが夜間に耕運するように、ほとんどの仕事がコンピューター制御された機械で担われる筈だ。
まさにそのような新しい時代は、リフキンの言うように人間を機械労働から解放すると同時に、“人間本来の生き方”への回帰するものであり、サルトルの“遊ぶために生きる”時代である。
しかしリフキンは敢えて第三次産業革命を大きな視点でとらえ、地域自給分散型社会への劇的変化に目を向けていないことから、具体的な“遊ぶために生きる”時代の暮らしが全く描かれていない。

私の描く“遊ぶために生きる”時代の暮らしでは、地域自給分散型社会の市民は製造業であれ、農業や林業であれ、市民社会部門(非営利組織)で働いている(市場などの劇的変化は次回に述べる予定)。
働いているといっても従来のように機械と競ったり、機械を操縦して働いているのではない。
すなわち再生可能エネルギーが過剰に溢れる社会では、機械操縦から機械管理に至るまで全ての労働がコンピューターと機械ロボットによって担われており、完全に従来の労働から解放されているといえよう。
したがって社会市民部門で働く市民は、現場で機械管理の正常機能確認が第一の任務であり、常に現場での問題点を追求し、問題点があればどのように対処、改良していくかを全体で議論及び決定するのが第二の任務である。
しかしそれらの仕事は午前中に済ませることが十分可能であり、午後から外に出て第三の任務として社会奉仕活動に従事している。
そのような第三の任務は課せられているというより、積極的に介護や社会福祉、教育、環境に奉仕することで、これまで地域の日の当たらなかった生けるものすべてが輝くように自らを輝かせている。
またコンピューターと機械ロボットが労働を担う社会では完全週休3日制が実現し(生産現場は休みがなくとも、仕事の分かち合いで十分可能なことから)、市民はその余暇を利用して自宅付近の田畑で野菜や穀物有機栽培している。
そのような自らの食べ物も創る暮らしは、まさに“遊ぶために生きる”暮らしである。


(注1)リフキンはこの後自由と遊びの深遠な関係を見抜いたフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルの思想「人間が自らを自由であると認識し、その自由を利用したいと願うとき・・・その活動は遊びになる」を引用し、「私はさらにこうつけ加えたい。遊んでいるときほど自由を感じる瞬間が、ほかにあるだろうか?」と述べている。